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江戸時代。旗本知行所の年貢(米の現物)の輸送。
知行所で徴収した年貢(米)は、誰が采配して、どのようにして(輸送手段)、どこへ(幕府米蔵か札差か)運んだのですか。 例えば、元禄期の上野国の場合、300人以上の旗本が知行所を有しており、その石高は20万石近いです。 300人個々の旗本がそれぞれ舟便で運んだのですか。 よろしくお願いします。
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いやあ結構むずかしい問題ですよ。 細部ぜんぜん自信ありません。 旗本の場合江戸に在住する義務があったので、基本的に旗本が代官(幕府役人ではなく旗本の家人)を派遣したり庄屋をとりたてて知行地を治めてます。その年貢米の輸送法となると、知行地なら知行権を有していますのでまとまった知行地であるならば領民に労役を課し運ばせることができます。そうでなければ基本的には札差に依頼します。 それが時代を下ると旗本は借金の担保として札差に年貢米をおさえられるようになります。そうなると札差は当然直接領地から年貢米を回収します。 一方旗本のほうは、直取りといいその場の収入ほしさに担保に入ってるはずの年貢米を勝手に現地に行き先手をうって回収してしまいます。 札差は幕府に訴え直取りの全面禁止となります。これにより札差による米の現地収納が確定したかと思います。 話が戻りますが”個々の旗本がそれぞれ舟便で運んだか” 基本的に運ぶのが自分の領民ですのでまとまった知行地をもった旗本は個々でしょうが、相給といいひとつの村を複数の領主で治めるケースが多々あります。この場合複数の旗本の年貢米がひとつの船でまとめて運ばれてもおかしくないのでは?と思います。
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- ithi
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kouki-koureisya さん、こんばんは。 船便か馬車かもしれませんけど、いったん江戸の屋敷に入れて、屋敷で必要なコメの量を差し引き、残りを札差に引き取ってもらうんでしょうね。 旗本の年貢 https://ja.wikipedia.org/w/index.php?search=%E6%97%97%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%B2%A2&title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%A4%9C%E7%B4%A2&profile=default&fulltext=1&searchToken=45sdojo89nuscp9pf6wd8wg4l
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ご回答ありがとうございます。 URLは、考えるヒントになりました。 幕府領の場合は、美濃国安八郡西條村の庄屋の日記にかなり詳しい記録があり、1例とは言えよく分かるのですが、旗本領の場合が分かりません。 多分、江戸屋敷まで運んだのでしょう。 (上記美濃国の例は、幕府領なので幕府の米蔵へ納めています) そして、自家で消費する分を除いて、金に換えたのでしょう。 現地で金に換えるより、米が必需品である、江戸で売却する方が有利でしょう。 重くてかさばる米を運ぶには運賃も高いだろうとか、上野国の場合、舟運は発達していたのだろうか、など想像するのが楽しみです。
お礼
回答ありがとうございます。 一人で想像していても埒が明かないので質問しましたが、むずかしいということがよく分かりました。 >それが時代を下ると旗本は借金の担保として札差に年貢米をおさえられるようになります。そうなると札差は当然直接領地から年貢米を回収します。 なるほど。 これなら相給で細々した量であっても、まとめて運ぶことができますね。 残る疑問は川の舟運ですが、よく調べてみます。 江戸時代も270年近く続きましたので、前半と後半で分けて考えねばならないと言うことですね。