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黄門さんの藩、水戸徳川家水戸藩

曽って聞いたところによると、この藩の領民への課税は重く、領民はずいぶん疲弊したとの話です。 これは事実でしょうか? 領民は他の藩に比べ、貧困だったのでしょうか? 実は我が家の先祖はこの藩のある地域で、本陣という呼称で呼ばれていますので。

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  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2590/17104)
回答No.1

事実です。徳川光圀は大日本史の製作を指示したことでも知られていますが、このためにも相当な金がかかっています。言うまでもなく、これは庶民からすれば領主の単なる道楽にすぎず、直接の生活に寄与するものではありませんでした。八公二民というとんでもない重税をかけていたほどです。他の藩は五公五民か、四公六民が普通でした。

krya1998
質問者

お礼

やはりそうでしたか。 幕末明治も領民はずいぶん苦しんでいましたね。

その他の回答 (3)

  • hue2011
  • ベストアンサー率38% (2801/7250)
回答No.4

細かいことはともかく、事実だろうと思われます。 水戸藩ではないですが、仙台の伊達藩で苦しんでたいへんだったというのが 「殿、利息でござる!」 という映画で紹介されていました。あれは架空の話ではなく、国恩記という記録があってそれを小説化がお話にしたものですが、人がとおるほど領民が貧乏になる仕組みになっているので、伊達藩にお金を貸し付けて、利息をとれば、経済が活発になるほど自分らも助けになり藩も豊かになるだろうという計画を実行したという展開でした。 水戸で本陣と呼ばれていた家であれば、こういう動きは水戸でもあったかもしれませんので知っている人がいたかもしれません。 当時の地方はかなりこういうことだったと思われます。 参勤交代で藩のお金をもっていかれ、将軍が勝手に作ったこどもを領主の嫁としてもらうために費用を使い、というような幕府の末端すってんてん政策の餌食になっていたのです。 これに対応するには、自分も大量に子供を作り別の藩に養子とか嫁に出すということに励むことになり、水戸烈公(徳川斉昭)は大量に子供を作りました。 はっきり言って不毛です。 幕府の監視が行き届かないところにいる外様の薩摩はこういうところに目をつけたのです。水戸も困っているだろうから巻き込んでやろうと。 ところが、実際に困っていることをよくわかっている井伊がこれを抑止し水戸が出ることを止めようとしていろいろ画策し、親水戸と思われるものを安政年間に虐殺した。そして水戸の侍たちによって井伊が桜田門外で殺された、という方向に歴史が動くんですね。

krya1998
質問者

お礼

ありがとうございました。 そうでしたか、辛い話ですね。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34517)
回答No.3

末裔ならご存知かもしれませんが、あの辺りの人ってのは今でもえらい見栄っ張りです。特に「金持ちぶりたい」傾向が県民性としてとても強いと感じますね・笑。 元々これといって名産品や特産品があるわけでもなければ重要な街道上にあるわけでもなく、つまり国が潤う財源になるようなものが何もありません。おまけに見栄っ張りな県民性(実際、財源もないくせに学者を集めて雇って「ウチの藩はこんなに学問が盛んなんだぜ」と要らん見栄を張っています)ときていますからね。 しかし、親藩ですから取り潰すわけにもいかず、幕府からの財政支援は相当あったと思いますよ。たびたび藩政改革に取り組んでいますが、内ゲバでとん挫するのがお約束です。江戸中期の宝永年間には財政改革に取り組むも、反発した農民が大挙江戸に押しかけるなんて騒動を起こして改革がとん挫しています。 薩摩藩や田原藩などの外様大名の貧乏物語に比べると、幕末に至るもやたらと見栄を張る余裕があったのですから、そこまでではなかったようには思いますね。徳川幕府が重税だったという話は明治政府の陰謀で、幕府の天領(直轄地)の税率はですね、実は現代より軽いんですよ(本当)。

krya1998
質問者

お礼

ありがとうございました。

回答No.2

そうです 水戸光圀はテレビのイメージで名君と思われがちですが 実は徳川の名と副将軍の威光をかさに着た暴君でした その事を忠告した家老を追放したり 色々やってますね

krya1998
質問者

お礼

ありがとうございました。 やはり真実はそういう事でしたか。

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