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満州事変は侵略ですか?
満州事変は今で言えば、内戦状態のシリヤやアフガニスタンに進出して、新政府を作るような話だと思いますが、やはり侵略行為なのですか?
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- Reosoul
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満州事変で日本は支那を侵略した・・・大方の人はこんな歴史を信じてしまっています。しかし、なぜ事変が勃発したかはしらないし、満州と支那が別の国であることも知らないでしょう。満州事変は関東軍による自警行為の発動であり、満州国は満州の正当な所有者である満州族・清朝の復活です。 「侵略」の英語はAggressionです。プログレッシブ英和中辞典によると「 1 (…への)侵略行為, 侵犯, 攻撃;(権利などに対する)侵害*1 a war of aggression 侵略戦争」となっています。国士舘大学講師の倉山満氏によると、これは誤訳であり、本来の意味は「挑発もされていないのに先に手を出す行為」であり、重要なのは「挑発の有無」と述べています。どうも東京裁判のときに一般的な「侵略」を当ててしまったためのようです。これは重要な話でしょう。 清朝崩壊後、満州も支那も軍閥が跋扈(ばっこ)し、治安維持能力が低く、満州にいる日本人の生命と財産が脅かされ、「日支懸案370件」というほどでした。さらに条約違反によって満州の日本の権益が損なわれ、鉱山の爆破のほか、南満州鉄道だけみても1928年から31年の間、運行妨害171件、列車強盗189件、鉄道施設の略奪92件、電線の略奪26件も発生しています。日本の権益は日露戦争後に条約によって得た正当な権益です。それに対して軍閥は挑発行為を繰り返してきたのです。慣習国際法という概念は当時にもあり、満州にいる日本人の生命と財産が脅かされれば主権者たる満州軍閥は日本人を保護しなければなりませんが、それができないなら主権国家と呼ぶべきではないし、日本の関東軍は自警行為を発動しても法的にはなんら問題はありません。 1922年に中華民国に関する九カ国条約が結ばれており、中華民国の主権を尊重し、中華民国に独立と自助努力の機会を供与する条約であることを明記しています。これで満州国建国は違法だという人もいるようですが、満州は中華民国のものではありません。条約締結時にブリアン議長から「What's China?」と疑問が提示されましたが、曖昧なまま条約に至っています。歴史的経緯からすると満州は満州族のものであり、支那(China)は漢民族のもので、万里の長城に境界があり、現地の人々の意識もそのような意識でした。蒋介石の北伐は万里の長城が終点です。また中華民国は紛争に対する中立義務がありましたが、それを破って南京、漢口で各国大使館に対して殺人・略奪行為を行っています。もはや条約遵守に値しません。 1928年にパリ不戦条約が結ばれますが、この内容は現在のGHQ憲法九条の内容とウリ二つで、「国際紛争解決の為に戦争に訴えない」「国家の政策の手段としての戦争を放棄する」「あらゆる紛争または紛議の解決は平和的手段によること」というものです。結局米国が自衛戦争は禁止されていないという解釈を打ち出し、ここで早くも空文化してしまい、先にあげた「A war of aggression 挑発もされていもいないのに先に手を出す戦争」は侵略戦争として否定されるが、「自衛戦争」は容認するとしています。また英米は「自国の利益に関わることで軍事力を行使してもそれは侵略ではない」としています。しかも各国に自己解釈権まで与えられています。 これらのことを見ると1931年に関東軍の鉄道爆破によって満州事変が勃発しますが、合法的な自衛権の発動であり、その後の満州国も満州族の皇帝が即位し、各軍閥が従い、関東軍により治安が維持できるようになったということで、侵略でも違法でも何でもありません。
- jagd4
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この場合、侵略の定義(=どのような行為か)が問題になります。 このような質問は過去もありましたが、質問者も回答者もそれを明確にしない為に、 結果として ぼくのかんがえたしんりゃく を語る場になっていました。 私は、時代と個人の数だけある正義感とやらで、それを考えたり、 全てを知っている(と思っている)現代人の立場から、過去の暗中模索で苦悩していた当事者の行為を評価し、 彼らを悪人として吊るし上げることで、ごりっぱな人間 を気取る趣味はありません。 更に、私は「侵略」とは「行為」に対する評価であり、 「当事者がどのように思っていたか」や「どのような事情で行われたか(上からの命令であったか否か)」 は問題ではないと思っています。 >満州事変は今で言えば、内戦状態のシリヤやアフガニスタンに進出して、新政府を作るような話だと思いますが、やはり侵略行為なのですか? 回答:当時の国際法では、日本軍の行為を侵略と断定はできません。 内戦状態だったかもしれませんが、その状態でわざわざ他国に攻めて行って原因を作ったのは、中国の方です。 なので、両者を比較することは意味がありません。(理由は後述) 当時の国際法では侵略の定義は明確ではありませんでした。 よく、他国で戦闘をした=侵略 という短絡した安易な思考で結論を出してしまう人がいますが、それは間違いです。 侵略戦争が国際法で違法とされたのは、WW1後のパリ条約によるものですが、 その条約では加盟国の様々な事情で、侵略か否かの決定が 【当事国の裁量権に任せる】 となっており、これでは当事国が 「私は侵略をしました」 と言わない限り侵略にはなりません。 しかし、それでも侵略が違法となった以上、正当な戦争の条件である「自衛権」も問題になりましたが、 当時のアメリカは、↓のように言っています。 【この条約は自衛権を制限するものではなく、その内容と範囲は各国が判定できる】 【当事国が決定するものであり、その自衛の範囲は海外への軍隊の配備まで含む】 ↑は、他国に軍隊を出して戦闘を行っても、侵略の十分条件にはならないということです。 これでは侵略の定義など存在しないのと同じであり、事実上ザル法です。 他にも日本はパリ条約以外に、ソ連と↓の内容の 「侵略を定義する為の条約」 を結び日ソ間での侵略の定義を決めています。 1:先に宣戦布告する 2:先に戦争行為を行う その後、ソ連とオランダは日本に宣戦布告をしています。(それまで日本はソ連に↑の行為はしていません) これを侵略ではないというなら満州事変も同様です。 そして、ソ連のこの行為は裁かれておらず、それらの侵略行為の結果として占有された北方領土も返還されていません。 ↑のことは、東京裁判では全く問題にされず、日本だけが連合国の都合で侵略をしたと決め付けられ、多くの人が戦犯の冤罪で処刑されています。 満州事変についてですが、 満州が中国領であったと勘違いしている方がいますが、当時の満州の領有権は確立していません。 当時のアジア情勢ですが、 日清戦争で日本は遼東半島を獲得しましたが、その後三国干渉によって返還させられています。 その後、ロシアは義和団事件に乗じて満州を占領したため、日露戦争がおこります。 日本は日露戦争の勝利により、ロシアから満州鉄道を譲り受け、旅順、大連の租借権を得ました。 同時に、これらの防衛や現地邦人保護のため、満州へ軍隊を置く権利も得ています。 (当時の満州は、清国の政策に拠って住人のいない空白地帯で、更にモンゴルの領有権は中国ソ連も主張しており、日本は国防上の理由から満州を放置できませんでした。) ↑のように日本は、南満州の特殊権益は国際的に認められていました。 アメリカも1917年の「石井・ランシング協定」により、これを認めています。 一方で、当時の中国は清が滅亡し複数の政権(馬賊や地方軍閥など)が争っている内乱状態で、彼等にはまともな行政・司法・警察等の能力は無く、国際条約の知識や理解も薄く、それらの遵守は期待できませんでした。(実際何度も一方的に破棄されています。) 中国の軍閥政権は大陸の日本領内にも侵入して、破壊活動やテロなどの挑発を行っており、現場の緊張は極限状態に達していました。 当然治安も悪く、テロも多発しており、日本人の大尉が中国兵に惨殺される事件も起きています。 【中村大尉事件】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%A4%A7%E5%B0%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6 (陸軍参謀中村震太郎(1897年-1931年)大尉と他3名が軍用地誌調査の命を受け、大興安嶺の東側一帯(興安嶺地区立入禁止区域に指定)に農業技師 と身分を詐称して調査旅行していた際、中国張学良配下の関玉衛の指揮する屯墾軍に拘束され、銃殺後に証拠隠滅のため遺体を焼き棄てられた事件のこと) 当時の中国領には多くの国が投資しており、在中外国人(日本人も含む)も多かった為に、日本政府は彼等の保護を中国に要請してもいました。 しかし、現地にいない日本国内の政治家は、現場の状態を正しく理解せず、効果的な対策を取らずに、徒に「平和的な解決」を訴えるだけでした。 これらの結果、現地の部隊が暴発し、独断行動による戦闘が発生してしまい、それが満州事変に発展します。 これを侵略とするなら、その原因となった中国軍の行為も侵略であるはずです。 満州の領土化は、以上のように国防上の為のものでありましたが、 同時に南満州鉄道を守る為でもありました。(画像も参照) 満州事変以前の国境線のまま中国と接した場合、テロや破壊活動を阻止できません。 その後、満州国は日本が治安を維持した為に各地から人口が流入し繁栄した為に、 再びそれを狙った中国によるテロ活動が起りました。 日本軍は前回と同様、領土内で対応していましたが、そうすると彼らは中国内に逃げて、その後また侵入して同じ事を繰り返しました。 日本は中国奥地にある彼等の本拠地(南京、重慶)を叩かなければ、根本的な解決にならないと判断し、中国領内に攻めていきました。 これが日中戦争に発展します。 満州国を傀儡政権とかいう意見もありますが、中国に乱立していた政権も、それぞれ清国の後継である正当な政権を自称しています。 しかし、その統治は圧政と略奪でしかありませんでした。(満州に人が流れたのはそれが理由です) そのような彼らが認められるなら、傀儡であっても清国の正当な血統である皇帝であり、治安も良く発展していた満州も認められるべきだと思います。 (というか、満州政権の方がより中国の政権としてふさわしいと思います)
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9601)
acdcacdc73さん、こんばんわ。 満州事変は私は侵略だと思います。第一満州自体は中国の領土の一部です。 日本本国の制止も聞かず、石原莞爾や板垣征四郎という将校が関東軍や朝鮮軍を勝手に動かし、元清朝皇帝溥儀を傀儡政府の元首に据えて関東軍のロボットにして日本ではないけれど、日本の事実上の支配する国というのですから、植民地ですよ。侵略の定義はないというけれど、だったらこれを教科書にすべきです。侵略以外の何物でもありません。
- gonzou1948
- ベストアンサー率12% (3/25)
私は戦後生まれです。満州事変や南京事件など見聞きするが、それが現代まで引きずる問題と私は思いません。なんで現代人が先人のおこしたことに何時まで中国や韓国に謝らなければならないかと思います。 日本本土から外国へ行き政治的主導権を発したのは侵略と私は思いますが、戦後60年以上過ぎ二世三世の時代だからこんな事自然消滅したいですね。中国韓国北朝鮮の人々と仲良くできる世代なのだから、過去を掘り起こさないことが最善と思います。
- Tare_Toro
- ベストアンサー率52% (27/51)
*満州事変の首謀者は板垣征四郎ですが、その片棒を担いだ石原莞爾は、陸軍退役後に就任した立命館大学で軍事学を教えていました。 *そこでこんな話をしたそうです。 1.侵略とは何か、正確な定義は存在しない。 ただし、大本営参謀で戦後は伊藤忠商事会長を務めた瀬島龍三によると、侵略とは計画戦争のことであり、100%勝てる見込みがなければ行なわないものである、と証言している。 2.満州事変を起こした目的は、ソ連の南下を防ぎ、日本と直接に国境を接しないために、中国東北部を政治的・軍事的な中立緩衝地域にするためだった。 3.その第一段階として、中国東北部から張学良ら中国軍閥を一掃することを目的とした。 4.それは政府の方針には反することだったため、自らは処罰を受ける覚悟をしてした。 (しかし実際には“勝てば官軍”で、東京に呼び戻され、栄達してしまった。) 5.その後、久しぶりに関東軍に赴任してみると、そこには帝国が築かれ、関東軍の傀儡となっていた。それでは、返ってソ連と国境を直接に接して危険なうえ、国際的な反発も招いてしまった。 6.従って、満州事変を起こした初期の目的は自衛のためであったが、満州帝国を建国したことにより、結果的に侵略行為となってしまったと思う。 *では何故、関東軍は占領した満州に帝国を築いたのか。 1.最大の原因は、関東軍の幹部に存在した政治軍人たちの名誉欲。 たとえ政府の方針に反しても、軍事的に成功しさえすれば、石原莞爾のように栄達できるんだと思ってしまい、競って軍事的行動を起こすようになってしまった。 2.清朝最後の皇帝だった溥儀の野心と利害が一致した。 帝国を築いてしまった関東軍の最大の悩みは、誰を首班とするかだった。そこで溥儀に交渉したところ、清朝の再建でなければ納得しないと駄々をこねたため、日本の天皇と同等の皇帝とすることで、ようやく話がまとまった。 しかし皇室御用掛を務めた吉岡中将の話によると、溥儀は気が小さいくせに残忍な性格で、ほとほと手を焼いたらしい。しかも同性愛者で、正妻との間に子どももうまれなかったため、日本の敗戦が決定的になると、関東軍が口封じのために殺しにくるとか、中華民国軍に殺されるとわめき、発狂同然の毎日だったという。 *満州事変が侵略がどうか、判断する上での1つの材料になれば、幸いです。
- uuuuu8u8888uuu
- ベストアンサー率28% (64/227)
まず満州が内戦をしていたという情報を先に提供していただかない限り判断不可能です。