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「薩・長の主導権争い」で勝ったのは。
御一新も落ち着いてきて明治18年(1885年)12月、第一次伊藤内閣が発足しました。 それから長州と薩州が交互に内閣総理大臣を出すのですが、結局この権力争いで勝ったのはどちらですか。 政界、経済界・産業界、軍部に勢力を伸ばしたのはどちらですか、という意味です。 大正から昭和の始め頃には優劣がついていましたか。 もし、優劣がついておれば、そうなった理由は何でしょうか。 ゲスノカングリの質問ですが、よろしくお願いいたします。 歴代内閣 https://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/ichiran.html
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優劣はついてないと思います。 大正デモクラシーとともに徐々に藩閥の力が落ち消えていく感じです。 藩閥政治の力の源泉は維新の元勲や元老(西園寺除く)によるもので、比較的個人の有力者によるところが大きいです。この頂点の人材が拮抗し時に意見をたがえても対立することなく意見をまとめてるので全体的に最後まで薩長並立して存在したのでしょう。
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- cse_ri3
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長州の勝ちだよ。 長州閥は、革命第一世代から革命第二世代への移行がスムーズに行った。 そもそも、木戸と大村益次郎を除く第一世代が、明治維新で皆死んだから。 大村も西南戦争前に死んだしね。第二世代の伊藤や山縣の引き立ては木戸がしていたので、権力の移行がうまくできました。 それに引き換え薩摩閥は、トップたる西郷隆盛が反逆して死に、残る大久保もすぐ客死したから。 しかも木戸のように、後輩の引き立てを十分にしなかった。 まあ当人たちは日本のことで頭がいっぱいで、薩摩閥のことまで気配りする余裕もなかったでしょうが。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど、薩摩は西郷、大久保という大物二人を失っていますからね。 >まあ当人たちは日本のことで頭がいっぱいで、薩摩閥のことまで気配りする余裕もなかったでしょうが。 今の政権のようにお友達が集まって利権をこっそり分け合う姿を見ると、「おはんら何をしとる!」と言うでしょうね。
- pri_tama
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どっちが最終的に影響力が強かったかだと、長州閥の方が優位ではないでしょうか? 明治以降の首相在任期間の合計は、山口出身者が全国最多の8人で全体の4分の1以上(31%以上)を占めます。 (なおTOP4が山口出身者。) これは、薩摩閥の領袖たる西郷隆盛や大久保利通の最後が影響しているのではないでしょうか…。 (長州閥の伊藤博文や山縣有朋が長期間影響力を行使できたため…。) なお警察は明治期の警視総監は圧倒的に鹿児島出身が多かったですし、海軍も影響力は強かったです…。 ただ、軍は昭和期には薩長閥の影響は大分薄れてしまうのですが…。 (出世する為には、陸軍大学校や海軍兵学校の席次が効いてくるので…。) なお、明治も後半になってくると出身閥よりも経済界や官僚および華族との婚姻関係に基づく閨閥体制の影響が強くなり、現在へと至るのですが…。
お礼
ご回答ありがとうございます。 政界や軍部についてはよく分かりました。 最終的には長州優位だったということですね。 明治期後半では、出身閥よりも閨閥が影響を増してきたのですね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 大正に入ると、藩閥の力も選挙などのデモクラシーには勝てなかったということですね。 それで優劣なしということ、よく分かりました。