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戦国時代の歩兵

秀吉の大返しについてお尋ね致します。10日で230kmも移動した、ということですが、単に歩くだけでなく、色んな作業をしながら、かつ、一説には20kgとも言われる甲冑を装着しながら移動したということになりますね?それを考えると、当時の人は、相当、頑健な体をしていたと思われるのですが、普段から鍛えていたのでしょうか?

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  • eroero4649
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回答No.1

江戸時代、一般的に「男十里、女九里」といわれていました。一日で移動できる距離のことです。男なら1日40キロ、女でも1日で36キロ歩くのが普通だったということです。ちなみに日本橋を起点とすると、40キロというのは上尾、取手、八王子、町田、戸塚あたりです。 また戦国時代でいうと、関ヶ原の合戦で徳川秀忠が遅刻したとき、上田城で足止めを食ってから慌てて関ヶ原に駆け付けた平均速度は1日あたり27キロ計算になるそうです。ただしこのときは、だいぶ兵卒を置いてきたみたいです。 ですから1日平均23キロというのは、当時の人の感覚では「まあ行けない距離ではない」という感じでしょうね。 ただ、ご指摘のように彼らは武装して鎧もつけていたはずだからそんなペースで行けるのか?という疑問もあります。 このあたりの詳細はよく分かっていないのですが、一説には武器や甲冑などの装備は船で送ったという話もあります。自分の身ひとつならば、当時の人にとっては1日23キロというのは「余裕っしょ」という感じだと思います。 これは私の想像です。足軽あたりは、武器も装備も貸与品です。だから「現地に着いたらまた渡すから、とにかく装備は置いて身の回りのものだけ身につけて移動しろ」と命じたらそれはできると思います。 身分の高い人たちは身の回りの世話をする中間がいます。中間を装備ごと船に乗せてしまえばあとは現地集合で賄えます。あとは合戦のたびに雇われるフリーター武士ですが、彼らはもしかしたら自分たちの装備を担いで必死に歩いたかもしれません。人員と物資は別々になっていたのは間違いないと思います。 中国大返しの兵站を担当したのが石田三成といわれています。あれは移動する本人たちより、兵站業務のほうがはるかに複雑で大混乱を起こしかねない。現に今でも一律10万円の給付金もアベノマスクも作業で大混乱が起きているわけです。そこを混乱させずにやり切った石田三成の官僚としての能力は凄まじいものがあると思います。上司から「オイ、これから2日で全軍を姫路に戻すぞ。そんで1日休んだらそっから2日で大阪まで行くから兵站を上手くやっとけな」というとんでもないムチャぶりを突然いわれてちゃんとそれをこなしたわけですから。 三成は各地で食事なども用意していたなどといわれますが、やらなきゃいけないのはそれだけではありません。誰がいつどこを通ったかというのを把握するのも重要です。「殿はどこにいる?」とか「黒田官兵衛はどのあたりにいるのか」なんてのも当然あちこちから聞かれるわけですからね。都度その情報も更新されて重臣や秀吉に報告されていたことでしょう。やらなきゃいけないことは山ほどあって、しかも走りながら考えて行動しないといけないのです。 また元々信長とその御一行様が秀吉のところに出陣する予定でした。これは秀吉が頼み込んで実現したことです。抜け目がない秀吉のことです。決して信長の機嫌を損ねることがないように各地に万全の接待の準備と手配をしていたはずです。その準備と手配は、そのまま中国大返しに使えたはずだと思います。 またこれに先立って、織田軍団というのは各地に街道の整備も行っていました。秀吉は土木工事を大変得意としています。街道を整備することを家臣に命じていた信長に「コラ猿。お前のところは街道の整備が全くなっていない」と叱責を受けるような間抜けなことをあの秀吉がするはずがない。元々苦戦していない戦場でわざわざ信長の出陣を頼んだという事は、秀吉の性格を考えれば「むしろ見せびらかしたかった」と考えるのが自然です。 つまり秀吉の領内では高速道路網が既にきちんと整備されていたと考えるのが自然ではないかなと思うのです。 秀吉は、決して当時の人々の体力と気合と根性に頼って勝つような程度の人物ではなかったですよ。桶狭間の合戦なんかもそうですが、一見天祐で勝利しているように見える戦いでも、歴史に永遠に名を残すような人物は我々凡人が気づかないところまでキッチリ仕事をしているものですよ。 収拾がつかない大混乱を起こして当然の任務を準備をしていたかのようにこなした石田三成の能力も凄まじいならば、いわれりゃちゃんとこなせるようにインフラをまるで予想していたかのように整備していた秀吉もまた凄まじいといえますね。そりゃ秀吉黒幕説というのが出るのもむべなるかな。

tahhzan
質問者

お礼

1日40キロ……凄いですね。自分が、北海道旅行で出会った日本縦断者は、元空挺部隊出身者でしたが、その人でも1日30キロ前後が上限みたいでした。ホント、「昔の人はエラかった」と思いました。そう言えば、幕末の志士、山形出身の清河八郎が母親を連れて天の橋立あたりを徒歩旅行した本を読んだことがありますが、年配の母親でも30キロくらい歩いていたのには驚きましたね。さらに、その後、泉光院という宮崎の山伏が江戸時代に全国を旅行した本では一日60キロも歩いている、それも山道を…… 現在とは体の作りでも違ったんですかね。驚くばかりです。その他の情報につきましても、大変、参考になりました。ありがとうございました。

その他の回答 (5)

  • eroero4649
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回答No.6

#1です。 「昔の人はすごかった」というのは、さほど昔の話でもないと思います。昭和30年代くらいまで田舎のおばちゃんが野菜を背負って行商に行っていたなんてことがありましたよね。あのおばちゃんたちは当時だいたい30キロくらいの野菜を背負っていました。それで当時はエレベーターもエスカレーターもないじゃないですか。駅の階段を全部えっちらおっちら登っていたんですよね。 もちろん行商して帰りは荷物はだいぶ軽くなっているはずですが、それぞれのお宅まで歩いて回っていたわけでしょう?しかもそれを毎日のようにやっていた上に、農作業だってしていたわけで。 元自衛官の人の1日30キロが限界という話は、正直うそーんと思います。私、小学生の頃に市が主催する「我が市の外周を一晩かけて歩こう」というイベントに2回か3回か参加したんですよ。面積から考えると、市の外周は20キロくらいです。たぶん、そのくらいの距離だと思います。小学生でしたが、それは全然平気でしたからね。周りの子もバテる子はほとんどいなかったと思います。楽しかったですよ。 30キロというと、新宿から八王子か立川くらいでしょ。そのくらいは行けるのではないでしょうか。ただ、現代だと地面がアスファルトですから、それだと歩くのはキツいんですよ。アスファルトって膝や腰にかなり負担がかかるので。多摩川の河川敷のほうが逆に負担がかからないです。 だから元自衛官で1日30キロが限度と聞くと「元自衛官が、そんな程度しかできないってことはないでしょう」と思います。空挺部隊なんてもっとキツいでしょうからね。ちなみに調べてみたら日本陸軍の行軍規定は1日で24~32キロとされていたようです。1日40キロで「強行軍」とされました。  あと、ナンバ歩きは私は非常に疑問視しています。理由はシンプルで「解剖学的に非合理的だから」です。右足と左足が同時に前に出るなんて運動力学的に非効率極まりないです。「昔の人は刀を差していたから(刀が邪魔で)そういう歩き方になった」という人もいますが、江戸時代でも武士の割合は10%程度。しかもジョン万次郎のように漁師や農民から帯刀身分にされた人もいますから、正直にいえば「ンな、バカな」と。 スーパーコンピューター上に骨格標本を作って、地面を下りに数度倒したら歩き始めたという実験結果もあったそうです。

tahhzan
質問者

お礼

なるほど、面白いですね。それと、元自衛官と言っても、70手前の人です。恐らくですが、何の支援やサポートも無しに日本を縦断した人の中では最高齢ではないかと思います。約2か月で佐多岬に到着したようです。ありがとうございました。

  • cse_ri3
  • ベストアンサー率25% (165/640)
回答No.5

中国大返しについて 戦国時代の行軍距離ですが、他サイトからの引用ですが、多くて24キロくらい。 10日で230キロは強行軍ではなさそうですが、秀吉軍はへばっていたみたいで、山崎の戦いでは後詰でほとんど活躍していません。 これを反省したのか、後の賤ヶ岳の大返しでは、道中の農民に炊き出しや水を補給させるなど、兵士の消耗を減らす工夫をしています。 なお、戦国時代の人の筋力ですが、サイトは忘れましたが当時の日本人は筋肉パツンパツンで、筋肉が骨に擦れて後が残っていたほどだったことが、当時の人の遺骨からわかったそうです。

tahhzan
質問者

お礼

そうですか。その名残りで、明治の軍隊は強かったんですかね……ありがとうございました。

  • staratras
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回答No.4

鉄道や自動車が存在しない時代には、馬や駕篭に乗れる立場の人以外は歩くほか陸上を移動する手段がないので、昔の人は現代人よりもはるかに健脚でした。 例えば昔の東海道は江戸の日本橋から京都の三条大橋まで約492キロありますが、13日から15日くらいかけて歩いたと言われています。15日かかったとしても一日に約33キロ歩いた計算になります。(東海道では桑名宿と宮宿の間の七⾥を海路で進む場合が多いのですが大まかに計算) 長崎・出島のオランダ商館付きの医師として来日したドイツ人医師ケンペルは2回江戸に行っています。最初の元禄4年には3月2日に京都を起ち、途中一部は駕篭や馬に乗りながら3月13日に江戸に到着していますので12日間で、1日の平均移動距離は40キロを超えています。 もちろん普通の旅人は歩きやすい服装だったと考えられ、甲冑を着たりはしていませんが…。現代人に同じように歩けと言われてもほとんどの人は不可能でしょう。 秀吉のいわゆる「中国大返し」の細部については見方が分かれているようですが、少なくとも本能寺の変が発生した天正10年6月2日と、山崎の戦いで光秀が敗れた6月13日という両端の日付が動かしがたいとすれば、その中の何日間かで強行軍が行われたと見るほかないと思います。 回答者は以前大正の終りに旧制の高等女学校に入ったという高齢の親族から、夏休み明けに帰省先から数十キロ離れた学校のある町に戻る際、「女の子(女学校の生徒)は近所の数人の同じ女学校の生徒の親が金を出し合って雇った馬車に乗れたが、男の子(旧制中学校の生徒)は荷物を背負って徒歩で帰った。」という体験談を聞いたことがあります。九州の田舎では大正の終わりから昭和の初めになっても、まだこのように男子中学生が荷物を背負って一日に何十キロも歩くことが当然だと考えられていて、昔の人は自然に足が鍛えられていたようです。

tahhzan
質問者

お礼

う~ん、凄いですね。振り返ると、自分が哀れにも思えてきます(笑) やはり、人間は、歩くのが基本なんでしょうね。ありがとうございました。参考になりました。

  • qazaq
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回答No.3

 私は戦国時代の歴史話はあまり信用していません。自分か藩を美化するための物語です。遠征する可能性の大きい土地・村には前もって武具を備えさせておき、いざという時には伝令を走らせ知らせ、農民と若干の下級武士を集めて行進させ、威力を示すということだったと思います。人間1日全速力で20キロ走ったら死にます。  

tahhzan
質問者

お礼

なるほど。そんな考え方もありましたか。ありがとうございました。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.2

たぶん質問のメインは昔の人の体であって、大返しではないですよね? 大返しについていえば、本当に記録の日程が正確なのか、あるいは武具は別移動ではないか、なにかトリックがあるでしょう。武装したまま本当にあの日程で長躯したと思ってる人はいません。 作業をしながら・・・というのはたぶんほとんど作業していません。 伝令を飛ばし村々に灯火や炊き出しを命じています。 昔の人の体についてだと、当時の人はナンバ歩きと呼ばれる右手と右足同時に出る現代とは違った歩行法をしていると思われています。これが本当に長距離走破に優れていたかどうかはよくわかりませんが、短距離走型の現代人とは筋肉の作りや歩行法からして違ったのでしょうね。

tahhzan
質問者

お礼

ナンバ歩き……初めて聞きましたね。そんな方法があるんですね。それと、武具だけ別に送るというのも、面白い方法ですね。色々と参考になりました。ありがとうございました。

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