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大東亜戦争について

大東亜戦争について詳しいかた教えてください。 硫黄島には、なぜ栗林忠道さんのような出来る軍人が行かされたのですか? どうせ大本営は本土決戦のための時間稼ぎとしかとらえてなかったのなら、栗林さんのような有能な方は本土決戦のため温存しといたらよかったのではないでしょうか? 市丸さんもそうです。 市丸さんなんて、足が悪いのに硫黄島なんかに行かされて正常に戦えないし、死ぬのみですよね。 このときの人事はどうやって決まったのでしょうか? お詳しい方お願いいたします。

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回答No.2

手元に雑誌「文藝春秋」2007年6月号があり、「昭和の陸軍」という特集を組んでいます。 半藤一利氏、保坂正康氏他、5人による座談会の記事です。 この記事の中に、ご質問に関連する発言がありますので紹介します。 半藤一利氏が「私はそもそも、なぜ栗林が小笠原諸島の守備を担当する第109師団に配属されたのか疑問をもっています」と切り出して、そして「東條に嫌われて硫黄島へ左遷されたという説がありますが、真偽のほどは分かりません」と続きます。 保坂正康氏「赴任したのは昭和19年6月ですよね。この時点ではまだサイパン島は陥落していませんから、栗林が第109師団長に親補された(*親補は5月27日、米軍のサイパン進攻開始は6月15日、回答者追記)段階では、大本営は硫黄島で決戦を行おうと思っていたのではないでしょうか。見捨てられて硫黄島に行かされたのかどうかは微妙なところです。」 半藤一利氏「巷間、言われているのは、近衛師団長だったときに部下が火事を出したためその責任をとって硫黄島へ行かされたという話ですね。ただ、自ら責任をとったのか、それともとらされたのかは藪の中です。」 この「部下が火事を出した責任論」については、wiki「栗林忠道」によれば、 秦郁彦氏がこの程度のことで更迭されるとは考えにくいとしています。 まあ、そうでしょうね。 Wikiから一部抜粋。 「1944年(昭和19年)4月、留守近衛第2師団長から東部軍司令部附に転じる。栗林が東部軍司令部附となったのは、厨房から失火を出した責によるとされる。秦郁彦は、厨房から火事を出した程度で留守師団長を更迭されるとは考えにくい、第109師団長に親補する前提での人事であろう、という旨を述べている。」 結局、なぜ栗林中将が選ばれたのかは、この座談会では結論を出していません。 ただ、東條は、英米の駐在武官経験者を嫌っていたので、米国・カナダの駐在武官経験のある栗林も、という推測はしています。 エピソードとしては、船坂弘著『硫黄島』にはよれば次のようです。 五月二十七日、東条は栗林を招いて懇願した。 「戦況はどうやら日本本土の一角である小笠原方面が決戦場になること必定だ。 この場合どうしても君のほかにはやれるものがいない。栗林、頼むぞ」 東条の真剣な表情に、栗林の顔もこわばった。 その栗林に、「どうかアッツ島のようにやってくれ」と、東条はかさねて頼んだ。 この東条大将の「アッツ島のようにやってくれ」という言葉の真意はどこにあったのであろうか?

hn040430
質問者

お礼

ご丁寧にありがとうございます。 そのお話詳しくは知らなかったので、とても参考になりました。 やはり、確実なことはわからないのですね。ありがとうございました。

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その他の回答 (1)

回答No.1

逆です 時間稼ぎのためには栗林中将みたいな有能な人物が必要でした 結果的に時間稼ぎに成功しています(大本営の期待以上に)

hn040430
質問者

お礼

ありがとうございます。確かに時間稼ぎは必要だったようですね。 参考になりました。

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