- 締切済み
「天才と狂気は紙一重」なのは何故?
「天才と狂気は紙一重」というひとつの事実は何でしょうか? 例えばバイロンの家系は代々精神病者で、その過程で生まれたバイロンは天才といわれています。なぜそのような家系に生まれる必然があったのでしょうか? もちろんバイロンのみならず、有名な芸術家はほとんどそれを網羅しているといってもいいほど、精神を病んだり、自殺をしたり、型破りであったりします。芸術にとってその必要性とは何でしょうか? 医学的、心理学的、哲学的どの分野でもかまいません。よろしくおねがいします。
- みんなの回答 (20)
- 専門家の回答
みんなの回答
私は一般人なのですが よく、タイトルのようなことを思いつづけてきてたので… 自分なりに実感と、推測を書いてみたいと思います。 うちには、言葉がしゃべれる自閉圏のこどもがいます。(自閉=病気ではなく、脳の機能が生まれつき普通と異なってることのようです。) このこは、なぜお尻を見せて着替えたらいけないのかが全く分かりません。 おしり丸出しで着替えますし、お尻のでた彫刻も、エッチなグラビアも、くまのプーさんが上着だけしか着てないことも、銭湯で皆がお尻が見えていることも、 全部同じように(おしりがでてるよ。)と、受け取ります。その背後にあるニュアンスや、場面との、関係性、意味に、気がつきにくいです。 大部分の人というのは、社会性というか、 習わなくても、わざわざいわれなくても、自然に、周りと調和をとったり、自分の様子を回りに溶け込ませたりできるのだとおもいます。 2歳のこでも、ほかのこが傘を閉じて、かさたてに立てるのを見て、自分も真似ます。 しかし うちにいる、自閉のこは、わざわざ、これは かさたてだ、ここに、傘を、こっちを下にしていれなさい、といわないと、ずっと傘を開いたまま 建物に入ってしまいます。 そもそも、雨の日に傘をさす理由にも気が付いてません。 水にぬれるのは、プールもシャワーも好きで、雨も 同じ様にニコニコして浴びています。 かさをさしても、それは いわれたからさしてるだけで、 雨をよけるふうに使ってないです。さしながら平気でぬれてます。 じぶんはぬれるのがいやではないので、 他人は雨を嫌がることも思いもつきません。 傘のさし方が悪かったり、水溜りをはねて、ウッカリ、ほかの人に水をかけても、なぜ叱られるのか 分からずにます。 悪気もなく、叱られた理由も分からず、叱られたり嫌われる経験が積もっていくことも起こりえます。 こういうひとにとって、世の中(社会、ひとのあつまり、)は いきにくい、得体の知れない場所ではないかと思います。 こういうひとって実際にいるんです しかし、足し算引き算割り算など 知的操作は 自分から興味をもってつかめば、 年齢以上にできるし、 普通の人が、気にとめない、些細な事柄をよく覚えていたり、追求したりします。 文字を覚えれば、逆さに書いたり裏返しに書いたり、できます。 社会性、それが大きく欠けてるのは、境遇のせいでもなく、 病気でもなく、生まれつき、そうなのではないかと思います。 その一次的な、抜けてる部分があるために、注意はあることに集中しやすく、あることを極めるまでやめない性質があるのではないかと思います。 普通の人なら、得意、不得意程度で終わってしまうことでも、自閉圏の人は、興味の選択肢が広くないので、 あることを 面白いな!と、見つけたら、繰り返し、時間を忘れてやりますから、うまくなっていくのではないかと思います。 それが学問にむいたり、音楽に向いたり… すれば、その道の達人でしょうし、 いくらひとつのことが出来ても、その他の日常で、あまりに摩擦や孤立が激しければ、 二次的に、やんでしまったり、命を絶ってしまったり、、、ではないかと思います。 病気とかではなく、うまれつき、違う脳の働きをする人が、一定数いるのではないか、と思うのが私の考えです。 もちろん、天才といわれる人を自閉ですべて片付けるつもりではないのですが、 ある一面の、小さい手がかりには なってるんじゃないかと思うので書きました。また、自閉といっても、いろいろな人がいるので自分の子を見た範囲での考えです。
- ykkw_2001
- ベストアンサー率26% (267/1014)
>芸術にとってその必要性とは何でしょうか? 回答:岡本太郎 ----- とだけ書こうと思いましたが、それではあんまりなので・・・・・ 本能と対極するものが理性だとして、本能をストレートに出せなくなった理性的な常識的人間の「心」に対し、最も強く働きかけるものは、本能をストレートに出すものでしょう。 たとえば、ある人が本能をストレートに「行動」に出したとしたら、どうでしょうか。狂人・・・・犯罪者・・・etc... 「芸術」は、狂気を何かの対象(キャンバスや、彫刻素材、文章やオブジェなど)に表現するものなのかもしれません。 写実を極めた絵画を取ってみても、その精緻さは、常人の「飽きる」という理性を失ってしまった一種の軽い狂気であると言えませんか? もちろん「常人」の定義は、時代とともに移り変わってゆきますから、原始人の壁画にも芸術を感じたりする。 壁画が書かれた当時は、絵描きたちはかなりの「理性派」だったはずですが、現代人が高度に理性化してしまったために、壁画に「野生」「本能」を感じ、「芸術性」を感じ取る。 と考えます。
お礼
岡本太郎さんにもぜひお伺いしたいです(笑)。 若者が性欲をスポーツなどに昇華するように、理性や常識に抑圧された狂気も、キャンバスや紙にぶつけると芸術として昇華される。 でも大きな疑問があるのです。芸術、天才と定義された作品や人は、凡人が評価するものですよね。最大公約数の凡人が評価してなるものか、それとも同じ独りの天才が評価するからなるものか、それはどうなのか?という疑問です。凡人が評価しても他の凡人からはそれは天才の生んだ芸術とは思われないし、逆に凡人皆が認める独りの天才がそれは芸術だと定義したら、誰しも認めざるをえないことになる(誰しもが認める天才が、他の才能を評価するから)のではないか?ということです。 壁画というとラスコーの有名な洞窟の絵を思い出します。なるほど、芸術が本能のほとばしりだとしたら、野生は原始時代の人間はほとんどが才あふれる人たちということですよね。また人間にとって今よりも幸福な時代だったのかもしれません。 ご回答ありがとうございました。
- kurokawa
- ベストアンサー率25% (38/147)
天才も狂人も同じものです。 常人とは異なった考えを持つ故に世間に馴染めず、世間とは異なった考え方を持つ故に一般人では考え付かない事を行ないます。 そして、その行う事が「世間」にとって良い事か悪い事(あるいはどうでも良い事)か?とゆう本質とは全く関係ない所で天才と狂人に分かれるのです。 おそらく、その様な他人が決める曖昧な評価など、本人たちは気にも留めていないでしょうが。
お礼
確かに世間でひかれる物差しや常識に捉われていたら彼の非常識も常識に埋もれるままでしょうね。 その型を破ってくれる者を、憧れも伴って天才と呼ぶのかもしれません。 でも結果的に失敗したら狂人と呼ばれ、成功したら天才と呼ばれる。凡人世界はシビアですね(笑)。 ご回答ありがとうございました。
- geiffel
- ベストアンサー率50% (3/6)
ある特殊な人が、環境(時代や周囲の人、文化など)によって天才、狂気、英雄、殺人者などと呼ばれます。その時代に生まれた人々と異なった性質を備えているだけなように思います。「アインシュタインは脳が奇形だった」でかたづけられたりもします。遺伝的に代々、脳の形がおかしいという場合、バイロンのようにたまたま時代と符合し、天才と呼ばれたりもすると思います。 天才と狂気が紙一重というより、全く同じ種類のものと考えています。ただ「環境」と「自分」があまりに違うから、その時代でたまたま天才だといわれたり、やはり人間ですから孤独でひどく精神的に悩んだりするだけだと。
お礼
たとえばゴッホなどが有名な一例ですよね。生前は一枚しか売れなかった絵が、死後天才とまつりあげられ、その絵には何億という値がつく。本人的にはどうよ?と聞きたいところですが(笑)。 昔は精神異常がなかなか認められなかった時代ですからそれは辛かったと思います。逆にそのような時代性が沢山の天才を生んだのかもしれません。 でもいつも思うのですが、天才を評価するのは凡人ですよね。大多数の凡人がひとりの非凡ゆえに孤独で狂気をはらんだ者を評価するから天才は「天才」を欲する者のために生まれ変わるのか、それとも非凡同士が評価しあうから初めて天才と呼ばれるのか?ということです。 ご回答ありがとうございました。
- tomonori24
- ベストアンサー率7% (8/105)
簡単にいうと、 「天才」とは人が思いつかない事を行い、それが世間に認められるので天才と呼ばれ、 「狂気」とは人が思いつかない事を行い、それは世間から避難される事だったりします。 なので、発想というてんで紙一重なのでは無いでしょうか?
お礼
皆が皆狂気を叫んでいたらそれは狂気ではないですよね。正常になる。ということは才能を発揮する基盤がなくなる。 でも「紙一重」というのはそこにポイントがあると思うのですが、世間から認められることは天才の成せるわざだとしても、それは根底にある異質な性質ゆえ(それが非難されることであっても)才能は生じたということを大多数の凡庸さはわからない。ということでしょうか。 非難されるばかりで認められなくても天才、非難されても認められれば天才、結果論しかみないのはまさに凡庸を示している凡人の成せるわざだと思います。 ご回答ありがとうございました。
- k_jill
- ベストアンサー率34% (36/105)
先ず、天才=「他より突出して優れている者」 狂気=「他と決定的に馴染まない異質な物」 という定義づけをしてみます。すると「他より突出している者」=「他と決定的に馴染まない異質な者」という事になり、結果天才であり且つ異常者(差別的ですが便宜上)という事になるのではないかと。 より優れている存在ならば、その他大勢の凡百たる存在には見えないものも見えるでしょう。自分と同種のものが存在しない孤独というのもきっと感じるのではないでしょうか。 他人に見えないものが見える、解らないものが理解できる故に他人には理解できない行動をとる事だってあるでしょう。其れを下から見上げた人が「狂気」ととらえているだけで、本人は至って正常なのかもしれません。 世の中は多数派が正しいという規則になっていますが、天才は少数派であるからこそ天才なのであって、結局狂気とは切っても切れない関係なのかなあと思います。 激しく私見で参考になるか解りませんが。
お礼
突出と不適合は同じ「異質」のものですよね。 なるほど、天才が数少ないのは皆天才ならばそれは平凡となり、非凡=天才という定義から外れるからですね。 ご回答ありがとうございました。
- runacafe
- ベストアンサー率20% (1/5)
医学的なことだと私は思っています。 例えばアインシュタインやゴッホなどはアスペルガー症候群と言われています。(自閉症のカテゴリーです) その障害をもっている人にはサヴァン症候群といって、知能が高かったり、芸術・音楽の才能が突出しているということがあるのです。 まず、その障害ゆえに興味が偏り、"普通の人"が気にすることを考えずに、そのことだけに没頭できるということ、プラス、サヴァン症候群というものがあるのではないでしょうか。型破りなのは、もちろん精神を病んだり、自殺をしたり…というのもこの障害とは無関係ではありません。 芸術にとっての必要性ではなく、必然的にそうなっているのだと思います。 でも、人を感動させるものを創り出すというのはきっと、些細な事にでも涙を流したり、死にたくなったり…という非常に高い感受性というものが必要なのかな…とは感じます。
お礼
他の方がおっしゃるように、確かに脳の発達に天才の脳は影響されているかもしれません。自閉症は心理学の領域でもあります。病んだ心も「欠如」ですよね。 天才とは完璧であるように思えますが、実はまったく違うのですよね。欠如だらけの中に万人には及ばない輝きがある。精神も心も病み、生き方は波乱万丈、自由奔放、でも神に選ばれし者。強い感受性は神の神秘を感知するアンテナのようなものではないでしょうか。でも凡庸の中の刹那や哀しみをも感知してしまい、ますます病んでゆくのでしょう。でもそれがより芸術への昇華となる。 ご回答ありがとうございました。
- syamon9
- ベストアンサー率26% (24/90)
天才は脳のシナプス経路が凡人に比べて非常に複雑だそうですが、その複雑さに原因があると思われます。複雑な仕組みには不具合も多いと云うことではないでしょうか。 また脳内の特定の機能の部位を失う又は発達が遅れると違う機能の部位がそれを補おうとして発達します。結果発達した部位の機能が天才となる場合もあるようです。これを「イデオ・サパン」(りこうぱか)といいますが画家などに多いのはこのタイプです。 ちなみに「天才と狂気は紙一重」とは「どちらの云う事も理解出来ない。」と云う事から「事が終わってみないとあいつの云う事は判断しかねる。」と云う意味で、現実を照らし合わせ事実を云った言葉ではありません。
お礼
>天才は脳のシナプス経路が凡人に比べて非常に複雑 まさにコンピューターと同じ・・・というより、コンピューターが脳に例えられますが(順序でいえば逆?)、複雑なプログラムであるほど確かにバグが多いのも実際のコンピューターと同じですよね。 脳が発達しすぎても、また欠如がありすぎても天才となるなんて、面白いですね。という相反するもので天才が成るのならば「イデオ・サパン」(りこうぱか)というのも「天才と狂気は紙一重」ということと同じでだと思うのです。 ご回答ありがとうございまいした。
補足
詳しく補足します。 過剰と欠如、相反するものいずれかを選択させられて天才というのならば、「イデオ・サパン」(りこうぱか)という言葉もあるとおり、天才のまたは狂気の要素として、相反するそれらが真実である場合、天才と狂気はやはり「紙一重」として存在することと思います。
- cuhcai
- ベストアンサー率12% (11/91)
凡人は普通の社会人として普通に生きるように育てられます。 狂人は普通ではありませんから、凡人には理解しがたいことを思いつきます。 それが突拍子の無いことであったりしてもそれが、凡人にはあらわせない、もの(絵画なら色やタッチ)であったりします。 芸術などは普通の考えの持ち主では独創性が無く、それこそ普通になってしまうんです。 小説にしても普通の日常ではありえないことを考えて書きます。 「そんなやつ、居らんで」と言う人たちで物語が成り立っていたりします。 そう言ったことが天才と狂気は紙一重とも言うのでしょうか。
お礼
思うのですけれど、子どもの才能を伸ばしたかったら究極、押しつけばかりの教育をやめることだとつねづね思っています。才能は自由が土壌であるからこそ、その芽が出、いつか花咲かせるのだと思います。 たとえばエジソンのお母さんなど子どもの非凡さをいち早く察し、学校を行くのを辞めさせてお母さん自ら先生の役割をし、他はエジソンの興味あるものに対する好奇心や学ぶ意欲を守ってあげたといいます。今の時代の偏差値教育とは正反対ですね。エリートになる人はいっぱいいても本当の天才は少ない。学問の答えをクリアしてなんぼのエリートと、自由奔放ゆえに天性の才能を発揮させた「学問それ自体を生み出す」天才はまったく違う存在だと思います。 ご回答ありがとうございました。
「盲人の国では目明きは障害者」のような言葉をご存知でしょうか。 例えばアインシュタインですが、学校の成績は悪かったと聞きます。 何故なら、問題を出されると答えが瞬時に出てきて、そこに至る過程が説明できなかったからとか。 また水泳選手の木原光知子は初めて子供の水泳コーチをした時、いきなり子供をプールに突き落とし、危うくおぼれさせかけたとか。 つまり泳げない人間の存在を理解できなかったようです。 天才とは普通の人間とは違う感覚がありますから、同じように生活するには苦痛な部分があります。 快適な道路に30キロの標識が出ていて、のろのろと何時間も走るのは気分はよくないと思います。 そんなことから適応できない方もいるかも知れません。 また遺伝的にも聖徳太子でよく引き合いに出されますが、近親結婚を繰り返すと長所が増幅されて天才が出ます。 反面短所が増幅されて狂気の部分も出ます。 似た物同士の結婚は長所もあれば短所もありと考えます。
お礼
古今東西、世界的に有名な天才は精神障害の他に学校の成績が極めて悪い、集団生活に不適応なども共通項ですよね。「憎まれっ子世にはばかる」ですね。そういう逸話を知るたびに天才のきらめきは集団生活になじめないことからその片鱗がすでにみえているなあと思います。 でも問題が瞬時に出ているというのはすごいですよね。神の啓示がおりてきた、まさに「ひらめき」です。 木原光知子、聖徳太子の逸話、初めて知りました。驚きです。ご回答ありがとうございました。
- 1
- 2
お礼
自閉症の方が素晴らしい能力を発揮しているのは本やドキュメンタリー等で知っています。映画「レインマン」では自閉症の主人公が落としたマッチ箱の数を一瞬で言い当てるシーンもありました。 社会性が発達過程で後天的に学び取るものであっても、それはある意味肉体を維持していくためのものであって、生まれたままの純粋性や無垢さの精神性はそれと引き換えになるのでしょうか。 ご回答者様のおっしゃった「雨」で思い出したのですが、大昔は傘をさす習慣がなかったとか。あるときヨーロッパのある国の貴族が人々の好奇の目の中、平然と、自ら発明した「傘」をさして町を悠々と歩いたときから傘は日用品になったという実話があります。常識とは何か?という問いの象徴としていつも思い出します。 また「裸足で散歩」という古い映画のワンシーンも同時に思い出されます。 「裸足で公園を散歩しましょう」と誘う恋人のジェーン・フォンダに堅物の弁護士扮するロバート・レッドフォードがそんなバカなことはできないと言います。そこで彼女は返します。 「あなたは羽目を外すことがないのね。世の中には出演者と観客がいるの。あなたはいつも観客だわ」 というセリフです。それが誰の迷惑もかけない主体性ならば、人生のどのシーンでも大いに発揮させるべきだと、ちょっと生きずらさを感じている私個人は思っています。 傘の例のように、常識という概念は非常識からも派生すると思いますしまた逆も同じでしょう。たったひとつの非常識が後世に残る文化を生む。それを伝えるには発見の他に勇気も必要です。 ある種の社会性はそんな芽を摘む弊害性もあると思います。自閉症の方は自閉症という症状を借りて、人が退化させてしまいそうな何かを守っているのではないでしょうか。 ご回答ありがとうございました。