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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:鍵っ子したことありますか?)

鍵っ子の経験と子供のお留守番の可能性

このQ&Aのポイント
  • 学校の突然の閉鎖で日本中の小学生の親が焦りまくっています。子供を家においていたことがない親たちは心配でお留守番ができないという意見も多く出ています。
  • 私は小学1年から共稼ぎの親が帰宅するまでの6時過ぎまで鍵っ子で食事もおやつもない生活をしていました。夏休みは当然朝から晩までです。学童保育に行ったことはありません。
  • 一方欧米では12歳以下の子供だけでの留守番は違法です。ネグレクトに当たるため通報されます。

質問者が選んだベストアンサー

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  • fs64vvz
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回答No.15

KoalaGoldさんこんにちは。 私もKoalaさんと同じような鍵っ子でしたが、弟がもっと酷かった・・・私が小学校2年生から鍵を首にぶら下げて学校行ってた訳ですが(その前住んでいたところには学童保育があり弟も保育園に行けていましたが、引越し先で受け入れ保育園や学童保育がなく)、弟はまだ5歳で、朝から留守番でした。 今思うと昭和一桁生まれの母の危機管理たるやずさんでしたねえ。 ちょっと頭の弱い子が遊びに来て、ガラス窓を割って大怪我をし、そのまま弟を連れて逃走するという事件が起きてしまい、刑事沙汰になったのがきっかけで弟は保育園に無理くりねじ込めましたが、私はずっと鍵っ子。 よく鍵を失くしたり忘れたりして、家の玄関で6時過ぎまで座って待ってましたね(笑) 痴漢に遭ったこともあります。 現代の話ですが、私の娘は今でこそ普通に生活できていますが、小さい頃は精神年齢の発達が少し遅れていたのです。 前述のような私の経験もあり、とても1人で留守番はさせられませんで、高校に入るまでは親と同居してもらっていました。 それに、ずっとトラックの運転手をやっていますが、拘束時間が長く業務によっては帰りや出勤が夜中になるので、親が協力して送り迎えをして保育園に預けていてもネグレクトを疑われましたよ。 まとめると、昭和の時代でさえ危険なケースはあったし、現代日本でもネグレクトとして通報されないまでも後ろ指さされるので、世間体上も子供にお留守番はさせない方がいいというのが経験上の結論でしょうか。

KoalaGold
質問者

お礼

五歳で留守番、ガラスを割られて連れ去られ、痴漢経験もあり。すごいですね。お母さんはもちろんお父さんもこの事件は真剣に考えてくれましたか? 私の親も昭和一桁と11年ですが、父親は育児は全て母親に丸投げでした。父親の精神面でのサポートさえ受けられない20代の女性には責任が大きすぎたでしょう。今では20代前半の親はヤンキー扱いですが、当時はどこもそんなものでした。 考えてみたら高校卒業後数年働いただけで社会性があるとは思えないのにいきなり二人の子持ち。だからこそ祖母やおばさんたちの育児経験者のアドバイスが欲しいのに、団地族時代は転勤族の始まりでもあります。誰の助けも友人もいないところで一人で子育てをしますから躾も教育もよくわかっていなかったのでは。 しかし放任でもとりあえずしっかり育ちましたから、あとは本人次第です。芸人さんたちが子供時代をよく語りますがそれはそれは悲惨な子供時代を送った人もいますから。

その他の回答 (15)

  • itariii
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回答No.16

うちは母がずっと専業主婦だったので、 鍵っ子の経験は全くないですね。。

KoalaGold
質問者

お礼

割合的には鍵っ子は少数派なのでしょう。私の時代でも鍵っ子は少なくて家に帰るとお母さんがおやつを出してくれるとかおばあさんがいてくれるとか羨ましい限りです。

  • unnoun
  • ベストアンサー率16% (409/2496)
回答No.14

はい、鍵無しっ子でした。多分ネグレクトでした。 鍵はあるのですが、所定の場所に戻し忘れて、閉め出され、ガレージでずっと小さくなってました。 2階がよく開いていたので花壇を踏み台にしてよじ登り降りれなくなり。ベランダで夕方まで待ちました。いつも母が帰るのは5時半、 遊んでくれる友達はいません。トイレも出来ません。パートに出たのが9歳ぐらいで、ぼっちでした。それから祖母が死ぬまで、19才まで、ぼっちでした。まぁ、近所も見て見ぬフリなんで、性格が暗くなっていきました。小2までは、親がいなくても婆さんが居てビックリした事があります。父方、母方、どちらも数えるぐらいでした。こわがりだったので、音がすると誰や!と怒鳴ってました。みんな塾や、遊び回るのを反対する親ばかりで、ペットと二人でガレージが基本でした。母もパートに出たら即採用明日から!で、運試しで行ったらしい受かっちゃったみたいで、けっこう放置されました。

KoalaGold
質問者

お礼

放置育児あるあるです。これ結構多かったと思います。鍵っ子は鍵を忘れることもあるので、空いている窓を見つけてよじ登ったり、よくやりましたよね。 ご近所やお隣さんとも連携していない親の場合、この状態になります。鍵を預けてもいないし、雨が降ったからと言って家の中で待たせてもらったりもせずに、子供は子供でサバイバル技術を見につけていったものと思えます。 これの良い点は大人になって何が起こっても動じない。なんとか生き残る方法を考える頭が作られています。 ってご自分で結構つよくなったと思いませんか。私が海外でたった一人で困ったことになってもホームシックにもならずなんとか知恵を絞り出して苦笑いしながら生きてきたので、まあおかげさまで強くなったと思ったわけです。

  • 31192525
  • ベストアンサー率19% (705/3542)
回答No.13

KoalaGoldさん、こんにちは。  うちがビンボーだったものですから・・・ 『小三から高三まで』カギっ子してました。  そもそも一人っ子ですので、たいして苦にしてなかったと思います。中学になると友達を家に上げて騒いでました。スマホもポケベルもない時代です。  欧米のことは初めて知りました(汗) やっぱニッポンは平和だ。  

KoalaGold
質問者

お礼

一人っ子は寂しくなかったですか?今だったら塾のハシゴをさせられていたかもしれません。家に一人で居られる時間は大人になって大切なものになりました。31192525さんはクリエイティブな子供時代を過ごせたのではないでしょうか。創造性は一人でいる時間でないと育たないように思えるのです。ピアノを習わせても絵の教室に通わせても先生の元でやることはただの習い事です。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34518)
回答No.12

物心ついたときからカーチャンは働いていたので、ずーっと鍵っ子でしたね。小学校のときは鍵を首からぶら下げていました。カーチャンはいないのが当たり前だったので、ここだけの話・・・言いづらいですが・・・カーチャンが家にいるとちょっとウザいです・笑。 子供の頃は友達を呼ぶか友達の家に遊びに行くかをしていたので、寂しいと思ったことはないです。確か小学校4年生くらいのときに月曜日にそろばん教室に行きたいと言い出したと思うのですが、その理由は月曜日はクラスメートがみんな習い事をしていて遊び相手がいなくて、その月曜日にそろばん教室があって友達が何人か通っていたからです。まあ要するに友達に会いたいからそろばんに行きたいと言ったというただそれだけのことです。 小学校2年生のときには電車とバスを乗り継いで秋葉原の交通博物館などに1人で行ってましたから。私が結婚できなかったのは、自分の中に「お母さんがいないと生きていけない」っていうのがなかったからだったのかもしれません。

回答No.11

無いよ。 当時、母親が内職・在宅ワークをしていたので。

KoalaGold
質問者

お礼

はあ、ため息が漏れます。うちの母も内職をしていました。お金が欲しいのは当然でもう少しでマイホームに手が届くところでしたが幼児がいては仕事に出られません。その上我が家は2年ごとの転勤で地域の保育園に申し込みができないのです。市役所というところは半年も前の10月1日の時点でフルタイムの仕事についていないと申し込みは却下されるのです。 母がミシンでいろいろなものを縫い、傘を縫っておいたものが部屋中にあり、傘貼り浪人の風情でした。そのおかげで私も見よう見まねでミシンを覚え、10歳でクラスメイトにトートバッグを縫って売りました。

回答No.10

いわゆる鍵っ子でしたけど、鍵は持ってなかったし玄関は常に鍵かかってませんでした笑 両親共働きだったので、小学校から帰って夕方まで弟と二人でしたね。友達と遊んだりして過ごして、自分たちが鍵っ子という意識は無かったです。世代的にみんなそんなもんでしたから。 当家は現在小6高2の2児で、私は自宅自営業で基本家に居ますが、用事があるときは子らは放置です。卵かけご飯でも食っとけってLINE入れたり笑。実家も近いしどうにでもなります。

KoalaGold
質問者

お礼

うっそー、鍵をかけない家の3人目です。 鍵をかけない家で子供が二人。でもそれが結構当たり前でしたよね。ドラえもんはそんな時代に一人っ子ののび太くんの相棒として出現したような気がします。せめて兄弟がいれば家の中で孤独にはなりませんから。 私も自分が共稼ぎの親となり留守番させようとするとご近所から「やめろ、通報するぞ」との心優しい忠告をいただき、出かける用事の時は人を頼んでいました。時給はマクドナルド程度です。あーあ。

回答No.9

すみません。 途中で投稿ボタンを押してしまいました。 「お昼代」として置いて貰いましたが、家にあるものや安い食材を買って余ったお金を貯めて漫画を買ったりしていましたね。

KoalaGold
質問者

お礼

ふふふ、漫画代の捻出は結構みんな頭使ったと思うんですよ。月の小遣いは少ないですから文房具代や給食代としてもらうお金の金額をごまかしたり。私は10歳からクラスの子から小さな仕事を引き受けては対価をもらう方法で貯めてました。可愛いは作れるけどケチも作れる、って思います。

  • citytombi
  • ベストアンサー率19% (1721/8628)
回答No.8

昭和の昔、首から鍵をぶら下げた「鍵っ子」がいました。 私の親も共働きで、私が帰る時間と母親が戻ってくる時間まで1,2時間の差があったので、ひとりで家に入ったり夕方遅くまで外で遊んだりしていました。 寂しくも何とも思わなかったです。

KoalaGold
質問者

お礼

1、2時間なら遊んでたら帰ってきますもんね。学校のある日はそんなに退屈もしなかったでしょう。宿題もあるし。しかし夏休みはものすごく長い。友達がいないと本当に長いです。

回答No.7

ウチは自営業だったのですが、父は訪問営業に出ることが多く、私が高学年になってから母は外に働きに出て、私が店番していました。 ·····鍵っ子とはちょっと違うような気がしますね。 実は家の鍵を持った事がありませんでした。 おやつも夕飯も私が作っていましたし、夏休みの長期休みや土日などは一応「お昼代」としてお金を置いて

KoalaGold
質問者

お礼

すごいですねえ。私の友人も自営業の両親が働いている間おばあちゃんが家にいたそうです。そのおばあちゃんに料理を習い12歳からは家族の食事は全部娘が作り、高校卒業後料理学校に入学して調理師になりました。 家に人がいるだけでこういう人生が送れるんですねえ。私はただお腹すかせて親の帰りを待つだけでした。時間はたっぷりあったんですから料理を教えてくれればよかったのになぜか台所に入らせてくれない母親でした。 真っ暗になっても親が帰らなくてお腹を空かせた時に生の豚肉をかじってみたら食べられるようなものじゃなかったし、ジャガイモも生では固かったです。チョコの匂いの石鹸は本当の石鹸の味でした。どうして料理を教えてくれなかったんでしょう。24歳でオーストラリアに来てから料理本片手に料理を始めるまで何もできませんでした。

回答No.6

祖父母がいたので子供時代は経験ないです。親は二人とも働いてましたけどね。 学校で具合悪くなったときは、祖母が迎えにきてくれたこともありました。

KoalaGold
質問者

お礼

こちらもおばあちゃんがいたお家なんですね。3世代や大家族に憧れてます。賑やかでいつでも人がいて。 兄弟の多い家の子供はみんな人懐っこくおしゃべりや気遣いに長けていると思います。旦那が4人兄弟なのですが兄弟でじゃれあっている姿を見て羨ましいです。

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