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京杭大運河
北京から杭州まで結ぶ運河ですが、黄河に接続する地点は洛陽よりだいぶ下流になります。 洛陽に物資を運ぶ場合はこの運河から先陸路によるのでしょうか?
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- 4017B
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当時の貿易拠点の具体的事例まではちょっと知りませんが…。 基本的には運河では流れに乗って船で物資を運ぶ訳ですので、上流から下流への一方通行と思われがちですが、別にそんな事は無くて流れに逆らって下流から上流へ運ぶ事も出来ます。ただし「上流→下流」よりも「下流→上流」の方が若干、労力が余分に掛かるのは確かで、流れに逆らって下流から上流へ物を運ぶ場合は「曳舟(ひきふね)」と呼ばれる方法を使うのが通例です。 - 参考リンク https://www.youtube.com/watch?v=HyMLyML0DjI 上記、参考リンク先の動画は現代の主に観光用の「曳舟」ですが。江戸時代の日本や古代中国などでも基本は同じ方法で、運河に浮かべた搬送船にロープを繋いでそれを馬で曳かせて上流へと運び上げました。小さな船は片岸から馬1頭だけで曳きますが、大きな船は両岸から数頭の馬でロープをY字型にして曳き上げる方法を取ります。日本だと馬よりも人力で曳く方法が一般的でした。 例え荷馬車の様に車輪がついていても水の上に浮かべた船と比べたら摩擦係数の差は圧倒的ですので、多少は面倒でもこの曳舟の方が圧倒的に少ない労力と時間でより多く重い荷物を上流域へと運ぶ事が出来ました。現代では船は動力船が基本なのでこの様な手間掛かりませんが、古代社会では荷物を運ぶ場合は単純に2地点間の距離だけで無く、こういった上流下流の高低差が非常に影響しました。 ちょっと今すぐ参考資料を提示出来ませんが、上流と下流では同じ距離でも運賃が違ったという記録を読んだ事があります。また一部の運河では日にちを決めて「偶数日は下り、奇数日は上り」みたいにしてたそうです。後、中国なら河川の流れが日本と違って非常に緩やかなので、船を曳くのもかなり楽だったと思います(運河を作る際にもそれは当然考慮して作ったはずです)。
- 4017B
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本来?の中国語版のwikiなどを見る限りでは、当時は洛陽近辺まで水路が伸びてたみたいです(日本語版の水路はあくまで現存している現代版の水路のみ)。 - 京杭大运河 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%9D%AD%E5%A4%A7%E8%BF%90%E6%B2%B3 - 添付画像 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%9D%AD%E5%A4%A7%E8%BF%90%E6%B2%B3#/media/File:%E5%A4%A7%E9%81%8B%E6%B2%B3.png 大運河は時代と共に何度も改修工事がなされてますので、洛陽(東都)から離れ過ぎて不便である様ならば自ずと水路が継ぎ足されて利便が図られた事でしょう。隋の時代、605年頃に煬帝の元で洛陽までの水路が確保されたみたいです("通济渠")。 日本ではまだ聖徳太子の時代に日本列島よりも長い運河を作っていたのですから、改めて古代中国の技術と文化の圧倒的発展度合いにただただ感服するばかりです。
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御回答ありがとうございます。 開封まではわかるのですが、問題はその先です。 下るのはいいですが登りはどうしましょう。 物資の拠点はどこだったんでしょう?
お礼
なるほどわざわざ運河を引いたからには陸送はありえませんか。 牛で引く、閘門、帆で登るも考えられますが、素直に考えると畜力で引くわけですね。 御回答ありがとうございました。