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仏教とイスラム教の伝播に詳しい方

質問1: なぜ仏教はパキスタン、アフガニスタン辺りで 広まらなくなったのでしょうか? 質問2: なぜ西洋の植民地にされたインドネシアやブルネイに イスラム教が広まったのでしょうか? (南米はキリスト教が広まっている様ですが。)

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  • eroero4649
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回答No.3

1 アフガニスタン・パキスタンより西となるとイランになります。イランはペルシア文明圏に入りますから、チグリス・ユーフラテスの文明が古来からあり、それと共にゾロアスター教がありましたからね。特に紀元1世紀からはゾロアスター教国家ともいうべきササン朝ペルシャがトルコからイランにかけて広大な帝国を築いていましたからね。 イスラム教布教以降は、多神教である仏教より一神教であるイスラム教のほうがイランの人々にはしっくりきたのでしょう。私はあまりそういう考え方に賛成しないのですが、欧米の宗教学者にいわせると、一神教>多神教らしいです。 2 インド洋にはいわゆる「海のシルクロード」がありました。東は中国の広州まで、真ん中にインドを中継地点として西は紅海に至りエジプトを経てヨーロッパに繋がる壮大な海の交易路です。 日本でササン朝ペルシャのものと伝わるガラス食器を分析したところ、古代ローマで作られていたガラスと同じ成分であることが分かったということがありましたから、そのくらい古い時代からあった可能性がある東西の交易ルートだったのです。 この海のシルクロードの主な担い手がアラブのイスラム商人でした。なんでインド人が中国まであまり行かなかったのかはよく分かりませんが、イスラム商人たちははるばる中国広州まで行っていたのです。 その過程であっちこっちにイスラム教は布教され、特にインドネシアの王様はイスラム商人と仲良くするためにイスラム教を保護したのです。これは戦国時代の大友宗麟や織田信長が南蛮貿易を盛んにするためにキリスト教の布教を保護したのと同じですね。 南米に最初にやってきたのはスペイン人でした。その関係で南米・中南米にはカトリックが多いのです。カトリックの布教に対する情熱って相当すさまじいみたいで、アフリカのすんごい山奥で突然カトリックの教会があったなんてこともよくあるらしいですよ。 ちなみにはるばる日本にやってきたあのフランシスコ・ザビエルが残した言葉に「日本人は良き実をつける人は多いが、刈り取る人があまりに少ない」というのがあります。これはどういう意味かというと、キリスト教の信者は増えるのに、その信者たちが布教に積極的ではないことを嘆いた言葉なのです。 まあ、良くも悪くも「カトリックの教えはこんなに素晴らしいんだから、世界中に布教して多くの人を神の愛で救ってあげよう」って押しつけがましく考えるのがカトリックなのです。

noname#228046
質問者

お礼

>1 ササン朝ペルシャ、ゾロアスター教、一神教 それらを知れば複合的な背景をより理解する事ができそうですね。 ありがとうございます。 >2 イスラム商人は逞しかったんですね。 しかしそれ以外の所にまでは広まらなかった。 受け入れやすい土壌があってこその広まりなんでしょうね。 >カトリック 押しつけがましいのはこの国の国民性には相いれませんね。 宗教の伝播で国民性も見えてくるんですね。 色々教えて下さってありがとうございます。 興味が伴って知るという事は楽しいものですね。

その他の回答 (4)

回答No.5

No.4です わざわざお礼を記入頂きありがとうございます。 補足の説明をさせて下さい >仏教のなぜを知るにはヒンズー教を知る必要がありそうです。 インドの古い出来事を知ろうとすると厄介なのがインド人というのは歴史というものに全くと言って良いほど無関心でした。 イギリスが統治してからやっと古い出来事を記録するなど歴史学を始めました。 資料が少ない上になじくみのないヒンズー教をいきなりお調べになるよりも密教をお調べになる方が手っ取り早いでしょう。 日本の仏教は大まかに言いますと南都六宗→密教→鎌倉仏教の順ですが、幸いなことに全てが現役で残っています。 密教としては空海の高野山、最澄の比叡山延暦寺です。 インドでヒンズー教が盛んになり仏教が圧迫された時代にヒンズー教を取り入れた宗派が生まれました。 これが密教です。 南都六宗や鎌倉仏教と高野山や延暦寺と何が違うのかを調べれば自然にヒンズー教の概要が浮かび上がってきます。 現在、最も身近な浄土真宗や日蓮宗の宗祖は延暦寺で勉強していました。 延暦寺の考え方だけでは飽き足らずに独立しました。 この宗派の考え方の基本を調べれば延暦寺つまり密教の概要が分かります。 まぁ~意外に身近なところに手がかりがあるということです。 >何か背景あってこその南米との差なのでしょうか。 スペインやポルトガルにとって東南アジアは遠かったということでしょう。 ヨーロッパの人々は、良質な木綿や香辛料、宝石などを豊富に産出するインドに強いあこがれを持っていました。 南北アメリカ大陸があることを知りませんでしたので、イスラム教徒のいる陸路に代わるものとして海路を開拓しようとしました。 当時は海の上で自分の現在地を知るには南北は北極星や太陽などを観測することで分かりましたが東西が分かりませんでした。 そこで大西洋をほぼインドと同じ緯度まで南下してそこでヤッと船首を西に向けて直進する方法を考えました。 ヨーロッパに近い北米大陸よりも南米大陸の方が早く、知られるようになったのはこのためです。 南米ではインカ文明が発達していて金製品が豊富にありました。 これをスペインやポルトガルが強奪しました。 コロンブスが目指したのはインドではなく黄金の国ジパングです。 結果的にカリブ海の島にぶち当たりました。 >キリスト教とイスラム教のよりローカルな交流交易などを知ると西洋の対応の差がより理解できるのでしょうか。 難しいところです。 交流史はあくまでも状況証拠です。 肥大化して周辺諸国を席巻した民族なり国家の内部でなぜイスラム教やキリスト教が浸透したのか、ということになりますと交流史では説明できません。 例えばローマ帝国がなぜそれまでの多神教を捨ててキリスト教を国教としたのか等です。 なぜインド内部で仏教が衰退したのかを交流史では説明がつきません。 インド人自身が衰退させたという学説もあります。 西洋諸国の対応の差は時代の差です。 同じ時代であれば似たようなことをやっています。 蛇足 歴史学は文字史料を基本とした学問で考古学は物を基準とした学問です。 宗教や文化・習慣などは文字や物だけでは説明がつきません。 これを補っているのが民俗学です。 口伝えの伝承や伝統などを頼りに調べて行きます。 仏教が衰退したというのも現象面から見れば支持する人(信者)の数が減ったということです。 なぜ支持者が減ったのかということになりますとその当時の人々の生活環境や生活信条が絡んできます。

noname#228046
質問者

お礼

インド人は歴史に無関心だったんですか。 密教を知るとヒンズー教に圧迫された頃も見えるんですね。 南米発見の経緯にはそうした航海上の事情があったんですね。 そして南米との対応の差は時代の差なんですね。 どんな価値観倫理観常識を要される社会に発展して その中に染まって生きた人間が外に行き集団として行動する。 その集団の行動が畏怖嫌悪の対象になるなら迫害される。 今なお変わり続ける人々の価値観の変化の1プロセスが 当然当時にもあったという事なんですね。 民俗学。興味深いです。稀に聞き及ぶくらいでしたが。 動物的短絡的欲望から生じる暴力の連鎖を軽減できる宗教。 恩恵と弊害。秩序と処罰と反感反発。 相応のプロセスがあって伝播、衰退したのでしょうね。 全てが繋がっているというのは不思議な様な自然な様な。 色々教えて下さってありがとうございました。

回答No.4

質問1 ご指摘の地域はガンダーラと呼ばれた仏教が盛んな地域でした。 仏教そのものがインドおよびその周辺で衰退していきました。 なぜ仏教が衰退したのかについては良く分かっていません。 結果としてヒンズー教に吸収されてしまいました。 ヒンズー教も仏教も古代インドのバラモン教から生まれたものでいわば姉妹宗教です。 姉妹宗教ですので共通点が沢山あります。 現在の日本仏教で帝釈天など「天」と呼ばれる仏様は大半がヒンズー教の神様です。 現在のインドでも仏教はヒンズー教の一宗派と見なされています。 ヒンズー教の地域にイスラム教が広がったのは、宗教的な理由ではなくイスラム教を奉じる民族の国家が侵攻してきたためです。 インドも一時はイスラム教国家でした。 有名なタージ・マハルの白大理石の建物もイスラム教に基づいた建物です。 パキスタンはインドがイギリスから独立する際にイスラム教徒が多い地域としてヒンズー教が主体のインドから分離独立した国です。 アフガニスタンは早くからイスラム教国としてインドとは別に発展した国です。 質問2 インド洋をはやくから航行していたのは、イスラム教徒の人達でした。 洋式帆船がインド洋を航行するようになったのは大航海時代以降つまり15世紀半ば以降のことです。 東南アジアにキリスト教が伝わる以前に既にイスラム教が伝わっていました。 イスラム教徒というと砂漠の民という印象が強いですが航海術にも長けていました。 三角帆を使った外洋船というのはイスラム教徒の船でした。 洋式帆船が船首と船尾に三角帆を使うようになったのはこのイスラム教徒の人達の船の影響です。 そもそも大航海時代が始まった切っ掛けは、インドネシアなど東南アジア諸国で産出される香辛料がイスラム教徒に抑えられていたのを打破するためにアフリカ大陸をぐるりと回る航路を開拓したことです。 イスラム教徒と取引をしていたのがベニス、ナポリなどのイタリア商人でした。 スペインやポルトガル、オランダなどがインド洋に進出して東南アジア諸国と直接取引するようになってベニスなどが寂れていきました。 南米にキリスト教(カトリック)が多いのは宗教的な理由ではありません。 カトリックを奉じるスペイン人やポルトガル人が金や銀を求めて侵攻した結果です。 現在南米諸国にスペイン語やポルトガル語を母語とする人達が多いのはこの結果です。 蛇足 世界の三大宗教などと呼ばれるものが広がったのは、宗教的な理由というよりも、その宗教を奉じる民族や国家が拡大したことによります。 ヨーロッパにキリスト教が広まったのもローマ帝国がキリスト教を国教としていたことによります。 最近EUで難民問題が深刻になっていますが、北アフリカや中近東のイスラム教徒の難民が大量に定住しますと、EU諸国にイスラム教が根付いてしまいます。 日本で中華街やコーリャンタウンができるのと同じ現象です。

noname#228046
質問者

お礼

>1 トルコにキリスト教の建物が残っている様に タージ・マハルもそうした存在だったんですね。 仏教のなぜを知るにはヒンズー教を知る必要がありそうです。 >2 航海に長けていたんですね。 節々でイスラム圏の影響は色濃いんですね。 西洋の植民地支配が及ぶ前からイスラム教は広がっていた。 しかし南米みたいな事にはならなかった。 ほどほどに接点があり続けた事で互いにある程度知識があり 適度な距離感を持つ術を知っていたとか 何か背景あってこその南米との差なのでしょうか。 キリスト教とイスラム教のよりローカルな交流交易などを知ると 西洋の対応の差がより理解できるのでしょうか。 外洋航海でベネチアが衰退した話はよく聞いていましたが 植民地支配の話はそこにも繋がってくる訳ですね。 そして宗教の広がりは民族や国家の拡大が大きいんですね。 人はよりよい生活を求め移住するも 馴染んだ文化習慣を求め移住先で再現したがり時に衝突を招く。 昔から繰り返されてきた事なんですね。 人間も動物なのだと妙に理解できる気がします。 色々と知らない事を教えて下さってありがとうございます。 全てが繋がっている訳ですね。

  • SPS700
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回答No.2

 これはインドの考古学からヒントを受けた、ランカスターというアメリカの仏教学者の考えですが、 1。仏教はインドの商人たちが海路で広げたので、東南アジアやインドネシアに広まった。しかし中東の商人に場所を取られ、仏教は西に伸びなくなった。 https://vimeo.com/43581226 2.。これは僕の考えですが、仏教とインド商人の海路による活躍の衰退ののちにできた空白を、中東の商人が埋め、イスラム教が広がったのでしょう。  南米は、インカを征服したピサロが、中米を征服したコルテスにスペインの王宮で「王様を人質にとれ」と教えられ、丸腰の先住民を虐殺したからでしょう。  アメリカ侵略の名目は、野蛮人をキリスト教徒(=文化人)に変える、実際には黄金と奴隷が目的だったので、改宗か死かを選ばされたからです。

noname#228046
質問者

お礼

広まる手法に事情が絡んでいるんですね。 なぜ東南アジアと南米とで西洋の対応がこうも違うのやら。 これは脱線ですね。失礼しました。ご回答ありがとうございます。

  • nagata2017
  • ベストアンサー率33% (6878/20343)
回答No.1

1例を挙げると 好戦的な民族は 男たちが戦いで死ぬので 男女の比率が大きく崩れる。 そこで 一夫多妻制を認める宗教が根付く。 というように風土に合うものが広まるからというのも一つの理由。

noname#228046
質問者

お礼

1つにそういう事情が有ったのですね。 受け入れられる宗教観か否かが結構大きかったのですね。 ありがとうございます。

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