※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:恨とルサンチマンの厳密な違い)
恨とルサンチマンの違い
このQ&Aのポイント
恨とルサンチマンは、韓国及び朝鮮の人々が持つ心根とニーチェの概念であり、厳密には異なるものです。
ルサンチマンは弱者が強者に対する憤りや怨恨を指し、人の敵が拡大すると社会全体を敵と見なす傾向があります。
一方、恨は韓国及び朝鮮の文化や歴史に根ざした感情であり、特定のターゲットに向けられることが多いです。
韓国及び朝鮮の人々が持っているといわれる「恨」という心根と、ニーチェのいった「ルサンチマン」というものには、厳密にはどの様な違いがあるでしょうか?
Wikipediaによると『ルサンチマン(仏: ressentiment)は、主に弱者が強者に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つことをいう。』や、『ルサンチマンを持つ人の敵が拡大を続けると、最終的には社会全体を敵と見做すようになる。「世界はどうしようもなく悪によって支配されている。したがってわれわれのほうが世界より優れている」と拡大解釈されるようにもなる。このような状況に至ると人は陰謀論や急進主義、刹那主義や否認主義を受け入れ易い心理に陥る。また、人によってはそうした不満以上に「この世界では(自分は)報われない」という厭世観や自己の無力感を持つようになり、放蕩や引きこもり、果ては自傷行為や自殺に至る場合もある。稀に同類を集めて反社会的勢力を結成したり、テロ行為に及ぶことがある。しかし多くの場合、高い社会的地位を得た者を卑怯な手段で攻撃した所で、ルサンチマンを持つ人が危険人物扱いされるだけである。』
などとの説明があり、まったく同じものの様にも取れるのですが … この理解は誤りでしょうか?
よろしくお願い申し上げます。
以上
お礼
コメントありがとうございます。 確かにご指摘の様に、それが生まれいでた経緯や地域が異なることですので、一般化してはならないことかも知れません。言葉にすると「恨」と「ルサンチマン」がたまたま似通っているというだけで、一緒くたにすることはしてはならないことかも知れません。 私は韓国・朝鮮人の「恨」は、「嫉妬」とは少しニュアンスが違いますが、他人を羨ましく思って他人を憎む気持ちである「妬み」と、他人を羨ましく思って自分を憎む気持ちである「嫉み」が入り混じった気持ちと(いまのところですが)理解したいと思います。その心情の発揚方法として、排撃的になったり自虐的になったりして、自他ともに苦しめることになってしまうと理解することにします。 何れにしましても日本人はこういった隣人のメンタリティをもっとよく知って、よく考えるべきです。何も知らないで(無知)、人の気持ちというものを無意識のうちに逆なでしているところが多分にあると思います。幸福に生きたいという気持ちだけは人類共通のもので絶対的普遍性をもったものだということを。。。
補足
一点疑問があります。313年にコンスタンティヌス帝によってミラノ勅令が 出され、キリスト教は晴れて公認されることになりますが、それでもキリスト教徒のルサンチマンは続いたのでしょうか?