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なんで名古屋はないの?
江戸時代、『三都』と言えば江戸・京・大坂です。落語には、江戸落語と上方落語があり、歌舞伎でも『江戸の荒事、上方の和事』です。質問ですが、なぜ、名古屋(尾張)歌舞伎や落語がないんでしょう? 『元禄御畳奉行の日記』を見ればわかる通り、江戸時代、すでに尾張名古屋は大都会であり、文化も成熟していました。なのに、尾張落語・尾張歌舞伎、っていう物は聞いたことがありません。どうしてですか?
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>なぜ、名古屋(尾張)歌舞伎や落語がないんでしょう? 確かに、上方・江戸に比べると有名ところは無いですね。 「大あやつり(人形芝居)」は、多く存在した様ですがね。 ただ、江戸時代には「土御門家の支配を受けた三河万歳」が全国各地を興行しています。 >『元禄御畳奉行の日記』を見ればわかる通り、江戸時代、すでに尾張名古屋は大都会 まさか、畳奉行日記をご存知とは! 歌舞伎で有名な忠臣蔵も、実際は赤穂事件として有名では無かった事になっていますね。 忠臣蔵は、あくまでフィクション物語! >尾張落語・尾張歌舞伎、っていう物は聞いたことがありません。どうしてですか? 地理的な影響があります。 浪花・都・江戸から近いですよね。 そこで、上方・江戸の役者・芸人などは「名古屋を興行地」として定期的に公演しています。 自ら始めなくても、既に上方・江戸から(招待しなくても)芸人がやってくる。 独自路線を進む必要は、ありません。
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- jkpawapuro
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歌舞伎や落語は詳しくないですが、文字通り三都ではないからではないですか? 都市規模で言えば名古屋・金沢は京都を上回っていたでしょう、ですが都と呼ばれる三都には都とよばれるだけの所以があります。 江戸は文字通り日本の中心となり、参勤交代で全国の武士が集まりそこで生まれた文化は参勤交代で国元に帰った武士が全国に伝えていきます。 大坂は北前船の集積地で、西は西国諸藩、北は津軽からの日本海側全諸藩(舟運を使う会津含む)、九州に四国に日本の7割の地域の文物商人が集まります。必然大坂の文化物資は帰りの船で全国に伝わっていきます。 江戸時代の京都は政治的には停滞したものの文化、もっと言えばファッションの中心地で、全国の諸藩が京都に藩邸を構え京でどのような着物が流行っているかを国元に報告しときに買い入れています。ここで買った着物がないと江戸に参勤交代に赴いたとき殿と奥方がダサい恰好では恥をかきます。 尾張藩は文化芸事には寛容というか珍しく推奨的な立場でしたので当然名古屋には名古屋の文化が花開いたとは思いますが、これが全国に波及するような人・物の出入りがある”都”ではなかったでしょう。 むしろ江戸や上方の芸人にパクられていつの間にか江戸落語になってたりしてw
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ご回答ありがとうございます。 要するに『江戸時代の尾張名古屋は、大都市だったし、文化も成熟していた。しかし、北前船などがなく、文化は広がらなかった。』で、合ってますか? 納得です。
- hahaha8635
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三河萬歳 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E8%90%AC%E6%AD%B3 名古屋城の歴史 https://wondertrip.jp/90856/ 名古屋城 → 清須城 → 安土桃山城 → 大阪 → 江戸 一度滅びて 江戸時代に再興されてます 漫才の歴史 https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc20/rekishi/manzai/index1.html 三河萬歳 → 大阪 → 江戸 と進化してます
お礼
ご回答ありがとうございます。 文化は成熟していた。…ただ、三河萬歳と、戦後の漫才では、どうにも違いすぎませんか?
- Radish_Boyaboya
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歌舞伎は知らないけど、落語はあったはず。 呼び名も覚えてないですが、まだ、絶滅してないと思う。
お礼
ご回答ありがとうございます。 落語・漫才系の笑芸には、大須演芸場がありますしね。地元向きの笑芸がある方が自然です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 『元禄御畳奉行の日記』は愛読書なんです。朝日文左衛門は大の芝居好きで、地元で興行された、『あやつり芝居』に、死の前年まで、再々足を運んでいますね。地元の歌舞伎役者もいたようで。 けれど、要するに、需要がなかった、と理解しました。