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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:徳川慶喜大坂城脱出の錦絵)

徳川慶喜大坂城脱出の錦絵

このQ&Aのポイント
  • 徳川慶喜が大坂城を脱出する様子を描いた明治9年の錦絵です。
  • 漕ぎ手の向きや漕ぎ方について、疑問が持たれていますが、目的は不明です。
  • 大坂城が炎上していないことから、脱出当時の様子を描くために注文されたと考えられます。

質問者が選んだベストアンサー

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  • fumkum
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回答No.2

この錦絵は、『徳川治績 年間紀事』と題された月岡芳年(大蘇芳年)の一連の作品群の中の1枚のようです。代々の徳川将軍の事績を錦絵にしたもののようで、家康・秀忠・家茂・慶喜の作品があることは確認できました。家康・秀忠・家茂は、国会図書館のデジタルライブラリーで見ることができます。慶喜は、大阪城天守閣蔵の作品だそうです。各代一枚(三枚貼り合わせで一枚)の錦絵のようです。 なお、錦絵の上部中央に文章が書かれていますが、残念ながら慶喜については何が書かれているか判然としません。400%ほどに拡大しても、もともとの写真が不鮮明で判読できません。ただ、国会図書館のデジタルライブラリーの家康・秀忠・家茂の文章は判読可能です。しかし、秀忠の錦絵の文章には、元和元年五月八日の大阪(*当時は大坂)落城後も大阪にとどまった秀忠が、五月十八日に大阪を発ち、枚方辺りを行軍中、真田幸村の遺計を実行に移した三好清海、同為三が、一揆を埋伏し、中軍の旗本めがけて攻撃し云々という、荒唐無稽な内容です。ですから、政治的背景はないようですが、脱出と大坂城の炎上を描くことにより、幕府・徳川将軍の終焉を象徴したのではないかと思います。明治の代になって、将軍・幕府を批判的に描いても、江戸時代と違って処罰されませんから。 月岡芳年の作品(「ハイブリッドメイン 浮世絵、錦絵の世界」より) http://www.bestweb-link.net/PD-Museum-of-Art/ukiyoe/html/1440_yoshitoshi.html 『徳川治績 年間紀事 二代台徳院殿秀忠公』 http://www.morimiya.net/online/ukiyoe-big-files/T096.html http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1302595?tocOpened=1 大阪(*当時は大坂)=このことからも、厳密な考証を経た作品でないことがわかります。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 この錦絵の成立した事情がよく分かりました。 『徳川治績 年間紀事』と題された一連の作品群の中の1枚なのですね。 そういう背景であれば、幕府・徳川将軍の終焉を象徴したもので、政治的な意図はないようですね。 東京と名が変わっても薩長のやり方に反感を抱き、徳川様の時代が良かったと懐かしむ人々が、まだ大勢いたのではないか、と。 そんな世の中にあって、こんなに慶喜を嘲笑した絵をよくぞ売り出したものだと思って質問しました。 販売目的ではなく、徳川家からの依頼だったのかも知れません。 船上の慶喜が悠々と描かれていること、艦船が直近にあること、納得できます。 考証がお粗末ですが、そんなこと問題外だったのでしょう。 いずれにせよ、なんとなく作品の狙いが分かってきました。

その他の回答 (5)

  • fumkum
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回答No.6

伝馬船も、「カッターボート(短艇)」も、和船、洋船の違いはあっても基本的な用途は同じものです。*親船に搭載して、港湾や洋上で海へ降ろし、親船と陸上(他船も)との連絡、荷物・人員の輸送、親船の曳航、緊急時の脱出用などの用途に用います。ただ、伝馬船の名称は幅広く用いられ、単独で使われる船を指すこともあります。 なお、親船の多くは弁財船で、檜垣・樽廻船、北前船に用いられ、千石船のように、当時としては大型の和船でした。 *親船に搭載して=親船のスペースの関係上、伝馬船を搭載できず、親船が曳航することもありました。 親船に搭載した模型。 http://livedoor.blogimg.jp/theropetokyo/imgs/a/c/acdc7582-s.jpg http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/zusetsu/C20/c2023.jpg 「早緒(はやお)という櫓綱で船と結んであるのが普通です」と書きましたが、これ自体は間違いではないのですが、継櫓の継ぎ部分の裏側に穴(入り子・ほぞ穴)があり、それを舷側や船尾にある杭(櫓臍・櫓杭・ほぞ)に差し込みます。つまり、継櫓と船は早緒と櫓臍の二か所で結ばれます。 http://www.geocities.co.jp/Outdoors-River/9143/ro.htm 久しぶりに和船を思い出して楽しい一時でした。帰国したら漕いでみたいとも思うのですが、冬なのでしばらくお預けになりそうです。よい質問をありがとうございました。

kouki-koureisya
質問者

お礼

度々のご回答ありがとうございます。 なぜ、伝馬船と言うのか、疑問でしたが、やっと分かりました。 「親船に搭載して、港湾や洋上で海へ降ろし、親船と陸上(他船も)との連絡、荷物・人員の輸送、親船の曳航、緊急時の脱出用などの用途に用います。」 そうゆうことですか!! 実物大の大型和船の模型を何度か見たことがあって、その時の写真に写っていました。 その時は、見過ごしていました。

  • fumkum
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回答No.5

NO4の回答について、「タグボート」ではなく「カッターボート(短艇)」です。訂正します。

  • fumkum
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回答No.4

和船の推進力には「櫓(ろ)」と「櫂(かい)」・「橈(かい)」の三種類があり、形状に特色があります。「櫓」は継櫓と言われ、一本の棒状ではなく、櫓腕と櫓下(櫓べら、櫓脚)が継合わさった形状になっています。また、早緒(はやお)という櫓綱で船と結んであるのが普通です。これに対して「櫂」「橈」は、T字形の形状で、持ち手として撞木と呼ぶ短い横棒が付いています。具体的には下のURLで確認してください。 江戸期の小型の和船は「櫂」・「橈」より*推進力が得られる継櫓が多く、伝馬船・艀・渡し船・漁船などに多く利用されています。 あくまでも錦絵の話で、史実の話ではないのですが、この船の「カイ」は和船の「カイ」のようにT字にはなっておらず、洋船のオールの形状です。また、船首の形状などからもタグボートをもとに描いたのではないかと思います。 和船、洋船に限らず、将軍・大名・旗本が舟を漕ぐなどはしないでしょうから、実際は船を探すとともに、船頭を含めて徴用したのでしょう。ただ、静岡閑居後の慶喜は、操船、投網は趣味の一つとしていますが。 *推進力が得られる継櫓=櫓べらが飛行機の翼の形状と同じで、翼理論により大きな推進力を得られるとされています。 四丁櫓?(三丁櫓か)の伝馬船の操法動画。前方に櫂が見えます。前方に客を乗せているのが見えます。早回しの再生のようです。 https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&ccid=nrAcscYZ&id=B62347D50FACC136A7460537938998CE61F14604&thid=OIP.nrAcscYZYshw-zmmqfFr7AHaEr&mediaurl=http%3a%2f%2fkabusu.net%2fwp-content%2fuploads%2f2016%2f02%2f%25E3%2582%25AB%25E3%2583%2596%25E3%2582%25B9%25E3%2583%2588%25E3%2583%2583%25E3%2583%2597%25E6%2594%25B9%25E6%25AD%25A3.gif&exph=374&expw=592&q=%e5%92%8c%e8%88%b9%e3%80%80%e7%94%bb%e5%83%8f&simid=608044355416622754&selectedIndex=10&qpvt=%e5%92%8c%e8%88%b9%e3%80%80%e7%94%bb%e5%83%8f&ajaxhist=0 船尾が継櫓、前部船腹が櫂で、T字状で、握りに短い横棒が見えます。 http://bansyo.air-nifty.com/photos/uncategorized/2012/04/27/20100311836.jpg 和船の櫂の使用例。漕ぎ手以外ほとんど人が乗れない状況です。櫂の形状はT字。 https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/yokohama/materials/resource/045-3.jpg 六丁櫓の例。継櫓の櫓で、人員・荷物を載せる空間が広くとれる。 http://www.geocities.jp/kaisyatanuki5/image/2d.JPG 十丁櫓の例。 http://blog-imgs-95-origin.fc2.com/u/w/a/uwatu/2016071021260694f.jpg 大型の十丁櫓か?早緒が見え、継櫓です。 http://blog-imgs-95-origin.fc2.com/u/w/a/uwatu/20160718212645f4e.jpg 和船の十丁櫓の模型。 http://3.bp.blogspot.com/--FeMwV4z8NY/Ulp4TeTb-iI/AAAAAAAAAtA/mTfcPVdqPyQ/s1600/8丁櫓和船・H5年作6×%EF%BC%96版+(2).jpg 色鮮やかな八丁櫓の小早? https://edowasen.files.wordpress.com/2017/06/e585abe68cbae7ab8be6b0b4e4bc9de9a6ace888b9.jpg T字の「橈」での操法。 http://file.waqwaq500.blog.shinobi.jp/Tn20110717007001.jpg 継櫓で操船している動画を見て懐かしくなりました。そのため、回答に想い入れが出たかなと考えています。

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 私は、船頭一人が船尾に立って操る、帆のない小舟は全て“伝馬船”だと思っていました。 「櫓」「櫂」「橈」の分類も知りませんでした。 昭和20年代、海水浴で小舟をたくさん見ましたが、“への字に曲がる変な櫓”くらいの覚えしかありません。 継櫓と言うのですね。 もう一度、姫路城の和船の絵を見てみますと継櫓でした。 慶喜の絵では、ボートのオールのように見えて、これはおかしいとすぐ気づきました。 大阪湾内とは言え夜の冬の海ですから、錦絵のような小さな船ではないでしょうね。 琴平航路の屋形船だったかもしれません。 一枚の絵でかなり楽しめました。

  • fumkum
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回答No.3

この錦絵は、『徳川治績 年間紀事 十五代徳川慶喜公』というのが題名のようです。十四代までは死去しているので、院殿号があり、表題にもなっていますが、慶喜は存命なので「十五代徳川慶喜公」の表題となったものだと思います。 ともかく、上部中央の文章がはっきりすると、意図もはっきりするとは思いますが、秀忠の例からも考証的や政治的な内容ではないように思います。 「漕ぎ手の向きはこれでよいのでしょうか。」ですが、絵での*船の進行方向は逆で、漕ぎ手の背中方向が、進行方向なので、軍艦から遠ざかっています。また、船の右手が船首の形状ですが、そうなると、漕ぎ手は右側に背を向けなければなりません。その面でもちぐはぐな描き方です。昔話ですが、遊びで一丁漕ぎを習ったときに、手漕ぎで前を見て漕げるのは一丁漕ぎしかないと言われたことを思い出しました。実際はカヤックなど前を見て漕げる舟も多くありますが、当時の田舎の漁師さんの知見ではそうだったのです。 *船=伝馬船かカッターボート(短艇)かははっきりしませんが、船首の形状、船幅、色等からカッターボートを描いたように見えます。 船首の形状=和船系の伝馬船の船首は鋭角・直線的であるのに比べ、カッターボートの船首は少し丸みを帯びている。 船幅=和船系の伝馬船の船幅は短く、船を上から見ると細長く見えます。カッターボートは船幅があり、上から見るとどんぐりのようにふっくらとしている物が多い。 色=カッターボートは黒・灰・白色などに塗ったものが多い。 カッターボート画像 https://www.ms-plus.com/images_item/37000/37733_1.jpg https://img.amiami.jp/images/product/main/152/TOY-SCL2-47503.jpg http://blog-imgs-27.fc2.com/s/a/i/saijixyaku/07.jpg 江戸の*日本橋本石町三丁目に、薬種問屋の長崎屋があり、この長崎屋がオランダ商館長の江戸参府の(定)宿になっています。この長崎屋は、いく度も火災にあっていて、記録類が失われたとされますが、江戸初期にはオランダ商館長の江戸参府の一行の宿になっていたとされます。寛永10年(1633)に、当時のオランダ商館長のピーテル・フォン・サンテンが参府し、家光に拝謁します。この時以降オランダ商館長の江戸参府が定例化します。寛永10年もしくはそれに近い時期にオランダ商館長の江戸参府の一行の宿になったと考えられます。 封建社会では、ある権利を下賜されると、見返りに公役を務めさせられることがよくあります。長崎屋は享保年間に唐人参座の指定を受けますが、それ以前から、長崎貿易にも携わり、幕府御用達の薬種問屋であり、これらの見返りに、オランダ商館長の江戸参府の一行の宿という役を務めたと考えられます。 この長崎屋には、西欧風の調度を用いた部屋があったとされています。また、何度も火災にあっており、再建されていますが、西欧風の調度を用いた部屋は当然再建されたようです。さらに、オランダ商館長の江戸参府の一行が投宿した時は、蘭学者や、好事家の大名・商人などが内々に(半ば公然と)面会するなどの交流がありました。 *日本橋本石町三丁目=現在の日本橋室町四丁目で、総武線快速の新日本橋駅(地下駅)の4出口脇に長崎屋跡の説明板があります。 長崎屋 https://mag.japaaan.com/archives/66177/jpegoutput-7 宴会図 https://pds.exblog.jp/pds/1/200907/03/48/b0181748_191478.jpg 紅毛人康楽図 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d5/Nagasaki-e_1.jpg 戦車の登場は、第一次世界大戦中のヨーロッパの西部戦線での1915年、日本の終戦が1945年。たった30年です。日本では国産化は難しいから、輸入した方が良いとの意見が出たこともあります。今でも思い出すのは、もう50年ほどの前になりますが、『昭和史の天皇』の中に、本土決戦を前に水を張った田圃で戦車を走らせたことがあって、それまで戦車は田圃の泥に足を取られ、走行できないと考えていた参謀(参謀本部?)達は、作戦計画の根本が揺らいで頭を抱えたとする記述があり、陸軍は戦車に関心も薄く、使いこなせなかったのだと思ったものです。総力戦と言われる中で、経済力、技術力の面でも劣ったのだと思います。終戦時に機密保持のために、戦車を地中に埋めたという記述もあり、それほどの機密のある技術力なのか、埋めるほどなのかと不思議に思ったものです。その他の面でもそうですが、彼我の力を相対的、冷静に比較することができず、井の中の蛙状態であったことも敗戦の原因だったのだと痛感します。 今、タイのバンコクに在住していますので、時差はマイナス2時間で、日本時間の午前7時がこちらの午前5時です。思ったより目的の事案が早く解決し、ルーティンワークの日課です。といってもラインにいるわけでもないので、実働4~5時間といったところです。ただ、外で人に会うことも多いので、オフィスにいないことも多くなります。オフィスとコンドミニアムの間はBTS(高架鉄道)で1駅、距離にして1kmなので、時間に余裕があれば途中の公園を抜けて歩くのですが、熱帯で歩くだけで汗になるので、歩くのは帰りになります。毎日マッサージの店の行き、また飲みに行くこともあるのですが、飲むというより食事をするという感じで、さらに接待で飲むこともあります。夜は早めにコンドミニアムに帰り、あとは自分の時間という生活です。 コンドミニアムは自己所有なので、日本から大量の本を送っておいたのですが、古事類苑や国史大系本などを送るわけにもいかず、OK WAVEへの回答も難しいとは思っていたのですが、以前と違いネットで古事類苑や国史大系などの根本史料が閲覧でき、何とか回答しているようなわけです。ただ、専門書が見られないのは痛いと感じています。 時差から、生活状況の報告になり失礼しました。

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 慶喜の側近が内密に用意した舟ですから伝馬船だと思います。 ところが、この絵の舟や漕ぎ手は何とも言いようがない代物です。 伝馬船は、何度か実物を見たことがあります。 テレビで観ましたが、和船の造船技術を継承せねばならないとかで、姫路城の遊覧船は新造の一丁艪の和船でした。 画像でも確認しましたが、船頭は船尾に立ち、進行方向を向いています。 「長崎屋」「宴会図」「紅毛人康楽図」は、どれも興味深いものでした。 西洋式のテーブルと椅子の使用についてもさらによく分かってきました。 赴任地の様子を教えてくださってありがとうございます。 時差がそんなにないので普通にやりとりできそうですね。

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2301/5116)
回答No.1

>この絵は、どんな目的で描かれたのでしょうか。 推測ですが・・・。 明治6年に、西郷隆盛・板垣退助など統幕派の重鎮が下野していますよね。 つまり、明治維新の立役者が明治政府に不在になったのです。 ですから「現在の明治新政府の正当性」を世間に示すためのプロパガンダかも知れません。 ご存知の様に、徳川慶喜は「明治4年。従四位に復帰」しています。 同時に、明治35年には「公爵」となっていますよね。 明治の政治からは一線を引いた慶喜としては、「黙して何も語らず」でした。 まぁ、単純に「風刺画」と見る事も出来ます。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 勿論、推測で結構です。 明治新政府のプロパガンダという見方ですね。 政府が板元に依頼したのか、板元が“忖度”したのか、どのくらい市中に出回ったのか、つまらぬ想像をしています。

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