- 締切済み
事実と解釈
事実と解釈に対して、自分の中で一定の解が出たので質問させて頂きます。 事実があった時、人はそれを解釈します。 その解釈は事実とは無関係です。 人は自分が信じたいものを信じます。 例えば幽霊や霊魂の存在を信じている人と信じていない人がいた場合、 双方とも自分の「経験」や「知識」に基づいて意見を言います。 実際に幽霊や霊魂が存在するかしないかは関係ありません。 もう一つ例を出します。 AとBが食事をする約束をしました。 しかしBが急に風邪をひいて来れなくなりました。 この時AがBを疑います。本当に風邪をひいたのか、ひかなかったのか。 しかし事実はBは「食事に来れなくなった」という事のみです。 風邪をひいたか否かは関係ありません。もっと言えば理由さえあれば風邪でなくても良いはずです。 Bがなぜ来なかったかは、Aの解釈次第です。 AとBの関係や人格に様々な前提を持たせれば、更に事実は見えにくくなります。 以上2つの場合を考えた時、事実と解釈の関係が見えてきます。 事実は1か0か、ですがそこに意味を持たせるのは人間です。 事実は解釈から生まれますが、解釈は事実とは無関係です。しかし生まれた解釈から更に事実が生まれます。 この事実と解釈に対する自分の見解が完全とは思えませんが、現状幾ら考えてもこれを超える解が見つかりません。 自分は今新たな見地を見出したいと考えています。 漠然とした質問内容になってしまいましたが、どんな批判・意見・感想でも結構ですのでご教示頂ければ幸いです。
- みんなの回答 (11)
- 専門家の回答
みんなの回答
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
失礼ですが、この事実と評価を分けて考える 方法は、歴史哲学などで昔から行われてきたものです。 特に目新しいモノでもありません。 また、事実と評価が、実際峻別出来るモノか、という 疑問も出されています。 理念上は事実と評価は判然と区別されるべきものですが、 実際は違います。 事実の認定は、それを裏付ける証拠によってなされますが、 これが証拠になるかどうか、という具体的事例においては どうしても評価が入ってきてしまうのが現実だからです。 自分は今新たな見地を見出したいと考えています。 ↑ これぞ俺のオリジナル、と信じた経験は何度もありました。 しかし、それは思い上がりで、ただの勉強不足でした。 勉強していくと、必ず誰かが既に述べていました。 そうしたことの繰り返しでした。 おそらくですが、どこかで小耳に挟んだことを忘れて 己のオリジナル、と錯覚したのでしょう。 遺憾です。
- 1
- 2
お礼
ご回答ありがとうございます。 >事実の認定は、それを裏付ける証拠によってなされますが、 これが証拠になるかどうか、という具体的事例においては どうしても評価が入ってきてしまうのが現実だからです。 具体的にどういった例でしょうか? 「Bは食事に来なかった」という事実に評価とか関係あるんでしょうか? ちなみに特に自分のオリジナルどうこうとは考えていませんでした。 しかし「新しい見地」とは相対的にではなく自分の内側の問題だったので、わざわざ書く必要はなかったかもしれませんし、不快に感じたのなら申し訳ございません。 やはり自分の料簡だけで物事を推し量ったり、判断することが愚かしいというのは同意致します。 ただ、自分にとってどういう心境で質問させて頂いたかご理解頂ければ幸いです。