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昭和の遊廓文化
「親なるもの〜断崖」というマンガを読みました。 そこは昭和の幕西遊廓が舞台なのですが、第二次世界大戦前夜の遊廓にはもう「花魁」という呼び名や綺麗な着物、「お職」のポジション等は無くなっていたのでしょうか? それとも開拓されたばかりの北海道だったからでしょうか? 売り上げナンバーワンの女郎が、大した髪飾りもなく打掛も着ず襦袢姿で接客し、客に「線香が燃え尽きましただ」と言って時間終了を知らせています。 江戸時代の吉原でいうとこれは河岸見世女郎の売り方です。 昭和の時代には遊廓はこういうものになっていたのでしょうか。
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こんばんはfs64vvzさん お久しぶりでしたがお元気でおられましたか? 人様と 接しなければいけない仕事ですから 大変でしょう 早く収束してくれれば良いのですが この質問は 私は朝早く起きるものですから 新着質問で承知しておりました 質問者がfs64vvzさんなので 驚きましたが 何故、 回答を遠慮 していたかと言いますと 私はあなたが何を聞きたいのか?分かるからです 要は 昭和の始めでしょうが 遊郭と言う 狭い場所で 女郎と呼ばれた 女性たちの 接客、あるいは 日常の生活とは どのようなものであったか? 残念なことに 私にはその知識がありません 遊郭の歴史を語れと言われるのなら wikiでも 引用すれば 簡単なことです 今、当時を ここで語れる人がいるとすれば 100歳を過ぎておられる? ここで 回答を期待するのは 少し無理なように思います ただまあそう言ってしまっては身も蓋もありません 小野彰子さんで「郭景色」、 せの他にも「鑑楼」など作者は別人の方と思いますが? 参考になる文献はあるかと思います 落語には「廓噺」と 言うのも多くて 線香で 客の残り時間を知るあれは「たちきり」でしたか? 落語で知ることも できるかもしれませんね? 打掛、 襦袢姿など 今の若い方はご存じない さすがと思い 感心しました 花魁やら 話したいこともまだありますが ここいらにしましょう
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第二次世界大戦後の昭和21年(1946)1月、日本を占領中の連合国軍最高司令官から公娼廃止に関する覚書(日本政府に公娼制度(貸座敷・娼妓)の廃止を要求)が日本政府に渡され、これによって330年存続した遊郭は消滅することになります。 しかし、これが街娼の増加を招いた。(1946)1月28日、警視庁は「夜の女」18人を初検挙、以後くりかえし「狩り込み」・検診を実施した。 東京では吉原、新宿二丁目などの貸座敷(遊廓)や、玉の井(東京都墨田区東向島)、鳩の街(東京都墨田区東向島)、洲崎(東京都江東区)などの銘酒屋の看板を変え、飲食店などとして風俗営業許可を取ることになり、娼妓・私娼は女給になった(東京はカフェー、大阪では料亭など、地域によって異なる)。 戦前から警察では、遊郭などの風俗営業が認められる地域を、地図に赤線で囲んで表示しており、これが赤線の語源であるという。 赤線は、売春防止法の施行(1958年)昭和33年まで、政府公認で売春が行われていた日本の地域です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 もう少し他のご回答も待ってみたいと思います。
補足
すみません、私が知りたいのは昭和2年〜9年くらいの、第二次世界大戦前の遊廓の商売の手法、江戸時代のように女郎が着飾ってお座敷芸をやっていたか、女郎にランクがあったのかなどなんです・・・質問の書き方が悪かったようで、申し訳ありません。 またその当時幕西などの地方遊廓でもそれは同じだったのかということです。 自分でも調べる方法がありましたら、ぜひ教えてくださいませ。
お礼
kamejirouさん、お久しぶりです! 読んだマンガの時代考証というか、遊廓の様子に違和感があって、ちゃんと調べて描いてないのか、実際こうだったのかどっちだろうと思ったもので…。「吉原炎上」など、遊女のお話や昔の着物が大好きなので、作品や資料はたくさん集めているのです(笑) 江戸時代までの遊女や遊廓の様子は歴史を紐解けるのですが、明治以降、特に昭和初期から戦後の赤線までの間は法律の歴史はあっても中身の資料がなかなか見つからなくて…。 赤線の時代にはもう女性は洋装でしょうけども、昭和初期の幕西遊廓を描いたそのマンガでは、総籬の高級店なのに娼妓達が襦袢姿で張見世していて帯も前帯でないので疑問に思いました次第です。 ご推薦の作品、ぜひ読んでみたいと思います。 またお話が出来れば幸いです、ご回答ありがとうございました!