No.8です
わざわざお礼を記入頂きありがとうございます。
お礼に感想というか質問がありましたので追加の説明をさせて下さい。
>城の堀はどぶ状態だった
寡聞にして知りません。
江戸時代には重量物や嵩高のものの輸送は舟に頼っていました。
人の往来にも舟が盛んに使われていました。
水路は現在の幹線道路や高速道路と同じ役割をはたしていました。
江戸時代の人々にとっては舟や水路というものは極めて身近なものでした。
日常的に使う水路を異臭をはなつどぶ状態に放置していたとは考えられません。
領主が住み政治の中枢だった城郭の堀をどぶ状態で放置していたとは思えません。
河川から引き入れる流水の量を確保すれば解決できる問題です。
城下町の水路というのはどこの藩でも海に繋がる大型河川と繋がっていました。
年貢米を江戸や大阪へ運ぶには舟が欠かせませんでした。
薪炭や味噌醤油酒などを搬入したり搬出するのに舟は欠かせませんでした。
現在残されている城郭は大半が内堀のみです。
大型河川に繋がる外堀が埋め立てられています。
結果的に水の循環が滞っています。
この状態のみを見た人の意見ではないでしょうか
江戸城の堀は現在は大半が埋め立てられた外堀が神田川や隅田と接続していました。
現在内堀が主体の皇居周辺の堀とは違い水の循環が活発でした。
参考
平成27年度 第1回皇居外苑濠水環境管理検討会 - 環境省
www.env.go.jp/garden/kokyogaien/topics/資料3_第2期水質改善計画の方針案について...
抜粋
江戸時代の皇居外苑濠は、玉川上水の余水が供給されており、生活用水として利用されていたと されることから、水質は基本的に良好であったと考えられる
活動内容|日本橋川・神田川に清流をよみがえらせる会
www.chiyoda-suika.or.jp/cont.html
目標と活動. 日本橋川・神田川の浄化に努め、将来は“泳げるような川”に再生
抜粋
戦後間もない頃の日本橋川は、まだ魚が住み、夏になると子どもたちが水遊びをするほどの清流でした。
現在は江戸前という言葉は握り寿司の代名詞になっていますが元来が蒲焼など鰻料理で使われていた言葉です。
日本橋川の上流部分(外堀の排水口付近)で捕れた鰻を使った料理という意味でした。
鰻は稚魚(しらす)が川を遡上して成魚になりますが、日本橋川はこのしらすが生育できるだけ清浄だったということです。
隅田川は白魚(しらうお)の名産地でした。
隅田川も白魚が生育できる清流でした。
>江戸城は将軍の住まいだから別格だったのかもしれませんね。
将軍が居たから清浄だったということではありません。
生活排水などが河川を汚染する度合いが現在よりもはるかに少なかっただけです。
お礼
城の堀はどぶ状態だったという話を聞いたことがありますが、諸説あるのでしょうか。江戸城は将軍の住まいだから別格だったのかもしれませんね。