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騎馬民族制服王朝説

1948年、昭和23年に騎馬民族制服王朝説が発表されましたが、ならどうして古事記、日本書紀に馬がでてこないのですか、私の読み忘れですか。

みんなの回答

  • staratras
  • ベストアンサー率41% (1498/3648)
回答No.6

騎馬民族征服説の当否は別として、古事記・日本書紀に馬や馬の飼育に関する記述はかなり登場します。 神話の時代にも「天斑駒」(あめのふちこま)(皮をはいで天照大御神が神衣を織る機屋に投げ込まれる)があり記紀両書に記述されています。また日本書紀の神宮皇后摂政前紀には新羅王が「飼部(みまかい)」(古事記では「御馬甘」(みうまかい))となって服属を誓う話があります。後者は、日本の馬の飼育技術が朝鮮半島からもたらされたことを示唆する記述としても読むことができるでしょう。 古墳時代の遺跡からは多くの馬具が出土しており、馬の骨も見つかっていますのでそれ以後日本に馬がいたことは間違いありません。一方で魏志倭人伝(通称)には、卑弥呼の時代には馬がいないと書かれていて、この記述を信用するならそれ以後古墳時代までのある時期に、馬と飼育技術が外から(朝鮮半島経由と考えるのが常識的でしょう)もたらされたことになります。 また「播磨国風土記」や「常陸国風土記」にも馬の記述が多く、8世紀には日本で多数の馬が飼われていたことがわかります。さらに下って源平合戦ころになれば、「平家物語」が伝える「戦場での馬の活躍」(名馬2頭の宇治川の先陣争い)や「馬を活用して活躍する英雄」(義経の鵯越)が登場するようになります。 「仮に騎馬民族征服説が正しいとすれば、こうした英雄譚がもっと早く記紀などにも登場して然るべきだ」とは言えるかもしれません。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.5

まず日本書紀とは何かということを考えるべきです。 当事大和朝廷は大化の改新において全国の豪族を廃止し律令制度による日本全土の直轄化を進めていました。 これは通身分を奪われる豪族が大反乱を起こしてもおかしくない大改革です。 この大改革を断行するにあたり、天皇家の歴史と日本の古来からの神話・神々の伝説を結合することにより天皇家の正当性を打ち立てるための歴史書です。 天皇が当然に日本全土を支配する存在となるためには日本古来の神々の子孫とするのが一番都合がよかったのです。こうした背景で作られた国書ですので、異民族起源であったなどという事実など書くわけありません、そんなものはむしろ隠滅すべき歴史です。 なお私は騎馬民族説は否定派です。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.4

 #2です。 補足です。  これは20世紀後半に出た上山春平などの説ですが、僕は『古事記に』に出ているからといって騎馬民族征服王朝説の証拠だとは思いません。  ただ古事記に間接的に馬の存在を仄めかす名前が見られるというだけで、その説とこれは別だと思います。

  • cse_ri3
  • ベストアンサー率25% (165/640)
回答No.3

ですので、概要はウィキペディアを参照ですが、現在では騎馬民族王朝征服説は、どちらかと言うと否定されています。 神話に記録が無いことも理由の一つですが、朝鮮半島の歴史書にも記載がありません。 日本に来るには、北海道から南下するので無ければ朝鮮半島をたどるしかないのですが、何かにつけ日本に優位に立とうとするかの国の人が、それを主張しないことからも裏付けられます。 また考古学的にも、古墳時代に文化の分断が見られないことからも、騎馬民族王朝征服説の否定を裏付けています。

参考URL:
https://ja.wikipedia.org/wiki/騎馬民族征服王朝説
  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.2

 聖徳太子(574-622)(下記)は咋今「厩戸の王子」と呼ぶ様ですが「うまや」は、馬がいたことを、指しているのではないでしょうか。  https://www.sankei.com/column/news/170315/clm1703150005-n1.html  なおこれは『古事記』下巻の用明天皇の項(岩波、日本古典文学大系1ですと342ページ)に「上宮之厩戸豊聡耳命」うへつみやのうまやどのとよとみみのみこと、と出ています。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34517)
回答No.1

>ならどうして古事記、日本書紀に馬がでてこないのですか さあ、そこに何らかの意図があったのかどうかは分かりません。でも古事記が成立したのが712年とされていまして、それより古い4世紀の古墳から馬の骨や馬具が見つかっていますので、古事記が編纂された頃には日本には馬がいました。 群馬県に残る5世紀頃の前方後円墳を残した人たちはそこで馬を飼っていたようで、いわゆる渡来系であったことも判明しています。朝鮮半島から馬を連れて日本に来て、馬の飼育に向いている場所を探して流れ流れて群馬県で落ち着いたみたいです。 前方後円墳がヤマト王権の公認の印という説もあります。最古の前方後円墳とされている箸墓古墳は、卑弥呼の墓ではないかともいわれています。 確かにある時代まで日本の古代史研究は権威主義というか「古事記と日本書紀に書かれているかどうか」が最も重要な指針でした。古事記と日本書紀に記載がなければそれは史実ではないとされていたのです。 しかし石器の捏造事件というのがあって、当時は権威とされた人が認定すれば無批判に認定されてしまった反省から、遺跡調査などを基にした実証主義へと変わりました。そのおかげで、日本の古代史はどんどん教科書が書き換わる「新発見」が相次いだのです。 ただヤマト政権が渡来人による政権なのかどうかはよく分かっていません。というか、DNA的には縄文人と弥生人は違っていて、弥生人は渡来系なわけですからどこからが日本人であるとするかの線引きは難しいです。 個人的には、邪馬台(ヤマト)国は纏向遺跡で、ヤマト国という一国が日本を支配していたというより、各国による連合政権が邪馬台国の名のもとに集合し、その代表者が象徴としての卑弥呼だったと思っています。纏向遺跡(邪馬台国)は今の国連本部のような場所だったのではないかな。つまり今の「象徴としての天皇」は既に日本の最古の統一政権で行われていたのではないかということです。

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