信頼関係ではなく、その目的や 程度の差で決まると思います。
もし信頼に準じる回答をするならば…
やって良い事、悪い事。
この程度のバランスを心得て尚且つ
相手への深い理解と尊重、友情があれば、それが真実ならば
「弄り」なのでしょうね。
そもそも、弄りならOKというのもおかしな話ですけど。
愛情や友情を素直に表現できない、精神が未熟な人間の対人表現ですから
弄りというのも、決して褒められた行動ではありません。
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ご質問とは観点が異なりますが、私はこう考えています。
勘違いしている人が多い様子ですが「弄り」というのはテレビ特有の表現です。
現実世界でやったら、実際は ただの嫌がらせや 虐めと変わらないです。
テレビという「何をしてでも目立つ、アピールする必要がある世界」だからこそ
対象となる芸能人を愛嬌良く見せるために、良い意味で目立たせてあげるために
「弄る=視聴者インパクトに程よく残る程度の強さで虐めたり、こき下ろす」という事です。
つまり【視聴者が見ていて不快にならない程度に「虐めている」】んですよ。
しかし、意図としては【テレビ的に(仕事的に)売れるため、視聴率を上げたり、見せ場を作ってあげるため】という状態ですから、やり過ぎる事はない。
視聴率のためにも、心象のためにも笑いを取り入れて、対象となる芸能人の個性・存在アピールとしての「虐め」ですから、程度や限度を忘れる事はない(=「弄り」になる)というだけです。
やってることは虐めと大差ないものもあるけど
【目的や主体が違うから】
程度を弁えた、ギリギリの虐めのラインになるのです。
変な極論をすれば「弄り」は、まさに「見世物」なのです。
一方で、通常の虐めは
相手の事を何も考えていない、単に虐める事しか考えていない。
そもそもの目的が
相手を痛めつけて、見下して蔑んで、加害者である個人が優越感に浸るための行為です。
「弄り」のような、テレビという特殊な仕事における利を得るため、という目的ではない。
だから、通常の虐めは 程度も限度もバランスも滅茶苦茶です。
相手を本心から痛めつけているわけですから。
心身ともに相手に甚大な被害を及ぼす 犯罪となります。
「弄り」は視聴者(の持つ印象)を意識して、
あくまで視聴者の心象を主体としている。
視聴者が見ていて良い印象・感想を持てる事=視聴率を上げる内容を作る事が目的です。
しかし「虐め」は、加害者が優越感に浸る事だけが目的です。
学校帰りに、1人の学生を 複数の学生が虐めているとしましょう。
これを、加害者側は「弄ってやってるんだ」と言ったとする。
虐められている学生は、痛がったり、苦しんだり、困ったりしている。
そして、そこに観客はいない。
もし観客に相当するクラスメイトがいたとしても、大抵、その様子に良い印象を持つ者はいない。
不快に思うクラスメイトや
「我関せず」と 巻き込まれるのを懸念して去る学生が多いのが現実です。
テレビでいう「弄り」のような、仕事による目的に応じた
限度をわきまえた計画性も、思いやりも何もない。
これが虐めなのだと私は思いますね。
テレビの「弄り」にしたって、厳密にいえば
【虐めなければ、対象者の魅力を外部にアピールさせてあげる事ができない】という事ですから、そもそもアピールを手伝う十分な能力がない事の証明な訳です。
なので、たとえ「弄り」であっても
人心を心得ない半端な人間がやって良い事ではありませんね。