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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:江戸時代。「所替え」の報告。)

江戸時代の所替え報告とは?新領地への移動後の手続きについて

このQ&Aのポイント
  • 江戸時代の「所替え」とは、大名に対して新たな領地への移動を命じることです。
  • 所替えが終わった後、将軍は新領地を承認するための書類を発行しました。
  • 具体的な事例については詳細な情報が少ないため、一般論で説明することが一般的です。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.3

>その際、将軍は、新領地を承認するといった何か書類を出したのですか。 下記(1)によれば、綱吉期には、早ければ一〇日遅くとも三か月後に領知朱印状が発給されたようですが、吉宗期以降には、かなり月日を経過した後にも発給したらしいです。 なお、同一筆者の下記(2)によれば、 「加増や転封などことが起これば必ず領知朱印状や領知目録が出されるといった対応関係が十分に成立していないことがわかります。」と記されていますので、時代が下るとともに… (1)GoogleBooks 〇『徳川将軍家領知宛行制の研究/藤井讓治/2008.9』 ※URLが長過ぎるのか?投稿不能が繰り返される為、 お手数ですが下記にて https://books.google.co.jp/ キーワード「徳川将軍家領知宛行制の研究」にて検索いただければ プレビュー出来ると思います。※ 補論II 領知朱印改め以外の領知朱印状発給 第三節 綱吉期の領知朱印状 一 領知朱印状個別発給の開始 (349頁8-11行目) (1)万石以上への「加増」「所替」に際しては「御朱印」が出されること、 (2)一斉発給の際には判物で出される格をもつものであっても、判物ではなく朱印状を下されること、 (3)この規定は「当戌正月」すなわち元禄七年正月に遡って適用すること が側用人柳沢吉保を通じて命じられたのである。 (351頁) 表4 元禄10年の領知朱印状…(※原本画像で御確認下さい※) (357頁1-3行目) 第五節 吉宗期以降の領知朱印状 吉宗期以降も領知朱印状の個別発給は、…なされている。しかし、その発給は、加増や所替がなされた比較的直後だけではなく、かなり月日を経過した後にもなされている。 (2) 〇「江戸幕府の地域把握について―徳川将軍発給の領知判物・朱印状―藤井讓治」『福井県文書館研究紀要(1)/福井県/2004.3』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10324998 3.将軍代替わり以外に発給された領知朱印状 [14/15](16頁24-31行目) こう言いますと、166通しかないわけですから、所領の変化がたった166回しかなかったのかという疑問が出ますが、実際は、転封あるいは加増・減知というものを数えてみますと、江戸時代には数百以上のそうした事例があります。この事実は、領知が替わったり、転封をしたりという時に必ず領知朱印状あるいは領知目録が出されるのではないということを示しているわけです。 このようにみてくると、江戸時代の領知朱印状・領知目録というものはたいへん整備されたもののように考えられて来ましたが、実際には、加増や転封などことが起これば必ず領知朱印状や領知目録が出されるといった対応関係が十分に成立していないことがわかります。 あと、GoogleBooks の幾つかの断片情報からの推測に過ぎませんが、転封の後年、藩側から幕府に対し領知朱印状・領知目録等の発給を願い出た場合もあったようです。 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

これです、私が知りたかったのは!! 将軍が、大名に所替えを命じた際、「この何万石をそちに任す」という“契約”が口頭だけではないはずだと思って質問しました。 『徳川将軍家領知宛行制の研究/藤井讓治/2008.9』 こんなズバリの本があったのですね。 よく分かりました。 『福井県文書館研究紀要(1)/福井県/2004.3』の「3.将軍代替わり以外に発給された領知朱印状」もズバリの内容でした。 毎回、親切なご回答に感謝申し上げます。

その他の回答 (2)

回答No.2

「白峰旬氏の論文8本を読みました<2014/07/30 20:11>」とのコメントから、既に御存知の箇所も有ると思いますが…幾つかの事例です。 (1)「松平信祝/下総国古河→三河国吉田/正徳2(1712)年11月2日受取」事例 〇「正徳2年の下総国古河城引き渡しと三河国吉田城受け取りについて/白峰旬」『史学論叢 (38)/別府大学史学研究会/2008-03』(14-48頁) http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=sg03808 [12/35](25頁11-20行目) 【11月2日】 この日は、吉田城・古河城の受け取り・引き渡しの当日にあたり、古河より今朝六半時(午前7時頃)の刻付で、城を首尾よく渡した旨の注進(古河城引き渡し方の家老西村治右衛門、小畠助左衛門よりの書状)が飛脚にて(古河藩江戸屋敷の松平信祝に対して)あった。 このあと、老中阿部正喬のところへ、今朝、古河城を本多忠良に対して異儀なく渡した旨を記した11月2日付の届書を提出した。… …古河城引き渡しの上使2人からも、今朝、古河城引き渡しが済んだ旨の書状が(古河藩江戸屋敷の松平信祝に対して)来た。古河城を引き渡したことを松平近禎(寺社奉行)、井上正長(側衆)、酒井重英(新番頭)などへ書状を出して報告した。 [12/35](25頁25-34行目) 【11月4日】 吉田城を(11月)2日に受け取った旨の注進の飛脚が、去る2日の五半時(午前9時頃)に吉田を発足し、この日(11月4日)の七時(午後4時頃)に江戸へ到着した。そして、即刻、松平信祝が、当月2日に吉田城を首尾よく受け取った旨の口上書を持参して(江戸城に)登城した。… …この口上書は、大老井伊直該、老中土屋政直、秋元喬朝、大久保忠増、井上正岑、阿部正喬、側用人間部詮房、本多忠良に対して持参したもので、秋元喬朝、井上正岑、阿部正喬へは直接、口上を述べたため口上書は出さなかった。また、若年寄久世重之、水野忠之、鳥居忠英、大久保教寛に対しては使者を遣わして報告した。 吉田城引き渡しの上使2人より、書状にて吉田城受け取りのことが(古河藩江戸屋敷の松平信祝に対して)報告された。 (2)「越智松平家(武元)/上野国館林→陸奥国棚倉/享保14(1729)年2月25日受取」事例 〇「論説/谷口昭/家中の履歴―越智松平家の初転封―(下)」 http://law.meijo-u.ac.jp/staff/contents/pdf_47-54/540304_Taniguchi.pdf 『名城法学 第54巻第3号/名城大学法学会/(2004年度)』(135-182頁) http://law.meijo-u.ac.jp/staff/meijo-hogaku.html [10-11/25](153頁17行目-154頁2行目) 旅宿で上使は江戸に送る「城渡シ受取相済ノ旨」の注進状に宿次証文を添えて両名に託し、生田作右衛門(町奉行)から町問屋へ渡された。家中の注進状は軽卒・長柄の者各一人を派遣し、太田家(※引渡側)の飛脚と一緒に二日半の行程で江戸の藩邸へ届ける手筈がとられた。 [12/25](157頁7-10行目) 近隣の領主への報知も転封儀礼の一種と見なすことはできるが、領知替に付随する儀礼の場は江戸に移る。 二月二七日、二日前に棚倉を発した城受取の注進状が江戸に到着した。藩邸では直ぐさま老中水野和泉守へ報告し、引渡を受けた太田備後守へも使者を遣わしている。当然、江戸に近い館林を発した引渡完了を報ずる使者は前日に到達しており、その日のうちに老中水野へ届けられていた。 (3)「板倉勝澄/伊勢国亀山→備中国松山/延享元(1744)年6月4日受取」事例 〇「亀山市史 通史編/近世/第2章 亀山藩政―第2節 転封の世紀 第6項 石川氏の再入封 12 交替の終了」 http://kameyamarekihaku.jp/sisi/tuusiHP/tuusi-index.html#a2 http://kameyamarekihaku.jp/sisi/tuusiHP/kinsei/honbun/02/02/pdflive.html [62/68](1-13行目) 次いで八日には亀山からの飛脚が到来し、引渡が順調に終わったことを報じている。これらの結果は直ちに江戸に伝えられ、在府中の城主から老中に転封完了の届書四通が出された。九日付の二通では、亀山城を上使から石川家中に、亀山領を信楽代官に引渡したことを届け、十二日付の二通では、松山城を上使を経て石川家中から、松山領を笠岡代官から受取ったことを届け出て、延享元年の交換転封は終わった。 これまで見てきたように、老中からの通達によって始まった転封一件は、老中への届出をもって終了した。 (4)「松平康爵/石見国浜田→陸奥国棚倉/天保7(1836)年9月27日受取」事例 〇「天保7年の陸奥国棚倉城受け取りについて/白峰旬」 『別府大学大学院紀要 (8)/2006-03』(27-52頁) http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=gk00805 [1-2/26](27頁[最下段]28行目-28頁1行目) (以下、特に主語を明記しない場合は、松平康爵サイドの動向を記すものとする)。 [14/26] (40頁20-21行目) 5.棚倉藩受け取りの具体的プロセス(4) ~城受け取りの実施(天保7年9月)及び受け取り以後(同年9月以降)~ [14-15/26] (40頁35行目-41頁4行目) 【9月晦日】 棚倉城の引き渡しが終了した旨の飛脚が到来した。それを受けて、9月27日に棚倉城を無事、井上正春の家臣より受け取ったことを月番老中へ届け出ることについて、井上正春の御留守居に対して使者を遣わして伝えた。9月晦日付で月番老中松平乗寛へ提出した届書には、9月27日に棚倉城を上使内田正好の引き渡しにて、井上正春の家臣より受け取ったことを記している。… [15/26] (41頁12-14行目) …9月晦日には、上述のように届書を月番老中に提出したほか、同内容の届書を大老井伊直亮・本丸老中・西丸老中へ合計7通、本丸若年寄・西丸若年寄へ合計9通、京都所司代・大坂城代へ各1通、大目付・目付へ各1通、御三家へ各1通を提出した。… (41頁21-22行目) 【10月1日】 10月1日に上使2人が江戸に帰った… (41頁24-26行目) 【10月15日】 この日、上使2人のうち内田正好が、江戸に帰っての将軍家斉に対する御目見を済ませた。… (41頁27-29行目) …この将軍への御目見によって、棚倉城引き渡しの上使としての役目は終了したことになる… 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 新領地に移ったという報告についてはよく分かりました。 その際、将軍は、新領地を承認するといった何か書類を出したのですか。 領知の朱印状は将軍代替わりのときだけでしょうか、という疑問です。 何かを出状しなければ、形式上は古い領知のままで推移するのかな、と思いました。 老中の口頭で完結ということでしょうか。 もう少し調べてみます。

  • g27anato
  • ベストアンサー率29% (1166/3945)
回答No.1

将軍家との関係の近さにもよりますが、 よほど近い関係でない限りその多くは、家老職などの要職者から書状で下命されたようです。 下命を賜るのも書状を届けるのも、江戸詰めの藩士(下郎ではなく大名直属)が仲介しました。 滞りなく事(国替え)が済んだ時点で、その旨を報告する大名自筆の書状を必ず送ります。 期限を切られてる場合が殆んどで必ず報告しなければならず、 報告が遅れると忠誠心を疑われることにもなるので、書状を間違いなく送り届けることには遠隔地ほど多大な神経を遣いました。 時代が時代だったので万一の事を考えて、 同じ内容の書状を複数用意した上で腕と脚に自慢の家来や忍びの中から複数の使者が任命され、 「それぞれに別々の道を設定して急ぎ送り届けるよう競わせた。」という話も聞いたことがあります。 (なにせ昔の話なので確認はしてないのですが…。)

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 状況を想像できるようになりました。 「大名自筆の書状を必ず送る」と言うことですね。 大名(お殿様)は、たいてい江戸藩邸に居ったようですから、「よきにはからえ」ですみそうですが、家臣は大変だったでしょう。

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