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マレー・ゲルマンはなぜノーベル賞を取れたのですか
マレー・ゲルマンは、1969年にノーベル物理学賞を受賞しましたが、 1969年にはまだクォークが存在するかどうかは賛否両論だったのに、なぜマレー・ゲルマンはノーベル物理学賞を受賞できたのでしょうか。 八道説だけで、マレー・ゲルマンはノーベル物理学賞を受賞したのでしょうか。 それとも、西島・中野・ゲルマン則の業績もあったからマレー・ゲルマンはノーベル物理学賞を受賞できたのでしょうか。 もし、西島・中野・ゲルマン則をマレー・ゲルマンが研究していなかったら、マレー・ゲルマンのノーベル賞受賞は、クォークの存在が確定してからのことになったでしょうか。
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#1です。以下は、さっき仕入れた知識です(^^;)。 坂田昌一の素粒子の複合模型は、クォークモデルに非常に強い影響を与えましたが、それは既存の素粒子の組み合わせを試論して、たくさん現れていた新粒子の一部の整理に成功しただけで、クォークモデルのように、その当時知られていた全ての新粒子,既存粒子を、系統的かつ包括的に整理できるものではなかったようです。ノーベル賞の可否は、その点ではなかったのかな?、と思いました。それは当時の選考委員会にきくしかありません。 ただし坂田先生は、ゲルマン本人がクォークの実在性については懐疑的だったのに対して、最初から全面的に「実在する」と思っていたみたいです。たぶん西島・中野・ゲルマン則の発展形であるクォークモデルは、先生の夢の実現だったんですよ。さすが坂田先生、と言いたいです(^^)。 そして当時の素粒子研究の世界の第一人者達の多くが、「坂田がゲルマンと同時受賞でないのはおかしい」と感じていたのも事実のようです。 だからそうでない例もありますよ。自然界の自発的対称性の破れと言えば、(余り直接的には言われませんが)それは質量の起源と言われるヒッグス粒子の生成機構です。 こういう事を最初に言い出した人の一人は、間違いなく南部陽一郎で(言い出したのは1960年代で、じつはアメリカ人)、その系譜を受け継ぐ小林誠と益川敏英(1970年代の論文)らは、2008年に受賞します。 そしてついにヒッグス粒子は発見され、2013年に当然ながらヒッグスさんとアングレールさんが受賞しますが、ヒッグスさんがヒッグス粒子を最初に言い出したのも、じつは1960年代です。たぶん南部さんの仲間だったんですよ。 ノーベル賞選考委員会も、なかなか考えてるじゃないですか(^^)。
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- ddtddtddt
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正確にはゲルマンは、クォークでノーベル賞を受賞したのではないようです。 「素粒子の分類と相互作用に関する発見と貢献」が受賞理由です。 ゲルマン本人もこの時点では、クォークは計算上の仮想粒子で、そういう数学的手段を用いる事で、見通しが良くなるに過ぎないと考えていたみたいです。 というのは1950~60年代に粒子加速器の中で、たくさんの新粒子が発見され、それらの整理に難儀していました。一部では、素粒子なんてそもそもないのではないか?、という意見まで一部で出ます。 ゲルマンの研究はそういう状況の中で、導きの糸を与えるものとして評価されたようです。実際に整理可能になったのは事実ですから。 こういう例は、ほかにもあります。
お礼
ご回答ありがとうございました。 「素粒子の分類と相互作用に関する発見と貢献」に対するノーベル物理学賞ならば、マレー・ゲルマンより前からそのような研究で知られていた坂田昌一が受賞しなかったのはなぜなのでしょうか。坂田昌一が死んだのは、1970年1月18日ですから、1969年にマレー・ゲルマンがノーベル物理学賞を受賞したときには、坂田昌一は生きていたはずです。 なぜ坂田昌一が受賞しなかったのでしょうか。 やはり、西島・中野・ゲルマン法則の業績がマレー・ゲルマンにあったので、マレー・ゲルマンがノーベル賞選考委員たちに特別扱いされたのでしょうか。
補足
すみません、下のお礼に訂正があります。 坂田昌一が死んだのは、1970年1月18日ではなく、1970年10月16日の間違いでした。 しかし、いずれにしても、マレー・ゲルマンがノーベル物理学賞を受賞したときに、坂田昌一が生きていたことには間違いありません。
お礼
回答ありがとうございました。参考になりました。