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江戸の井戸水

本当の井戸水ではなく、川の水を木の樋で流したものを汲み上げて使っていたと聞きました。当時はよほどきれいな水だったのでしょうか。それとも胃腸が丈夫だったのでしょうか。生水を飲むことは無く、常に沸かして飲んでいたのでしょうか。今そんなことをしたら、腹を壊す人が大半だと思います。

質問者が選んだベストアンサー

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  • jkpawapuro
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回答No.6

基本的にきれいですよ、上流の清水を樋で流してるわけですから。 溜まり水になると危険ですが流水はきれいです。 殺菌はされていませんがね。 一番危ないのは水を汲んで家の中においてあるやつですよ。 残留塩素が無いんでね、少しでも容器が汚ければそこが汚染源になります、容器は当然たまり水ですので菌も繁殖しますし。 あとは基本的なことですが、生水なのでがぶ飲みしないことです。 一口ずつ少量の水なら胃酸で殺菌されます、がぶ飲みして胃酸が薄くなると危ないですよ。

その他の回答 (8)

回答No.9

No.8です わざわざお礼を記入頂きありがとうございます。 お礼に感想というか質問がありましたので追加の説明をさせて下さい。 >城の堀はどぶ状態だった 寡聞にして知りません。 江戸時代には重量物や嵩高のものの輸送は舟に頼っていました。 人の往来にも舟が盛んに使われていました。 水路は現在の幹線道路や高速道路と同じ役割をはたしていました。 江戸時代の人々にとっては舟や水路というものは極めて身近なものでした。 日常的に使う水路を異臭をはなつどぶ状態に放置していたとは考えられません。 領主が住み政治の中枢だった城郭の堀をどぶ状態で放置していたとは思えません。 河川から引き入れる流水の量を確保すれば解決できる問題です。 城下町の水路というのはどこの藩でも海に繋がる大型河川と繋がっていました。 年貢米を江戸や大阪へ運ぶには舟が欠かせませんでした。 薪炭や味噌醤油酒などを搬入したり搬出するのに舟は欠かせませんでした。 現在残されている城郭は大半が内堀のみです。 大型河川に繋がる外堀が埋め立てられています。 結果的に水の循環が滞っています。 この状態のみを見た人の意見ではないでしょうか 江戸城の堀は現在は大半が埋め立てられた外堀が神田川や隅田と接続していました。 現在内堀が主体の皇居周辺の堀とは違い水の循環が活発でした。 参考 平成27年度 第1回皇居外苑濠水環境管理検討会 - 環境省 www.env.go.jp/garden/kokyogaien/topics/資料3_第2期水質改善計画の方針案について... 抜粋 江戸時代の皇居外苑濠は、玉川上水の余水が供給されており、生活用水として利用されていたと されることから、水質は基本的に良好であったと考えられる 活動内容|日本橋川・神田川に清流をよみがえらせる会 www.chiyoda-suika.or.jp/cont.html 目標と活動. 日本橋川・神田川の浄化に努め、将来は“泳げるような川”に再生 抜粋 戦後間もない頃の日本橋川は、まだ魚が住み、夏になると子どもたちが水遊びをするほどの清流でした。 現在は江戸前という言葉は握り寿司の代名詞になっていますが元来が蒲焼など鰻料理で使われていた言葉です。 日本橋川の上流部分(外堀の排水口付近)で捕れた鰻を使った料理という意味でした。 鰻は稚魚(しらす)が川を遡上して成魚になりますが、日本橋川はこのしらすが生育できるだけ清浄だったということです。 隅田川は白魚(しらうお)の名産地でした。 隅田川も白魚が生育できる清流でした。 >江戸城は将軍の住まいだから別格だったのかもしれませんね。 将軍が居たから清浄だったということではありません。 生活排水などが河川を汚染する度合いが現在よりもはるかに少なかっただけです。

回答No.8

>当時はよほどきれいな水だったのでしょうか。 江戸時代にはダムなどがないことから全国的に河川は清浄でした。 現代でもダムがない四万十川は清流とされています。 川の水を飲料とするのはごく普通のことでした。 江戸へ水を送る水路の周辺は厳重に管理されていました。 塵芥の投棄は勿論、洗い物や魚取り水浴び等も厳禁でした。 更に水路の両岸の三間は樹木の伐採や下草の刈り込みなども禁止されていました。 人が近づけないようにするだけではなく自然の浄化作用を確保していました。 現在の水道橋付近には神田方面へ水を供給する文字通りの水道橋が架けられいました。 上流部分は水戸藩邸内を通り一般人は絶対に入れませんでした。 >それとも胃腸が丈夫だったのでしょうか 胃腸が丈夫ということではなく、流水は酸素が豊富に含まれていることから人体に悪影響を及ぼす嫌気性菌が発生しません。 お酒や醤油の発酵に使われるのが酸素を好む抗菌性の菌です。 水が滞留すると溶け込む酸素が減り嫌気性の菌が盛んに発生するようになります。 江戸の水道は常に流量が確保されていて嫌気性菌の発生を抑えていました。 流量を確保するために水番所という監視所が設けられていました。 町内の井戸は定期的に清掃されていました。 >生水を飲むことは無く、常に沸かして飲んでいたのでしょうか。 このように燃料代がかかるようなことはしていませんでした。 江戸市中に山林がないことから燃料代は高価でした。 燃料は炊事にだけ使われていました。 裕福な商家などでは水を飲むためではなくお茶などのお湯を確保するために火鉢に炭などをを埋めて保温はしていました。、 >今そんなことをしたら、腹を壊す人が大半だと思います。 水道水を塩素消毒などをするようになったのは大正時代(1921年)に入ってからです。 アメリカでも本格的に行われるようになったのは1908年以降です。 明治時代の人がおなかを壊してはいませんでした。 蛇足 江戸の街の町人地(下町)は大半が埋め立て地でした。 このため井戸を掘っても海水が混ざり込んでいて飲料にはなりませんでした。 飲料水の確保は喫緊の課題でした。 水道網が設けられていたのは隅田川の西岸の地域で後から江戸へ編入された東岸の地域にはありませんでした。 一時東岸の地域にも設けられたことがありますが勾配が取れずに廃止されました。 この地域に水を供給する水屋という行商人がいました。 この人達は日本橋川のお堀に近い部分で水を汲んでいました。 日本橋周辺には魚河岸もありふんだんに水が使われていました。 現在の皇居のお堀からは想像できませんが当時は清浄でした。

tzd78886
質問者

お礼

城の堀はどぶ状態だったという話を聞いたことがありますが、諸説あるのでしょうか。江戸城は将軍の住まいだから別格だったのかもしれませんね。

  • 92128bwsd
  • ベストアンサー率58% (2275/3919)
回答No.7

#1です。 下記がわかりやすいので参考に添付します。 https://www3.city.tokyo-nakano.lg.jp/tosho/pathfinder/nogatapass201526.pdf 上水が市中を張り巡らされていると前の回答で書きましたが、ドブのようなものが張り巡らされていたわけではなく、まさに水道管の様に地中に埋められて張り巡らされていました。それを井戸から吸い上げるのです。井戸は江戸の話の中にもたくさん出てきますが、地下水を組み上げる井戸ではなく上水を組み上げる井戸。湧き水が出る場所はありましたがとても江戸の水需要に貢献するような代物ではなく、ほぼ江戸の水需要を上水でおぎなっていました。最初から計画して今の水道網の様な物を作ったのだから驚きです。 両国の江戸東京博物館に詳しい展示があります。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11082/34532)
回答No.5

昔は「水にあたる」なんて言葉があって、普段飲み慣れていない水を飲むと地元の人は平気なのに自分はお腹を壊すなんてことはよくありました。 実は日本の水が割とどこでも大丈夫になったのは戦後になってからなんですよ。それ以前は「水にあたる」って割とよくある話だったのです。 東京の水事情が良くなるのは、実は大正時代になってからです。大正時代に当時東京市長であった後藤新平が日本で初めて水の塩素消毒を始めたのです。 実はこれによって東京市の乳幼児死亡率が劇的に改善するようになったのです。それまでは水にあたってお腹をこわして死んでしまう子供がそれだけ多かったってことなんですよね。これがきっかけとなって、順次水道水の塩素消毒というのが全国に広まっていったのです。 当時の人々はそんな井戸水を飲んで大丈夫だったというか、それだけ胃腸が頑丈な人だけが生き残っていたといったほうが正解でしょうね。黒柳徹子さんが「世界にはお腹をこわしただけで死んでしまう子供がとても多いのです」と訴えるのは、主に飲料水の事情が悪いからです。

  • rikimatu
  • ベストアンサー率19% (629/3297)
回答No.4

他の方が書いてあるように、今と比べて水がきれいだったので当時としては大丈夫だったと思いますが 水をくむ所や種類も書いていらっしゃるので。 本所・深川などの下町は、上水が隅田川を越えられなかったり、埋め立て地で水質が悪かったりして、飲料水に困るエリアとなっていた。そこで、水道の水を売り歩く「水屋」という商売が出てきているみたいです。 水屋は、1荷(か)の水を4文で売っていたという。1荷とは、天秤棒の前後の桶2つのこと。その重さの水を、16文だったそばの価格の4分の1で売るのだから、利の薄い商売だ。それでも、得意先が決まっていたので、水屋のほうでも、どの家でいつごろ水が不足するかを把握して売り歩いたそうです。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.3

 江戸は大きな街ですから、飲み水の確保にもいろいろな方法があったようです。 1。水道 神田上水、玉川上水、などによって重力による水道が下記のように作られ、井の頭池、などが水源でした。「水道橋」などの地名が残って居ます。  http://cleanup.jp/life/edo/05.shtml 2。湧き水  御茶ノ水の北側にあった高林寺から泉が出て、この水を将軍のお茶用の水として献上したことから、この地が御茶ノ水と呼ばれるようになったそうです。 3。井戸水  これは各所にあったと思われます。  ただ田畑の下流では、糞尿を肥料に使って居たため、生水を飲まないで、常に沸かして使うという習慣があったのではないかと、思います。

  • cactus48
  • ベストアンサー率43% (4480/10310)
回答No.2

今は澄んだ水のように見えても、大腸菌等がウジョウジョして いるので、煮沸しても飲む事は危険です。 しかし江戸時代は今のように生活排水は流れてませんから、ど ちらかと言えば綺麗だと思います。ただ生水は飲めないと思い ますので、やはり煮沸はしていたのだろうと思います。 NHKの土曜7時30分からのブラタモリを見てますか。 相当昔の事を言ってますので、少しは為になろうと思います。 ちなみに次回は高野山でブラタモリです。

tzd78886
質問者

お礼

飲み水をすべて沸かして飲んでいたとすれば、燃料費が大変だったでしょうね。今みたいに大きな薬缶は無かったでしょうし。

  • 92128bwsd
  • ベストアンサー率58% (2275/3919)
回答No.1

その辺の川の水をくんで飲んでいたのではなく、玉川上水に代表されるようないくつかの上水を、河川の上水から引き水質を管理した上で江戸市中に流していました。 https://ja.wikipedia.org/wiki/玉川上水 どれくらいきれいだったかはわかりませんが、生活ででる汚水が一緒になったような代物ではなく、当時としては大変な難工事と管理をされたシステムだったようですよ。

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