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嫌な出来事を忘れようとして…
やらなきゃいけないことを抱えている立場の人間です。 自分でこうと決めた以上、まっしぐらに突っ走ってきたのがこれまでの人生だったような気がします。 ところが、ここ1~2年に遭遇したとある嫌な出来事をふと顧みるようになり、忘却しなきゃいけないと思えば思うほど、私の中でそのことが思い出され、不愉快な気分となり、何も手に就かなくなります。 ちなみに、今年の夏から、何度も何度も無気力になる心と闘いながら、向き合ってきていわゆるコアな部分は一通り終わりました。 自分なりに心の苦しみとは向き合い、それなりに闘ってきたつもりです。 嫌な出来事…それは、今まで良かれと思ってやってきた、善意の気持ちがことごとく利用されたことでした。ここには書くことはできません。 忘却とはとても難しいことですし、一方で覚えているということは、反面でとても苦痛なことです。 忘れて切り替えることが、今はとても難しく、無気力な気持ちで過ごす日々です。 いったいどうすればよいのでしょう。カウンセリングに通うことも必要なのかなと感じたりしますが、心の中の憤然とする気持ちは、スケジュール通りに訪れず、突然降ってわいたように湧き起こります。 今は時折、専門家のホットラインの助けを借りています。しかし、言葉にすることにより、余計忘れないのか、自分の中にかみしめて生きていくのがいいのかわからなくなりました。 そういうものを抱えつつも、日々生きている方、どうやって紛らわしていますか?
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- zebura23
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不愉快なことや忘れられない嫌なことというのは、 自分にとってまだ解決していないことと考えられます。 自分にとっての解決という意味は、その出来事から学ぶということです。 学び終わると、その出来事は役目を終えて去っていきます。 憤りが去らないということはまだ終わっていないことを指します。 自分の憤りは相手のせいだと思っている間は終わりません。 自分が遭遇する出来事は自分に見合ったものを引き寄せます。 自分の怒りや憤りは誰かが私にもたらしたものではありません。 それはもともと最初から自分の中にあったものです。 もし元々、そのような不愉快な感情が自分の中になかったならば、 私はそのような出来事に反応することはないからです。 どのような出来事やどのような人の態度に反応するかによって、 私は自分自身という人間を知ることができます。 そして自分がクリアするべき弱さというものに気づきます。 多くの場合、不快さ、怒り、憤りといったものは 自分は被害者であるという認識から起きてきます。 被害者であることをやめるには、 相手を許し、自分を許さなければなりません。 相手を許すためには、相手の立場になってみることが必要です。 いやしとは理解することです。 それが意識、認識の拡大です。 認識が広がるほど自分を生きることが易しくなります。 その出来事が何であったかわかりませんが、 それらの出来事はあなたにメッセージを持っています。 そのメッセージを受け取り、クリアするとき、 あなたの心に安らぎと感謝が訪れるでしょう。
- garasunoringo
- ベストアンサー率16% (358/2178)
何かで紛わらしても、自分でも気付かない間に歪みが蓄積されます ここまではわかってきましたが、ではどうすればいいのかは模索中です
補足
紛らわすこと自体が、無理なのだろうなと思います。 親しい2~3の友人には、断片を話しましたが全体を語ることで相手に負担をかけます。 ホットラインでは、ちゃんと受け留めてくれて実際にひとつひとつ消化されていっているのが事実です。 他者に忘却を急かされると却ってそれがストレスにもなりえますね。 色んな手段を試しましたが、今は専門家に頼るほかはないかもしれませんね。
お礼
すみません、上記の文章訂正です。 ⇒「それでも、その出来事から学んで、赦し、忘れられるのであれば」が正しいです。 実際に世の中はそんなふうにきれいごとでは済まされませんよ。 でも、あなた様の仰ることは実際に、そう出来たらいいよな、ととても感じます。 ただし、理想論かな? もし、それを目指すとしても、とても時間を費やすことでしょうね。 まあ、でも、そういわれることで実際には楽になるし、前向きにもなります。 自分にとっては取るに足らないことだったのだと、笑いとばせる未来があるといいな。 ありがとうございます。
補足
憤りは、相手方の責任と思うことや被害者意識から来ることではありません。 例えば、被害者側にも多少の落ち度があるが、やはり加害者側の落ち度や責任が重いような交通事故を例えて考えてみるといいと思います。 その加害者側が刑事罰を受けるまでもなく、かつ無資力だった場合、基本的には被害者は泣き寝入りですよね。(たとえば、自賠責にもたまたま入っていなかったりするケースも然りです。) あるいは、言っても理解できないような相手方から何らかの侵害を受けたとき…。 黙って、堪えているしかないのではないでしょうか? あるいは、法の抜け道を相手方がちゃんと心得ていて、決して法的に有責とされないような手段で、こちら側を侵害してきたような場合です。 精神的な打撃がどんなに大きくても、耐えるしかないですよね。 それでも、その出来事から学んで、赦し、忘れることが必要だとすれば、この世に宗教は不要です。