評論文の存在意義
自分(学生)だけでなく、学生なら誰でも一度は思うことと思うのですが、評論文の存在意義とは何なのでしょうか?
個人的に、評論文は「傲慢な学者が、己の賢さを誇示するものだと思っています」
というのも、正直に言って、試験等で評論文を読んでいても、「こいつは何を言いたいんだ」「よくこんな無味乾燥な文を書くな」「大したこと言ってないやん」と思ってしまうのです。
そもそも、評論文の意義というのは基本的には自分の考えを主張し、他の学者や世間に考えを広めたり、それに対する批判を受けたりすることを目的としてると思うのですが、何故に難解・抽象的な表現ばかりを使い、わかりにくくする必要があるのでしょうか?
難解な表現は仕方なく、誤解も生じにくいという利点等あるかもしれませんが、その表現すら理解されなくては、誤解以前の問題と思います。
また、仮に評論文が「一部の人に考えを知らせるため」という目的のためにあるとしても、それの意味がわかりません(これこそ、単なる誇示ではないでしょうか)。まだ「世間に自らの考えを広め、何かしらの変化を起こしてやる」という風な理由のほうが理解できます。
普通の人が読んでも、理解出来るような文にしなければ、評論文自体の意味が無くなり、単なる自己満足の文になってしまうと思うのですが、どうなのでしょうか?
誤謬、および失礼な表現が若干あるかもしれませんがご了承ください
お礼
ご回答のほど、 ありがとうございます。