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韓国人の恨(ハン)とは?
- 韓国人の恨(ハン)とは、伝統規範からみて責任を他者に押し付けられない状況のもとで、階層型秩序で下位に置かれた不満の累積とその解消願望を指す。
- また、韓国語で恨(ハン)は発散できず、内にこもってしこりをなす情緒の状態を指す語であり、挫折した感受性や社会的抑圧により閉ざされ沈殿した情緒の状態が続く限り、恨は持続する。
- 恨は韓国民衆の長い受難の歴史を通じて貧しく、抑圧されて生きてきた胸の底にこもる感情であり、抵抗意識を生みだす要因となっている。
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bragelonneさん、今晩は。 「恨」というのは、韓国人というよりも、むしろもっと個人個人の問題であり、 (私が調べた限りでは)韓国における目上・目下という関係の厳しさから、目上の者から理不尽な扱いを受けたという場合、それが「恨」となりうる、とか。 「民族の恨」とご質問にあるのですが、本来はもっと個人的な辛い体験や「境遇をかこつ」というようなことなのですね。
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- kurinal
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>「ナラワシ」 「征服者の馬が闊歩していて、人々は「生存」のために、その糞を求めていた」 そういう状況は、むしろ例外的なのであって、 仰る「恨(ハン)」は、むしろ内在(独特)的なもの、ということでしょうか。
お礼
くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~ 「征服者の馬が闊歩していて、人々は「生存」のために、その糞を求めていた」 そういう状況は、むしろ例外的なのであって ~~~~~~ ☆ いえ。必ずしも状況が稀であったり例外的であったりするから取り上げないということではありません。 その情況からどのような結果が――くやしさや恨みのことで――もたらされるか。こちらのほうで決めます。つまりその結果が 恨(ハン)なら恨としてすでにナラワシにまで成っていたとしたら そのコトをどういふうに捉えればよいのか? これを問いたいという趣旨です。 そうですね。征服者との関連では 確かに独立というのは 初めっからあこがれになったでしょうから 恨の問題に成り得ると いまの時点で 思います。 ★ 仰る「恨(ハン)」は、むしろ内在(独特)的なもの、ということでしょうか。 ☆ たぶんですが たぶん恨みの問題・つまりいわゆるルサンチマン問題ですが これとして《恨》は 或る程度人びとのこころに《内在的》であり ほかの国の人びとのあり方とは違って《独特なもの》であるように聞いています。 たとえば――鵜呑みにするわけではありませんが―― 恨みにあこがれがからんでいるとすれば これもめづらしいというふうに思えます。 そんな感触からの質問です。
>《恨》なら恨を取り上げ 哲学として言えるところまでは《一概に言ってしまって》おこうという問いであり そういう魂胆です。 何を指摘するべきかが分かりました。哲学というものを、あなたが誤解なさっていると言えば、ストレートに伝わったのだと思います。「哲学として」言うことは一切できません。哲学とは直感によって本質を決めつけ、レッテルを貼る学問ではないからです。レッテル貼りは「哲学」と称さなくても、フジテレビあたりの「韓国人とは」というお馬鹿番組に任せておけばいいでしょう。「知的ではない」とはこういう意味です。
お礼
ご回答をありがとうございます。 テレビの番組のことは知らないので それに関するかぎりではどういう意味かは分かりません。 さて 哲学としては ご自分のほうがよく知っているというご主旨です。 定義から始めてその恨についての評価をお聞きしたいところです。 知的であるかないかは その中身で勝負になりましょう。 レッテル貼りがどちらであるか かんたんに分かるというものです。 ★ 哲学とは直感によって本質を決めつけ、レッテルを貼る学問ではないからです。 ☆ ですからわたしの文章のどこが直感によって本質を決めつけているのか。もしくは 直感ないし直観によって述べているところ――それは推測だとことわっていますが――について それでも 本質を言い当てているかも知れないというその箇所について きちんと推論を交えて議論をして明らかにしてください。 さもなければ ただのレッテル貼りになりましょう。 あるいは このような恨にかんする主題は 哲学には成らないと言う意味のこともおっしゃっていましたが どうしてそうなのか? これも何も明らかにしないで勝手に決めつけているだけのようです。 そのあたりについて きちんと明らかにしたほうがよいのではないかと考えます。
>人や民族によっては 恨として持ち続けない場合もあるかと思うからです。 文脈を斟酌すれば、日本は「陽気」とおっしゃっているような気がします。しかし、日本にも「演歌=恨歌」というものもあります。沖縄、広島のように、決して恨みを忘れない地域もあります。人によりけり、地域によりけりだと言ってしまえばそれまでです。しかし朝鮮半島にしても、人によりけり、地域によりけりでしょう。一概に言ってしまっていいのでしょうか。 しかも韓国人自身がそう言っていたとしても、セルフ・オリエンタリズムであって、事実ではないという可能性があります。セルフ・オリエンタリズムとは、自分の国を分かりやすく説明するために、少々事実と違っても、レッテルを貼るという意味です。たとえば日本なら、日本人は侍スピリットを受け継いでいるというような話です。分かりやすいですし、外国人受けしますが、学術的な裏付けのしようの無い話だということはお分かりいただけるでしょう。侍など全人口の数%で、その魂を万人が受け継いでいるはずがありません。少なくても私は受け継いでいませんし、受け継ぐ気もありません。 そして仮に外国人が、「日本的侍スピリットとは何か」などと話をはじめていたら、「このガイジン、何か思い違ってんじゃないの?」と日本人である我々は小馬鹿にするのではないでしょうか。これと同じことに思うのです。恨みの話をするのなら、別に韓国に限定する必要がないのではないか。私の意見はこんなところです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★ 恨みの話をするのなら、別に韓国に限定する必要がないのではないか。 ☆ 何か韓国ということを特別に取り上げていると受け留められたのでしょうか。それは 舌足らずだったのかも分かりません。 問題は いわゆるルサンチマンの行方と言いますか それを人びとはどう――処理をもふくめてですが――扱っているのか? ここにあります。(これも 舌足らずだったようです)。 そしてこの質問では たまたま《恨》を取り上げましたが 質問者の現時点の知識ではまだ評価が定まらない。つまり定義さえもまだピンと来ていない。(推測するところだけは 及ぼそうと思えば行き着くところまで進むこともある)。 まづこういった出で立ちだということを分かっていただければと思います。 個別にお応えする前に さらにあらためて質問者の推測をかかげてみます。 ☆☆(No.3お礼欄・一部おぎなっています) ~~~~~~ まづ《韓国人の文化とも言われ》たりあるいはそして《民族性》というまでにも表現されたりするということは 先ほど使った〔単純に個人における昇華の〕場合とは別の意味で(社会集団というような別の意味で)その気持ちを《昇華》させているのかも分かりません。 たとえばその気持ちをいだくに到った直接の事件や相手のことを 長く忘れないというよりは それは忘れてしかもそのときの《くやしさや 無念の気持ち》を《あこがれや 追い求める理想》へと高めて行っているというのかも分からないからです。 その事件の内容や特定の相手については すでに捨象してしまって ただしそのとき持っていたあこがれや自分のあるべき姿というものじたいはやはりそこにあるのだと捉え直して これを追究する。といったあらたなかたちに持ち直しているかも知れないのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《社会集団として》というのは 取り扱うのはあくまで個人一人ひとりなのですが いわば仲間内でも互いにその昇華を考え合って行くというような意味合いで使いました。 けっきょく憶測による議論でしかないわけですから いろんな見方をおそわりたいということでもあります。そういうお話としてなのですが 個別にご返答していまいります。 ★ 文脈を斟酌すれば、日本は「陽気」とおっしゃっているような気がします。 ☆ そうですね。概して 陽性である部分が もちろんあるはずの陰性の部分をいくらかは上回っているのではないか。こう思っています。 それは ★ しかし、日本にも「演歌=恨歌」というものもあります。沖縄、広島のように、決して恨みを忘れない地域もあります。 ☆ という見方について まづヒロシマは どちらかと言えば 水に流す・再起復興に力をそそぐ派ではないかと思っており オキナワについては 次のように考えます。 半ば恨みを忘れない派であるように見えるが それもこれもその戦時中に受けていた蔑視が 戦後もつづいていたなら とうぜんのごとく忘れない。ということでしょうし それもこれも言わば《半ば》なのであって だからその恨みがそれを晴らすというほどの行動にまでは 行き着こうとしつつも行き着き切らない。のではないか。ヒロシマのように未来志向にもなるところが少なくない。と考えます。 《演歌》は 哲学の取り上げる主題ではないと考えます。たとえば世界に《入り》する時間的で相対的な存在だという自覚をまだ持ち得ていない人間のあり方だと考えるからです。人は身も移ろいゆくけれども心も変わりゆくものだという自覚がない状態の人間をあつかっていると思うからです。 その演歌の恨みは まだ恨みとして始まってはいない。他人(ひと)に対して互いにその人間という存在を認め合うというコミュニケーションにおいて自分の話をするという次元の問題ではない。こう見ます。 これらの陰性の気持ちを上回る知性が 日本人にはある。と見ての一連の話です。 ★ 人によりけり、地域によりけりだと言ってしまえばそれまでです。しかし朝鮮半島にしても、人によりけり、地域によりけりでしょう。一概に言ってしまっていいのでしょうか。 ☆ 《恨》なら恨を取り上げ 哲学として言えるところまでは《一概に言ってしまって》おこうという問いであり そういう魂胆です。 ★ しかも韓国人自身がそう言っていたとしても、セルフ・オリエンタリズムであって、事実ではないという可能性があります。 ☆ もしそうであれば そのことをも検証するというやはり魂胆です。そういう事実を例示していただくとありがたいです。 ただし単に《人によりけり》という議論では 済まし得ないことは 知っていて欲しいと思います。 ★ たとえば日本なら、日本人は侍スピリットを受け継いでいるというような話です。分かりやすいですし、外国人受けしますが、学術的な裏付けのしようの無い話だということはお分かりいただけるでしょう。 ☆ これはですね。それこそ一概には決められないと言うべきでしょうね。次のような話もあります。つまり ◆(【Q:武士道!?】) http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5548820.html の次の回答には 明治のお役人の人柄と言いますか思想と言いますかの実際の話が紹介されています。 (その回答No.7) ~~~~~~~~~~~~ シュリーマン著(石井和子訳)「シュリーマン旅行記 清国・日本」からでござます。 p.116 「どしゃ降りのなか、私に付き添うはめになった五人の役人とともに、私は朝八時四十五分に出発した。この護衛の役人はわずかばかりの心付けを受け取ることも許されない。彼らは、どんな辛い運命からも、その苦しみのなかばを取り除いてくれるある哲学、毅然とした諦観をもって、人生の巡り合わせにただ従っている。」 p.146 「だからなおのこと、その精勤ぶりに驚かされるのだ。彼らに対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金を贈ることであり、また彼らのほうも現金を受け取るくらいなら「切腹」を選ぶのである」 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 少なくても私は受け継いでいませんし、受け継ぐ気もありません。 ☆ むろんご自由です。哲学の問い求めは 個々の事情を採り入れつつもそれらを超えて行なわれ得ます。
お言葉を返すようですが、これは朝鮮に限らず、どの国にも共通の感情ではないでしょうか。列挙されている定義のどれを見ても、万国共通の感情に思いました。特に朝鮮に限定する必要はなく、それを「韓国人の文化とも言われる」などと民族性であるかにみなすことは、異文化理解の在り方として、知的ではないと思います。
お礼
シュタンツェさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 まづ この質問は 質問者のこころみる見方を提出していません。つまりたたき台がありません。 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~ そこで 韓国人の持つ《恨》を取り上げてみました。 だからと言って あらたな思想(生活態度)としての文化的思考=かつ行為の形式であるかどうか。これは まだよく分かりません。 じっさい詳しくは分からないままでいます。 したがって まづはいくつかの定義をかかげて そこから何が言えるか。そのようにしてみなさんのご見解をうけたまわろうと考えました。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こういう状態からの出発です。 ですから ★ お言葉を返すようですが ☆ というような内容を 質問者が述べてはいません。聞いた話を取り上げてみただけです。 ただし これまでに定義として提出されたその内容については ご見解をはっきりと示してもらっています。 ★ これは朝鮮に限らず、どの国にも共通の感情ではないでしょうか。 ☆ そうですね。話として聞いているかぎりでは たぶん《共通》ではないところがある。とは思います。 それは おそらく ★ 列挙されている定義のどれを見ても、万国共通の感情に思いました。 ☆ というその内容にかんして ひとつにはたとえば《その恨という感情を持ち続けるかどうか》で違って来るのではないか。と思います。 ( c-3 ) 挫折した感受性,社会的抑圧により閉ざされ 沈殿した情緒の状態がつづくかぎり,恨は持続する。 人や民族によっては 恨として持ち続けない場合もあるかと思うからです。またこの恨として持ち続けることが持続するのではなく それがやはり特に関係する相手に対して行動を起こすといったかたちに変わるという場合があって そのほうが 《持ち続ける》場合よりも多いかと単純に推測したからです。これはむろん いいわるいを別にしての話です むろん いちばん多いのは 忘れる場合・水に流す場合・ほかの自分の仕事に精を出すことで昇華させる場合などかと思います。 あるいはもうひとつ違いがあるらしいのです。 その気持ちを持ち続けるだけではなく同じその気持ちをモノゴトをおこなう際の言わば原動力とする――はっきりと意識してそうする――ということ。このようであるとしたら ここにも違いが現われているかと――耳学問によれば――考えられます。 ( c-4 ) 長い受難の歴史を通じてつねに貧しく,抑圧 されて生きてきた民衆の胸の底にこもる恨は,おのずから 彼らの行動を左右する要因としてはたらき,抵抗意識を生み だすようになる。 韓国では植民地時代から解放後の〈外勢〉と〈独裁〉の もとで,恨は民族の〈恨〉として強く意識化されてきた。 というようにだと思います。 ほかにも これと同じような恨をもつ場合があるかも知れませんが まづ万国共通の感情〔から出発しつつもそれを保ったり処理したりする仕方については 共通〕とは言えないと考えますし かなり特異な状態であり社会的な情況でもある。と見られるのではないでしょうか? ★ 特に朝鮮に限定する必要はなく、それを「韓国人の文化とも言われる」などと民族性であるかにみなすことは、異文化理解の在り方として、知的ではないと思います。 ☆ まづ《「韓国人の文化とも言われる」》と言うのは 韓国人がみづからそう言っているということです。 そして《民族性》というまでにも表現するということは 先ほど使った場合とは別の意味でその気持ちを《昇華》させているのかも分かりません。 たとえばその気持ちをいだくに到った直接の事件や相手のことを 長く忘れないというよりは それは忘れてしかもそのときの《くやしさや 無念の気持ち》を《あこがれや 追い求める理想》へと高めて行っているというのかも分からないからです。 その事件の内容や特定の相手については すでに捨象してしまって ただしそのとき持っていたあこがれや自分のあるべき姿というものじたいはやはりそこにあるのだと捉え直して これを追究する。といったあらたなかたちに持ち直しているかも知れないのです。 これは 話を聞いたということ(ハングル講座など)といま模索中での勝手な憶測とから言っていることです。もしここまでは納得していただけるなら 《異文化理解のあり方として 多少は 知的》なことかと考えますが いかがでしょう? いわゆるルサンチマンとは ひと味ちがうと推し測られます。
- kurinal
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「時代が違えば、何でも許される」ということでもない、と思いますけれど。 現に「恨をかこつ」ことが出来るのは生存者だけ、としても、「充分に食べられなかった(ので、モンダイが生じた)」とか、あるいは、その親族?が遺憾に思うことがあっても、不思議ではないと思います。 ただ、仰られた「あこがれ」と「ルサンチマン」とは、「生存と絶望」ということとは(ほど)遠いのかな、という感想です。 どちらが「それほど大した問題でもない」のでしょうか、どうでしょう。
お礼
くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 あぁ。前回では 大きな問題があるとおっしゃっていたのですね。 ★★(回答No.1) 「征服者の、乗った馬の、糞の中に、消化されずに残っていたトウモロコシの粒、これを兄弟たちが先を争って求め、得られない幼子は激しく泣いた」 ☆ ここには 表現の問題ではなく 事実であるなら(あるらしいから) 《人権》にかかわる問題があるのだと。 そうですね。 ★ 「時代が違えば、何でも許される」ということでもない、と思いますけれど。 ☆ という見方については こう思います。 もし問題とされなければならないことがあるとすれば おそらく人肉を食うことくらいだと思われますが どうでしょう? 戦争のとき戦地では 動植物の食べられるものは何でも食べたでしょうし きたない話ですが小便を飲んだとも言います。 時代や社会が違うといくらか 違った見方が そして事実が 出て来るのではないでしょうか。犬を食うのはけしからんとか。どこかの国では今でも人肉を食らう習慣があるとかないとか。あるいは民族によっては鯨を殺し食べるのは 許せないという声を上がって来ます。 これらは 人肉の問題を別として こだわり続けるというのは 行き過ぎではないかとわたしは考えます。 ★ 現に「恨をかこつ」ことが出来るのは生存者だけ、としても、「充分に食べられなかった(ので、モンダイが生じた)」とか、あるいは、その親族?が遺憾に思うことがあっても、不思議ではないと思います。 ☆ それは そういうことがあるでしょうね。親族に限らずその話を聞いた第三者でも 遺憾に思うことがあるでしょうね。 そして それにこだわり続けることも ないのではないか。という考え方です わたしの場合は。 ★ ただ、仰られた「あこがれ」と「ルサンチマン」とは、「生存と絶望」ということとは(ほど)遠いのかな、という感想です。 ☆ 《あこがれ》というのは――つまり この《恨》の場合のあこがれですが―― そういうナラワシに成っているという観察と そうとすれば 事実のことです。質問者としてわたしが それがよいと言って問うているものではありません。と言いますか いまは 模索の段階です。 事実をよく知って まづは哲学として定義することが出来ればよいがという段階です。 それで このあこがれ絡みの恨について それは確かに《生存》か《絶望》に落ち入ったかで 話はかなり違って来るとも思えます。 ただし もし絶望に落ち入ったあと生存しえなくなったという場合 それでも後に遺された人びとのあいだで 同じような恨の気持ちをやはり持ち続けるとしたら そういうナラワシとしてまづはさらに詳しく知りたい。という捉え方であり いまここでの出発としてあります。これも 模索中ということです。 ★ どちらが「それほど大した問題でもない」のでしょうか、どうでしょう。 ☆ そうですね。模索中ながら 初めのほうでは判断をくだしていました。 でもその《こだわり続けるような問題ではない》ということは――つまり 人権にかかわる問題にまでは成っていないならば―― もう時代の違いとしてはそれほど大した問題ではないとやはり思います。人びとの慣習の違いによって今でもその種の問題がある場合――クジラ問題など――には 互いに話し合って行くこと。このように思います。 ですから あとは 恨についてもっと詳しく知りたい。まづはここから出発します。そういうふうな認識ですが どうでしょう?
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
「征服者の、乗った馬の、糞の中に、消化されずに残っていたトウモロコシの粒、これを兄弟たちが先を争って求め、得られない幼子は激しく泣いた」 ・・・歴史的にはともかく、人権的にはどうか?という表現です。
お礼
くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 すみません。出典が分かりません。 でも 《表現》もその実際のこととしても あるいはまた《人権的に》も どうしても《どうか?》といぶかり続けるようなことでもないと思われます。 時代が違うということだとは思いますが。 その《食》にありつけなかった《おさな子》は 《あこがれ》のトウモロコシを食べられなかったので そこで《恨》をかこつ。ということなのでしょうか? あるいは 馬糞の中から出て来たトウモロコシを食べたのはいいとして そのようなものを食べて生きて行かねばならない自分たちの境遇を思って 《恨》をそれぞれみづからの腹の中に醸し出した。ということなのでしょうか? このような状態から《ルサンチマン》をかこつことになるかも知れないとは思うものの それほど大した問題があるとも思えないのですが いや そうではないという場合には どういうことが考えられましょうか。どうでしょうか?
お礼
こんばんは くりなるさん。ご回答をありがとうございます。 そうですかねぇ。 個人が持つものであることははっきりしていますが その原因は いろいろではないかと思うのですが。 つまり 目上・目下の関係という狭い場での問題から 日本による植民地の時代をつうじて広く民族として受けた上下関係の問題まであると聞いていますが。・・・ つまり 民族どうしのいざこざによって受けた辛い体験でも けっきょく一人ひとりの個人的な問題になると考えられます。ただその体験は ほかの人たちも同じように受けているということになるのだと見られますが。・・・ で とにかく韓国人は それを個人の思惟および行動の形式としてかたちづくっているし そういうものだとも思っているのだと見られます。これは 特異なかたちなのだと思われます。 ここまでは 間違っていないと考えるのですが。・・・