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俳句の 「~や~~けり」について
俳句では 「~や~~けり」が嫌われています。「降る雪や明治は遠くなりにけり」だけが例外のようです。理由について自分なりに調べたのですが、今一つ理解できなくて、そこで、発想を変えて、「~や~~けり」の形で名句、秀句は他にないか探してみることにしました。皆様に、数句ほど挙げていただければとおもいます。よろしくお願いいたします。 (自分で探してみたものの、初心者ゆえ、これらが傑作か駄作か分かりません)
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- fumkum
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近現代の主要俳人の代表作の内から、「~や~~けり」などの切れ字を用いた句を抜き出し、切れ字の部分の前に「*」印を付けました。 正岡子規=松山*や秋より高き天守閣 月暗*し一筋白き海の上 いくたびも雪の深さを尋ね*けり 高浜虚子=遠山に日の当たりたる枯野*かな 河東碧梧桐=赤い椿白い椿と落ちに*けり 水原秋櫻子=啄木鳥*や落ち葉を急ぐ牧の木々 山口誓子=流氷*や宗谷の門波荒れやまず 中村草田男=降る雪*や明治は遠くなりに*けり 加藤楸邨=寒雷*やびりりびりりと真夜の玻璃 飯田龍太=紺絣春月重く出し*かな 金子兜太=暗黒*や関東平野に火事一つ 飯田蛇笏=折りとりてはらりとおもきすすき*かな 石田波郷=霜柱俳句は切字響き*けり 川端茅舎=朴散華即ちしれぬ行方*かな 中村汀女=とどまればあたりにふゆる蜻蛉*かな 日野草城=春の灯*や女は持たぬのどぼとけ 松本たかし=水仙*や古鏡のごとく花をかゝぐ 村上鬼城=冬蜂の死にどころなく歩き*けり 以下、江戸時代の俳諧作者 松尾芭蕉=閑かさ*や岩にしみ入る蝉の声 野ざらしを心に風のしむ身*かな 与謝蕪村=菜の花*や月は東に日は西に 「~や~~けり」は、切れ字と言われる表現技法の一種で、室町時代には「発句の十八の切れ字」と言われ、発句(ほっく)に切れ字を入れることが決まりでした。この発句とは、連歌(れんが)の最初の句で、この発句が独立し、江戸時代の俳諧を経て、明治に正岡子規により俳句という名称を与えられ、独自の韻文として成立します。 さて、切れ字ですが、「発句の十八の切れ字」を現代の品詞で分類すると、次のようになります。 助詞=かな・もがな・ぞ・か・よ・や 助動詞=けり・らむ・つ・ぬ・ず・じ 動詞の活用語尾=せ・れ・へ・け 形容詞の活用語尾=し 副詞の一部=(いか)に・となる 室町・江戸時代でもこの十八種類だけでなく、切れ字についての多くの考え方があり、非常に煩雑、広範囲になっていますし、近現代でも同様な傾向があります。そのため、現代では、(1)詠嘆の意味を持ち、(2)句の切れとなるものとし、十八種類に限らず、切れ字とは(1)と(2)の両方の条件を満たすものとされ、広範囲にとらえられています。 さて、近現代の主要俳人の代表作の内から、「~や~~けり」などの切れ字を用いた句を抜き書きすると、ほとんどの俳人に「や」「かな」「けり」の三大切れ字を中心に切れ字を多用しています。代表作だけでなく、句集などの作品集を見てもこの傾向は変わりません。 ところが、近現代の主要俳人の中で、切れ字をほとんど用いないのが荻原井泉水、種田山頭火、尾崎放哉となります(一覧には当然記載していません)。さらに、一覧にはありますが、河東碧梧桐も切れ字が少ない傾向があります。これらの人々は、自由律派とされる人たちです。 自由律派は、575の定型や季題(季語)にとらわれず、文語ではなく口語を使い、*切れ字を使わないという特色があります。 これに対して、定型俳句にも切れ字を避ける考えを持つ人も見られます。それは、先にも書いたように、今まで切れ字が多用されてきたことがあります。私の知り合いが俳句の会に入り、吟行にも参加しているのですが、最初の頃に切れ字をなるだけ使わない、頼らないようにと指導されたそうです。 しかし、これらのことはどちらかというと、俳句を作る側の事情や考え方です。そもそも、切れ字は日本古来のリズム、調子である5音・7音律に関連するものであって、日本の韻文は、俳句はもとより、川柳・短歌・詩だけでなく、歌謡曲の歌詞でも5音・7音の歌詞が多いのは、日本人の感性に根差しているからであると思います。 俳句ではわかりづらいのですが、短歌では初句か三句切れは七五調、二句か四句切れは五七調と調子(リズム)を作るものです。俳句でも切れ字の(2)の条件である「句の切れとなる」ということにより、句切れをはっきりさせ、それにより俳句の調子(リズム)を形成しています。 次に、(1)の「詠嘆の意味を持ち」ですが、「詠嘆」とは感嘆とも感動とも同じです。切れ字は感動をも表してもいるのです。中村草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」は、切れ字が2つあることでも有名な句ですが、つまりは感動点が2つある句ということでもあるのです。 ここで気が付いたのですが、『俳句では 「~や~~けり」が嫌われています。「降る雪や明治は遠くなりにけり」だけが例外のようです。』とあるのは、この切れ字が2つあることを言っているのではないですか。切れ字が2つあることは俳句を作る上ではタブーで、禁じ手です。ですから、「降る雪や~」の句も、長年二つの切れ字の是非について議論が続いたのです。また、現在でも二つの切れ字は基本的に禁じ手なのです。それもあって二つの切れ字を使った俳句の成功例は、この「降る雪や~」の句に限られると言っても過言ではないのです。山本健吉は、この句の評論の中で、『*「や」と「けり」があっても、この一句は淀みなく読み下せる。いや、見事な単一の表現となって空白を生かし切っている。』としています。 *「や」と「けり」があっても=切れ字が二つあることをいっています。(山本健吉は他の評論で切れ字が二つあるをはっきりと指摘した上で同趣旨の内容を言っています。) この俳句の成立事情は、作者自身が昭和十四年の『俳句研究‐三月号』で発表しています。その要旨は次のようなものです。 大学時代の歳末のある日、作者は思い立って母校の小学校(明治45年まで在籍した東京の赤坂区青南小学校)を訪ねる。小学校のある道路に踏み込むと、道路の勾配、石塀の構え、門灯のかしぎ、侘しい立木など、みな二十年前と少しの変わらない様子であった。寒気がはげしく、通行人は一人もなく、まるでこの街の上では時間が凍結しているような感じであった。そのころから雪がちらつき始めた。すると四・五人の小学生が金釦の黒い外套を着て、にわかに校庭に走り出してきた。その姿をみて、作者は思わず我にかえったように二十年の歳月の経過を意識した。遠い回想に浮かび上がる自分の服装は、着物に下駄、黄色い草履袋をさげた明治の小学生であった。彼は、そのような児童がいま雪の中に出現するかと予期した。このとき作者の口をついて出た句が「雪は降り明治は遠くなりにけり」であったという。しかし、気に入らず、初句(上五)を「降る雪や」と推敲して、はじめて一句が完成したとしています。 上五の「雪は降り」と「降る雪や」を比較してみると、「雪は降り」は切れ字にはなっていませんので、「雪は降り」はそのまま「明治は」以下に続き、情景描写になってしまい、「明治は」以下に従属しますます。ところが、「や」という切れ字で「切れ」を作ることにより、「降る雪や」が独立し、「降る雪や」の具象と、「明治は」以下の抽象表現が並立し、「降る雪や」の具象表現が、雪に見え隠れする情景を想像させ、幻想的情景を想起させる。懐かしい追憶を誘った現実の校舎、学童、周辺の情景は一切表現されていないが、降り続く雪の具象の中に、幻想的情景を出現させ、去った明治としてよみがえる。雪はいよいよ降り続き、一切を埋め尽くして積り、その中でのみ人間の記憶だけが生き生きとよみがえってくる。並立した具象と抽象は相互に影響融合する。それは「や」という切れ字があることによって成立するのです。 神田秀夫は、「霏霏(ひひ)とふりつむ雪の気遠さを利用して明治の遠さをとらえた」とし、山本健吉は、「雪は何となく世にも遠いような想いを誘う。いよいよ遠ざかってゆく日本の黎明期、明治を知らぬ若い世代の人たちも、恐らくこの句から去りゆく明治のイメージを一種美しく、なつかしく受け取るだろう。けだし『降る雪や』という古い表現は、『明治は遠くなりにけり』という詠嘆を包んで大らかに新しく、歴史の快感を触発しているからである。」 以上は、国語の教科書を発行している明治書院の解説を参考にしています。教科書的な解説ですが、定説的な解説でもあります。 横道に逸れてしまいましたが、「切れ字」は自由律派や一部の例外を別にして、嫌われているわけではないと思います。また、切れ字の使用も多く見られます。ただ、切れ字が重なることは禁じ手であり、ある面で嫌われているとも言えそうです。ですから、切れ字を2つ持つ俳句はなかなか作られませんし、その点でも成功例は、中村草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」だけになると言えるのではないでしょうか。
- SPS700
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#1です。補足です。 渋柿や 悪童予防に 接ぎにけり 焼き芋や 雪の夜寒も 忘れけり ヤとケリや ダメな俳句に 成りにけり
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
#です。補足です。 蒲焼や 煙で 暑さ増えにけり 焼き芋や オナラしながら食いにけり ヤとケリや 入れると駄句になりにけり
- 31192525
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hurukame99さん、ふたたびこんにちは。 蛇足ですが訂正です。 中村貞女 × → 中村汀女 ○
お礼
回答ありがとうございます え~と・・・・ その八百屋喧嘩は強しドスに蹴り・・・なんてのはwwwww
- 31192525
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hurukame99さん、こんにちは。 嫌われてはいないと思いますよ。でもW切れ字では、俳諧はともかく、いわゆる花鳥風月は読みにくくなりますね。 畑打つや 土よろこんで くだけけり 阿波野青畝 たけのこや 小坂の土の くずれけり 園女 夕刊の 香やあたたかく 時雨けり 中村貞女 川の辺や 名も無き花の 咲きにけり 私(汗)
お礼
回答ありがとうございます 花鳥風月 じつは、これが、ではなく、これも、理解できてません。 私の詩というか、文学に興味をもった始めが戦後詩と言われているものだった影響かもしれません。 川の辺や 園児の笑顔 咲きにけり(私)季語がないと冷笑されました。 夏風や釣果を尋ね吹きにけり(私)「やーけり」ねぇ、とこれも冷笑でした 私の俳句の師匠モドキの友人の評です。そんなに変かなぁ
- Biolinguist
- ベストアンサー率69% (354/513)
嫌われていると言うより、もったいないからです。 十七音しかないのだから、 ・ポイントを一つに絞る ・伝える意味を膨らませるために、二つの意外な組み合わせによる「組み合わせの妙」に頼る ・無駄な言葉をそぎ落とす 切れ字が重なってしまうと、 ・焦点を二つの言葉に合わせなければならず、ピントがぼける ・あまり意味のない切れ字が無駄 これを感じさせないためには、よほどの修練が必要ですね。 初心者が真似をすると大やけどは必至です。 切れ字が二つある句としては石田波郷の 胸の手や暁方(あけがた)は夏過ぎにけり があります。 寺の鐘蛙も池を探しけり 朝顔や監視カメラに恋をする 河鹿笛厠も長くなりにけり
お礼
回答ありがとうございます 「切れ」の重なりと「切字」の重なりとの違いが理解できないのです。 あまり意味のない切れ字が無駄 どの切字が無駄なのか、それがわからくて、どうにも・・・ 先に返事をいただきましたsps700様のパロディー句の元句のご教授ありがとうございます。 返事の遅れましたことお詫びいたします。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
僕も発想を変えて「~や~~けり」を5首作りました。 水道や カエルが池を探しけり 万引きや 監視カメラに見られけり 朝顔や 車取られて歩きけり 長飯や 便所も長くなりにけり 猫ちゃんや ネズミに噛まれ泣きにけり 僕は初心者ですがどれも傑作でないと言われて、しょげています。やはり嫌われているのはいいことのようです。理由はヤもケリもあまり要らないからでしょう。
お礼
回答ありがとうございます 私よりも、巧いような気がします。季語があるなしを言う人はいますでしょうが、575で楽しんだほうが勝ちですよね。 耄碌や飯も返事も忘れけり 返事の遅くなりましたことの言い訳変わりにwww
お礼
回答ありがとうございます この切れ字が2つある・・・・ そのとうりです。理由を探ってみますと、切れが二つ(二箇所)あることにより焦点が不明瞭になるらしいのですが、切字を使用しなくても意味の上で切れがある句はあるしそれが二箇所のものも珍しくはありません。切字を二箇所使用すること、それも「や~けり」のみがタブーとなっている理由が分かりません。ルール違反じゃないけどダメというのはどうにも遊び心が優先するはず(と思っているのですが)の俳句には似合わないと感じます。 「降る雪や明治は遠くなりにけり」 これは、「ルビンの壺」を思わせます。(「地」と思えば「図」、「図」と見れば「地」となるような騙し絵のような絵図)、つまり、読者の解釈以前に構造までも読者に委ねる技法が成功しているのだと思います。 私の想像ですが、中村草田男自身が、雪を観ているのか、過ぎた明治を観ているのか、眩暈を感じていたのだと思います。