- ベストアンサー
赤穂浪士は兵庫の赤穂市出身ですか?
なぜ泉岳寺に墓があるのでしょうか?
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
赤穂出身です。 殿様、浪士は江戸で切腹させられましたので、 赤穂藩の菩提寺、泉岳寺に埋葬されました。 殿様や子供は大半が江戸生まれ江戸育ちです。 知行地より江戸の方が愛着有るはずです。 参勤交代で知行地に行くのです。 参勤交代で江戸に帰るのです。 多分浅野の馬鹿殿様も江戸生まれ江戸育ちです。 余談ながら殿中差で斬りつける馬鹿いません。 当時の殿様は城に上がって、裃に着替え、大小に変え儀礼用の殿中差に変えますから。 史実と相当に違うと思います。 坂本龍馬の大政奉還、船中八策なども後世の作り話です。
その他の回答 (5)
- tak7171
- ベストアンサー率40% (77/192)
>赤穂浪士は兵庫の赤穂市出身ですか? 討ち入りした浪士の大半は赤穂出身ですが一部は違います。 赤穂浅野藩は1645年に笠間から赤穂に移封されて成立しており、討ち入りが1703年で差引58年。浪士の中には60歳以上が何人かおりますし、また若い世代でも養子から赤穂藩士になった堀部安兵衛がいます。他藩出身で自ら或は出生後親の代に中途採用されて藩士になった浪士もいたかもしれません。 >なぜ泉岳寺に墓があるのでしょうか? 他の回答者様の回答のとおりなので割愛します。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- ichikawa2017
- ベストアンサー率54% (452/836)
当時、殿様は参勤交代で江戸屋敷と国元を往復して居ましたが、正室は江戸屋敷に常住することが義務づけられていました。 この為に、江戸と国元の両方に菩提寺を持っていました。 殿様がどちらで亡くなっても埋葬できるようにしていました。 泉岳寺は浅野家の江戸での菩提寺でした。 冷凍保存技術がない時代でしたので、徒歩で遺体を運ぶことが難しい時代でした。 火葬して遺骨を運ぶ方法もありますが、特に江戸では火葬による火災を恐れていたのと大量の薪が必要だったこともあり土葬が主体でした。 結果的に江戸の街には火葬場がありませんでした。 浅野家は浅野内匠頭が切腹させられと同時に断絶が命ぜられていました。 断絶となると居城を明け渡す必要があります。 この準備が必要です。 更に、録を失う家臣に藩が持つ資産を処分して分配する必要があります。 これ等を滞りなくやるには相当な人数と時間が必要です。 浅野内匠頭の遺体を引き取って江戸から運ぶだけの余裕がありませんでした。 結局江戸の菩提寺に埋葬することにしました。 討ち入りした旧家臣の遺体を引き取る藩が既にありませんでした。 大石内蔵助をはじめ事前に家族と離縁していた人もいました。 赤穂浪士は各大名に預けられて分散して切腹していました。 この切腹した屋敷の人達が泉岳寺と相談して殿様と同じ泉岳寺に埋葬することにしました。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9601)
OUEZTEOFDIOI さん、こんばんは。 高輪の泉岳寺にあるのは、主君、浅野内匠頭のお墓があるからです。切腹させられたのは江戸表でした。赤穂浪士の死は表向き名誉の死であるため。墓は殿様の周りにあるはずです。 赤穂浪士 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E8.84.B1.E7.9B.9F.E3.81.97.E3.81.9F.E5.85.83.E8.B5.A4.E7.A9.82.E8.97.A9.E5.A3.AB
お礼
ご回答ありがとうございました。
- misa-on28
- ベストアンサー率35% (227/640)
品川泉岳寺は赤穂の花岳寺とともに浅野家の菩提寺であったと言うことです。 浅野内匠頭長矩は通常でしたら国元の花岳寺に墓所を持ったでしょうが、赤穂事件で所領を失いますから国元の寺には葬られなかったのでしょう。 そこで品川泉岳寺に長矩の墓が営まれます。 浪士たちも国を失った浪人ですから、元の国元の寺には入れないでしょう。 そこで旧主の墓所のある泉岳寺にまとめて葬られたと言うことだと思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- D-Gabacho
- ベストアンサー率64% (1057/1649)
赤穂藩主浅野家の菩提寺で、主君の浅野内匠頭の墓もそこにあるからです。
お礼
ご回答ありがとうございました。
お礼
ご回答ありがとうございました。