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中国南北朝時代と五代十国時代について

中国南北朝(五胡十六国)時代と五代十国時代について 両時代とも戦国時代とも呼べるような血で血を洗う戦乱の時代でした。 世界史の資料集を見ていた時に 南北朝時代は貴族文化が花開いた 五代十国時代は貴族は絶滅した 両者とも同じような時代の様相だったのになぜ? と思いました。 確かに南北朝時代は南朝の安定政権のもと花開いた貴族文化だとも言えますが、混乱していた北朝の方も貴族は生き残っていたような記述を見てはて?と思いました 何故前者では貴族は生き残り、後者では壊滅してしまったのですか?

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  • zep19
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回答No.2

南朝で貴族文化が華開いたのは東晋時代です 東晋が滅び宋が建国されると貴族社会は衰退し始めるのです 南朝でも権力を掌握するのは教養はないが、実力で下からのし上がってきた武人達です 軍もやくざや匪賊のような連中の傭兵ですから それらを統率していく腕力がものを言う時代になったのです 貴族は中央政府の要職などに残りますが 軍の実権などはたたき上げの武人が掌握します こういう権力移行が進行しつつあるにも関わらず、貴族社会では豪奢化が逆に進みます 貴族自身は財産を増やす商行為を卑しいものとしていた為、財産管理を商人に委ねますが 悪徳商人に財産を騙し取られるなどして衰退していきます 梁の時代になると侯景の乱など内乱や西魏の侵入などで国内は荒れ 自分で自身や自己の財産を守れない腕力のない貴族は完全に没落するのです 北朝の北魏は鮮卑族の拓跋部がうち建てた国で太武帝が次々四周の五胡国家群を撃ち破り中原を統一しました 太武帝など北魏の皇帝は漢人官僚を重用します その一方で北魏の軍の中核を支えていた鮮卑族の長孫氏など大人(族長)達がいました 漢人官僚と鮮卑族武人の潜在的対立はくすぶっていながらも貴族社会が繁栄しました しかしながら代々の北魏皇帝は漢人との婚姻や 遊牧民特有のレヴィレート婚(父帝が没するとその子が実母以外の父帝の妻妾を自分の妻妾とする婚姻制度 為にローティーンで子供の父親になる例も少なくない)で 次第に鮮卑族の血が薄れ、漢人の血が濃くなり 遂に孝文帝が鮮卑の居住地域にあった首都平城から漢人が大多数を占める洛陽に強引に遷都を強行 さらに胡族の風習風俗を禁じ鮮卑族の不満が蓄積 やがてそれは鮮卑族の多かった禁軍(近衛部隊)の乱に始まり、北部辺境で守備していた鮮卑族の鎮(軍事拠点)での反乱を引き起こし 中央の漢人や漢化された鮮卑族貴族社会を崩壊させていくのです 長文失礼致しました

5000emperor
質問者

お礼

お二人のかたからのとても詳しい回答ありがとうございました!! 時代の流れを比較的わかりやすく書いていただいたこの方にベストアンサーを選びました

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  • tanuki4u
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回答No.1

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E6%97%8F_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD) 血統を基幹として政治的権力を占有した存在を指す。 隋代に導入された科挙により新しい科挙官僚が政界に進出してくるようになると貴族はこれと激しい権力争いを繰り広げるが、最終的に唐滅亡時の混乱の中で貴族勢力は完全に瓦解した。 貴族をこのように定義しているから。 戦乱云々ではなく、地方の土地所有の有力者(豪族)が中央の政界も牛耳っているというのが中国における貴族制度。 南北朝時代というのは、前代を含めて、地方の有力者が皇帝を作り出していた時代。 ※ 三国志演義における諸葛孔明などは豪族である諸葛氏の出身。 ※ 垓下の戦いで、項羽が「江南の父兄に会わす顔がない」と嘆く父兄とは江南の地の有力豪族を示す ※ 孫権が権力を握れたのは周瑜や魯粛などの有力豪族出身者と提携できたから 中国の貴族制度は、地方の有力者の力を結集して皇帝が強くなるとともに、強くなった皇帝が貴族を弱体化させている歴史です。 その歴史で、貴族制度が強まって時代が南北朝時代で、隋唐という強力な政権のもと、貴族の弱体化を図っていき、最終的に皇帝絶対権力を握れたのが、宋ということになっています。 中央政界の政治家のリクルーティングとして、無理やり日本史に当てはめれば ○ 地方の豪族である大名が執権(鎌倉時代)やら管領(室町時代)やら老中(江戸時代)となり、基本的に血族で継承した。 というのが、中国の貴族制度の時代。 ○ 新政府を樹立した人間たちが土地所有しないで、中央政府の大臣になった(明治時代)から帝国大学出身や軍事学校のエリートが大臣になった(大正時代から昭和時代) というのが、唐代後期からの「科挙制度」によって貴族の弱体化をはかった時代 とも言えます。