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良くない出来事って2種類あるの?
哲学かどうかよくわからないのですが ある時点で(つまりことが起きたそのときに)、良くない出来事でも あとから思うと良かったということがあると思います。 (あの出来事があるからいまの私があるというように) でも、当時良くなかったことで、いま思っても良くなかったことってありますよね。 つまり、良くなかった出来事の価値が逆転するものと そうでないものがあると思います。その違いってなんでしょうか? (一般的には、そのときの自分の対応によって違うのだ と私は思うのですが、みなさまいかがでしょうか?)
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過去に回答されたみなさんと、ほぼ同じ内容だとは思うのですが・・・。 良いこと、悪いことって決めているのは、その事実のあった時の自分だ と思うのです。 つまり、事実はひとつでそのこと自体にはよい悪いの価値はないのではないかな っと思います。 ご質問の中での良いこと悪いことは、後になって実はよかったと思える内容の よい悪いであって、社会的しかも割と普遍的な善悪ではない内容のものですよね。 自分にとっての良いこと悪いことっていうか・・・、自分が決めた良いこと 悪いことだと思うのです。 だから、後になって「ああ、これでよかったんだ」って思うということは、 その事実に対する自分の立場や考え方、とらえ方、環境が変わったからで 事実自体はやっぱりひとつ。 そして、後になってもよくないことは(うーん、後になってもよくないことって 思い出したくないですけどね、なんかさびしい) その事実に対する自分が内的にも外的にも変化がないっていうことなのでは ないかなと思うのです。 事実の価値が逆転するのではなく、自分自身が逆転の考えや、半ひねりやら スーパージャンプをしながら良いこと悪いことをとらえているのだと 思います。 あ、これってmotsuanさんがお礼の欄にかかれてあった色即是空ってことかな。
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勝新太郎がこういってます。 「役者ってのは得な商売だ。どんなことでも芸のこやしになっちまう。」 まー、考え方しだいで、無駄なこと、嫌なこと、ためにならないこと なんていうようなことはなんにもなくなるんだよってことだと思います。 嫌な出来事とかも考え方によっては、 「こういうことをすると、こういう嫌な思いをするんだな」 っていうことを知る為の学習となるわけで、 そう考えると、全ては「今思えばよかった」にいつかたどり着くと。 うーん。結局、JitFさんと言ってること一緒だ。
お礼
いつもありがとうございます。 > 全ては「今思えばよかった」 そうですね。すべての集積がいまの自分なんですもんね。 いまの自分を肯定できるかどうかに近いのかもしれませんね。 いまの自分の一部としてしっかり自分にその出来事が根付いたとき (芸のこやしになったとき)それが良い出来事なのかもしれないですね。 う~ん、やっぱりそう言ってもらいたい自分がどっかにあるのかも知れません。 どうもありがとうございました。
- JitF
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「良くなかった出来事の価値が逆転するものとそうでないものの違いは、良くなかった事を振り返って『実は良かったのか』と思う瞬間が来たか、まだ来ていないかの違い」 と言うのはどうでしょうか? 全てはいずれ、「今思えばよかった」にいつかたどり着くと言う考えです。 勿論、生きている間には来ないものもあるかもしれません。
お礼
ありがとうございます。 色即是空の世界ですね。 良くないこと自体が良いことを内包している(空即是色ですね)。 つまり、本質的なちがいはないということですよね (出来事自体に価値観がへばりついているのではなく、 自分があとから価値観を付与することができるということでしょうか。 自分という主体の有り様が無限にある限り、価値自体がそれに附帯して 変容する)。 そういう考え方を長いこと忘れておりました。 (ちょっと目が覚めました。余裕の無いところに未来はなく、 過去の悔恨のみが現在を未来を絡めとる) どうもありがとうございました。 めちゃくちゃネガティブなご意見もお待ちしております。 (本日は睡眠に入ります)
- kawakawa
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再登場です。 先に書いた回答は仰るとおり、死ぬまでわからないということでした。学生だった頃、幸せな人生とはなんぞやといった答えのない討論をしたことを思い出します‥ さて、ある時点においての良いこと・悪いことというのは現象的なものとは必ずしも一致しないでしょう。 そのときの精神状態、或いは、その人の感受性や思考の方向性によって左右されてしまうものではないかと考えます。 例えば; 海外旅行でパスポートや財布を掏られた場合、現象としては良くないことですよネ。これを嘆いているだけならば、確かに悪いことで終わってしまいます。 それどころか、掏られてしまったことばかりを考え続けて他のところに神経がいかなくなり、素敵なことや素晴らしいことに出会うチャンスを自ら逃してしまい、結果的に更にマイナス方向に向かってしまうでしょう。 けれども、警察に行って盗難届を出し、大使館へ行っていろいろな手続きをしたり借金をしたり‥という経験ができたことを、人にはない体験を与えてくれたという風にプラス思考に持っていければ良い事なのかも知れません。或いは、次回からの教訓として考えると、命に別状はなく、パスポートやお金で済んでよかったと思えば、チョット悪い事で終わってしまうでしょう。 このときの感受性、思考の方向‥こういったものが良否の区別をつけるのでしょうネ。 基本的にはネガティブな思考を行なうと、『泣きっ面に蜂』『踏んだり蹴ったり』というマイナスが重なり続ける方向に向かうように思えます。 ポジティブな思考を行なえば、同じ『良くない現象』であっても、それで終わりか、或いは精神的にプラスに持っていくことができ、輪をかけて悪くなるということはないのではないかと思えます。 と、理屈では言えるのですが、現実にそういう状況に陥ってしまったとき、プラス思考に持っていくことは中々難しいことですよネ。 日頃の習慣としてプラス思考をするようにしていかなければならないのでしょうネ。 以上kawakawaでした
お礼
kawakawaさま、ありがとうございます。 最近、ぼやきモードなものでこのような質問をさせていただいています。 (みのもんたに電話しろ!とおっしゃるかたもいるかもしれませんが許してください。) 「日頃の習慣としてプラス思考をするように」 う~んやっぱり主体的なものですよね。 (なっんてったて良い悪いの話ですもんね) 起きていることがマイナスなのに気がつかずにプラス思考で ずーっといってしまって(多分譲歩しつづけて)、 最終的に自分を追い込んでいってしまっていたりするのかなと めちゃくちゃネガティブなことも思ったりもします。 (※質問とは全然関係有りません!大丈夫!人生相談ではないです。) というわけで、 kawakawaさま。温かいフォローありがとうございました。
- kawakawa
- ベストアンサー率41% (1452/3497)
人間万事塞翁が馬 ですネ。 馬が逃げた →悪いこと 素晴らしい馬を連れ帰った→良いこと 子供が落馬して骨折した →悪いこと 骨折のせいで徴兵を逃れた→良いこと このことわざは上記のような流れとなっていますが、もし、徴兵ということがなかったとしたら、子供が落馬して骨折したことは悪いことで終わってしまうわけです。 馬が逃げた後、素晴らしい馬を連れ帰らなければ、損をしただけの悪いことで終わってしまうわけです。 結局は物事がよかったのか悪かったのかは、そのことに関連する全ての出来事が終結したときの結果(状況)によって判断されるものでしょう。 戦術的な主眼で見たときの良否と戦略的な主眼で見たときの良否は異なってくるということもありますネ。 以上kawakawaでした
お礼
めっちゃ速い回答、ありがとうございます。 哲学のコーナーなので一応絡んでみます。おっしゃっていることは、つまり良いも悪いも死ぬまで分からないということですよね(実際は死んでもわからないと思いますが)。それだと話が終わってしまうのである時点で良い悪いと自分が振りかえって思ったとき、その違いはなんでしょうか?ということにしてみたいと思います。 人間万事塞翁が馬はきっとそうなんでしょうね(これを聴くといつも『スーホー(??)の白い馬』という絵本を思い出すのですがこの絵本とこの言葉ってどういう関係なのでそうか?)。 でも悪いことが重なると、ネガティブなフィードバックが掛かりやすいような気がします(とくに、重犯罪を犯してしまう場合は、塞翁が馬という鷹揚な気持ちとは程遠い場合が多いのではないでしょうか?)。 ほとんど、良い出来事/悪い出来事ってなんなのという質問ですね。 ナンでもご意見お待ちしております。
お礼
どうもありがとうございます。 > 社会的しかも割と普遍的な善悪ではない内容 なるほど。 最初に受け止めるときは、わりと一般的な意味で出来事を受け止め それがあとになると、個人的なものになるということですね。 それが出来事を経験するということなんですよね。 ちょっとわかった気がします。 どうもありがとうございました。 どうも質問の立て方が悪かったようで、 大体コンセンサスがとれてきそうなので この辺で閉めたいと思います。 皆様、どうもありがとうございました。