- ベストアンサー
新説「自然界における生存原理」
- 「弱肉強食」を超越する平和な社会を成立させたキリスト教徒
- 「競うこと」と「争うこと」の違いと、一方的な競争による生き残り
- 自然界の持続と生存原理に関する考察
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
「質問者からのお礼」を拝見しました。 >ありがとう。脈があるわけだ。それから、キリスト教関係は、無関係な人がたまたま見ても普通に怖い内容だった。穏健な構え方で毅然と喧嘩を売ったことはいいことだよ。(…)したがって歓迎していたし、過去についてはそういう事にしましょうや。 ⇒おかげで楽しかった。こちらこそありがとう。理解が遅いのは大半こちらのせいだけど、ただ一言、Flareonさんの文はメッチャ読みにくいよ。単文のブツ切り、段落なし…。 >(…)そのように心情を述べると、第三者は「なるほど、誰にとってもその通りだ」という事になる。 こういう手口で争いごとを追い落とすんだ。 ⇒「右の頬を打たれたから左の頬を」さし出したんだね。だけど、そうして、「肉を切らせて骨を断った」のと違いまっか? ま、それも人間力のひとつだから共感します。 >家族や友人などが感情を爆発させた場合は、むしろ喧嘩を買うのが親密さの表し方の場合がある。最終的に相互に和解するから、感情の爆発はそうした場合は受け止めるんだよ。 ⇒そうやって他者の見た世界と己の見た世界を戦わせ、すり合わせて、そして、止揚する。オルテガという哲人の「遠近法主義」によれば、そのようにすることによって、「神の視点」に近づくことができるという。 >自我確立が目標だよね。「気づき」という日常語も経験知を伴って教えを実感することだ。 ⇒アブラハム・マズローの「欲求階層説」を思い出しましたよ。仰せの営為は、諸々の欲求の最上階の層とも言えるものですね。「自己陶冶」の一局面と言ってもいいかも知れない。 ということで、お互いこれでまた、サバイバル能力が幾分高まるって寸法ですわ。 以上、散発的ながら、感想のご返信まで。
その他の回答 (1)
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10007/12518)
>争いを持ち掛けられて、競う事で答えるのは案外難しい。 だが成功すると、頭に血が上った争いを持ち掛けた奴を振り切り、そいつは自滅するのさ。 ⇒なるほど、よく分かる! 私はこの「前提その2」が好きだ。 >自然界というのは、なんだかんだで永続的に維持されて、生き残りがいる。 それを考えると「前提その2」は自然界の生存原理に加味できる事柄ではないかという考察を組み立てたんだ。 ⇒その生き残り組、本当は勇敢な知恵者なのかもしれないね。そして、《「前提その2」は自然界の生存原理に加味できる》こと間違いなし、と言える、とそう思いますよ。 >果たしてそれは成立するのか? 命題として、発展可能か? ⇒成立するに違いないです。発展も可能だと思います。 「私流展開形」を下記しますので、読んでみてください。 >私は心優しいんだよ。 ⇒そうだったんだよね。誤解していたかな。 私のつぶやき:けんか用語 リスボンで街の通りを歩いている時であった。二人の男が大声で争い始めた。たちまち二人の周りに人垣ができた。野次馬である。かく言うボクもその一人…。事の顛末はこうである。交差点で青信号が黄色に変わった。一台のタクシーが急いで通り過ぎようとアクセルを踏み込む。と同時に気の早い歩行者がその前に飛び出してきたので急ブレーキをかける。すると、タクシーの後方にいたバイクがタクシーに追突して転倒、通行人たちは一斉にバイクを気づかった。幸い大したことなく、起き上がって次の青信号を待って走り去っていった。 その時である。タクシーと歩行者が、えらい剣幕でののしり合いを始めたのである。二人とも物すごい形相である。我々は半円形を描いて彼らを取り囲み、高見の見物としゃれ込んだ。彼らは延々とののしり合う。よくもそんなに言葉が続くものである…。一般に印欧語は「けんか用語」が豊かなのである。詰り合いは少なくとも十数分は続いた。二人とも始めは鬼の形相で口角泡を飛ばしていたが、段々と語勢は穏やかに、笑顔交じりとなり、最後には何と握手を交わして別れたではないか! 互いに相手を罵倒し尽くして、「充分に満足した」という風情であった。 ひるがえって日本ではどうか。日本語の場合、他人をなじったり罵倒したりするための表現が極めて貧弱だといわれる。ある翻訳者がフランス文学訳で翻訳賞を取ったときにつぶやいたことを思い出す。「原作では、しばしば数ページにわたって口汚くののしる表現、個人を罵倒する表現、卑猥な表現、淫靡な表現等々が続く。このような俗語・卑語・隠語・階級方言の類は翻訳者泣かせである。もはや日本語にならない。日本語には、この種の表現が少なすぎるのである」と。なるほど、それで日本人同士のけんかの場面では、言葉の応酬だけでは憤懣を発散できず、別れ際には「覚えてろ!」などとのたまうのだ。だから、日本人のけんかで手が早いのは、「けんか用語」の不足から来る、などと言われたりするのである。 気弱なボクは、争いごとを好まない。理不尽でも、金を払って済むならそれで収めたいくらいだ。今まではそう思っていた。しかしこれからは、「争いを持ち掛けられて、競う事で答える」ことにしようと思う。 もしもけんか好きの御仁がおられたら提案したい。日本語の「けんか用語の語彙」を開発してほしい、と。そして、口頭だけでけんかして、最後にお互いの博識ぶりと健闘ぶりを讃えあって、「覚えてろ」ではなく「おかげで溜飲が下がりましたよ」などと感謝しあって別れる。そんなけんかをお勧めしたいな~、と思う昨今です。(以上) Flareonさん、よいご質問をありがとう。
お礼
命題とは、命題から取り組むものが独自の思考を確立することができるのがいいのだと思うよ。 ありがとう。 脈があるわけだ。 それから、キリスト教関係は、無関係な人がたまたま見ても普通に怖い内容だった。 穏健な構え方で毅然と喧嘩を売ったことはいいことだよ。 ガタガタいう人くらいしか出てこないと思っていた。 したがって歓迎していたし、過去についてはそういう事にしましょうや。 この命題は私にとっては職業スキルなんだ。 競合が発生した場合の乗り切り方などから経験的に思考した内容だ。 商売敵には、苦情を述べて妨害したり、足を引っ張ったりする同業者が発生する。 そういう場合の対処で、最も有効だ。 他の同業が、当店を悪く言ううわさを流すとしよう。 噂を聞かせてくれた人相手に、ごく普通に同じ商売をする人の話は、第三者に自分自身も悪い印象を植え付けてしまいかねないから、私はそのような同業者の話をしないことにしているし、しいて噂にする機会が出来たなら、「あのお店は素晴らしいお店です」(悪い噂を流した店)と第三者に話すように心がけている。そのように心情を述べると、第三者は「なるほど、誰にとってもその通りだ」という事になる。 こういう手口で争いごとを追い落とすんだ。 ただし、家族や友人などが感情を爆発させた場合は、むしろ喧嘩を買うのが親密さの表し方の場合がある。 最終的に相互に和解するから、感情の爆発はそうした場合は受け止めるんだよ。 そういうわけで、相手と自分の双方の立ち位置と資質を見極めながら、実勢経験で積み上げていく「口げんか最強」なんだ。 ところで、相手と、相手と自分の立ち位置の関係性は客観的に見極められる。 自分には客観的にはなれない。 仮想上の客観性での自己分析が主流だ。 そうすると、喧嘩も場数を踏んで喧嘩名人になる事とは、「自分自身を知る」ことであるんだ。仮想上の自己分析を喧嘩で検証して自らを学ぶんだよ。 経験知というのはこうして醸成されて、仏教的に「教えの内容を実感する」これが「悟り」という内訳で、宗教の枠内で哲学的に人間の自覚に到達するための学問であるんだよ。なら、自我確立が目標だよね。 「気づき」という日常語も経験知を伴って教えを実感することだ。
お礼
ありがとうね。 本来私の教養は仏教系なんだ。 東洋の哲学であり、西洋の哲学でも探せるなら何よりだ。 締めるのが遅れたけど、返答を確認しないで締めるよ。