- ベストアンサー
何故、先生やっているの?
現役(じゃなくてもかまいません)の教員の方に質問です。 「何故、先生やっているのですか?」
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
No.2再出です。 その通りですね。 >「人は一人では生きていけないから,周りの人に感謝する。たくさんの知識や見識があった方が,様々な場面で生きていきやすくなるから勉強をする。たくさんの教養を身に付けた方が,より多くの人と共感でき,理解し合えるから学ぶ。そういうこと全てを子どもたちに伝えたいと思った」というのは、既存の学校教育の概念ではないのですかね。別に特別のことではなく、当たり前のことのような気がするのですが。 もちろん、これは、人として当然のあるべき姿勢と言う意味で、既存の教育ですし、昔も今も未来も、変わってはいけない一番大事なことだと思います。 その上で、付け加えたいことがあります。 私が、「既存の教育を変えたい」と思っている点についてです。 今の教育の一番の問題は、「個性」という言葉を履き違えている点です。 既存の教育での「個性」は、没個性か、あるいは極端に奇抜な様子か、どちらかに偏りすぎています。 しかし本来「個性」というのは、社会の変化に応じて自然と変わるものであり、また、反社会的なものではなく、社会の中で活かされるべきものであるべきです。例えば、20年ほど前の時代であれば、まだ「男は男らしく、女は女らしく」などと言った既成概念を当たり前に言葉にしても、あまり反発は返ってこなかったと思います。 しかし、それから社会は大きく変わり、今では、「女性より機転の利く男性、男性より力がある女性」といったような「個性」をも幅広く認める社会が求められています。 これはあくまで例え話でしかないのですが、これからの教育にとって、今までの社会通念とはまた違った「個性の伸長」というのが非常に大切なものになっていき、それは、箱物の教室の中で一斉に授業をするという既存の教育では難しいものだと思います。本当に様々な個性を伸長するためには、これまでの教育より幅広い経験や感覚の習得が必要になることでしょう。 「個性」というのは、杓子定規な価値意識の中で育まれるものではありません。しかし、上記しました、「人は一人では生きていけないから,周りの人に感謝する。たくさんの知識や見識があった方が,様々な場面で生きていきやすくなるから勉強をする。たくさんの教養を身に付けた方が,より多くの人と共感でき,理解し合えるから学ぶ」と矛盾するものでもありません。 この両方をきちんと押さえた視点で教育に当たりたいと思っており、古い価値意識で一斉授業や軍隊のような集団意識のみを美徳とした価値観(つまり、没個性や、それに反発するが故に生じる奇抜な個性の出現を呼んでしまう価値観)は、変えたいと思いますね。 古い考えの良い部分(他者を敬うことや社会規範を守ることなど)は踏襲しながら、新しい考え(男女の枠を超えた個別性を尊重した「個性」の教育、学力だけに依存しない様々な能力を認めるなど)を取り入れていきたいと思って教員を務めています。 あとは、そんなふうに、色々な個性を持った生徒と関わるのが楽しくて、自分の人生にとっても財産になるから、ですね。 ご参考になれば幸いです。
その他の回答 (2)
- cheese16
- ベストアンサー率50% (33/66)
こんにちは。現役の高校教員です。自分は先の回答者さんとは全く逆で,既存の学校教育の概念を地道に変えていきたいと思ったからです。学校は,単に勉強を教える場所ではなく,たくさんの人と共に生きていくために大事なことを教える場所で「あるべきだ」という考えが私にはあります。「なぜ勉強をするのか」「なぜマナーを守らなければならないのか」「なぜ人を困らせるようなことをしてはいけないのか」という根本を教え,他者と共存していく社会の中での「自分の生かし方」を考えられるような場所にするべきだと思っています。そんな私ですので,周りの教員とは意見が合わずに孤立することも多々ありますが,信念があるので気にしません。また,自分の想いに一生懸命に頑張っていれば,生徒たちが着いて来てくれる実感もあるので気にしません。最初は想いが通じない生徒にも,たくさん話をして信頼関係を築いていく中で,少しずつ通じ合っていけることを感じる時の喜びは,教員冥利に尽きます。 人は一人では生きていけないから,周りの人に感謝する。たくさんの知識や見識があった方が,様々な場面で生きていきやすくなるから勉強をする。たくさんの教養を身に付けた方が,より多くの人と共感でき,理解し合えるから学ぶ。そういうこと全てを子どもたちに伝えたいと思ったから教員になり,今でもその夢を追い続けています。
お礼
回答ありがとうございます。「既存の学校教育の概念を地道に変えていきたい」ですか。素晴らしい理想ですね。ただ、「人は一人では生きていけないから,周りの人に感謝する。たくさんの知識や見識があった方が,様々な場面で生きていきやすくなるから勉強をする。たくさんの教養を身に付けた方が,より多くの人と共感でき,理解し合えるから学ぶ。そういうこと全てを子どもたちに伝えたいと思った」というのは、既存の学校教育の概念ではないのですかね。別に特別のことではなく、当たり前のことのような気がするのですが。
- hue2011
- ベストアンサー率38% (2801/7249)
私は教員ではありませんが、知人と話していて思うことがあります。 よく返ってくるこたえは 「勉強ができなかったから」 が多い筈です。 もしばりばり研究し新たな発想を持つ人間だったら、学者になって、ついでに大学教授なんかをやるだろうと思います。 また、こんなことを思いつく、こうしたらどうだろうかみたいに考える癖があるのであればそれを実現できる産業界に出ていくと思います。 これはたとえば英語で考えると簡単で、深く読み込め言葉の意味や価値を味わえるなら英文学者になったりしますし、コミュニケーションが自在だったら海外相手のビジネスの場に行ったりします。 ただ、SVOCだとかSVOOだとかをいろいろ論じ、Vの発音とRの発音がどうだということを言う人間は学校教師になるのです。やたら文法とスペルや発音にはうるさい割に、東南アジア系の人たちと歓談することができません。 そういうすみわけになっていると思います。 大学の同級生でも、数式の理論建てや証明が不得意な人間が理科の教師なんかに鳴ったりしているのを何人も知っています。 要するに何の職業でもそうですけど、「食べていかなければいけない」から仕事をするわけです。そのときに、自分の能力と仕事を天秤にかけるのだと思います。
お礼
回答ありがとうございます。「勉強ができなかったから。」なるほど、納得です。
お礼
回答ありがとうございます。とても大切なことを考えていらっしゃると思います。自分の子どももあなたのような先生に教えていただきたいと思います。