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江戸時代の浮世絵師になる為の流れについて

よく浮世絵師は、〇〇(師匠)の門下や弟子になり、絵師になるというのは聞きますが、どこにも弟子入りなどはせず、独学で絵師になったという方はいないのでしょうか? 近代は独学で画家になったという方も聞きますが、江戸時代などの昔の時代では、学ぶ為には誰かに弟子入りをするしかなかったのでしょうか?

みんなの回答

  • ithi
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回答No.3

riko005 さん、こんばんは。 そうですね。大体はどこかの画塾に入って、絵の基礎を教えてもらうのが普通だと思います。雪舟みたいにすごい人がいたかどうかはわかりません。北斎、写楽ですら、狩野派の影響があるというのですから… 写楽 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B4%B2%E6%96%8E%E5%86%99%E6%A5%BD 雪舟 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E8%88%9F 葛飾北斎 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E9%A3%BE%E5%8C%97%E6%96%8E

回答No.2

>独学で絵師になったという方はいないのでしょうか? 沢山いました。 浮世絵師として有名なのは東洲斎写楽です。 独特の画風で師匠どころか本人の来歴すら不明です。 あまり有名ではありませんが奥村 政信などは絵を描くだけではなく自ら出版もしていました。 現代で例えれば出版社の社長が趣味で絵を描いて売っているようなイメージです。 絵師と言いますと非常に広い範囲の人達を指すことになります。 浮世絵師はその中の一つのジャンルの人達ということになります。 現在の画家とアニメーターとの関係によく似ています。 絵師の中には御用絵師とよばれ幕府や大名家の襖絵や屏風、衝立などを専門に描いていた人達もいました。 この人達は武家に仕える人達ということで武家として扱われていて親子代々家業として受け継がれていました。俸禄ももらっていました。 幕府の御用絵師であった狩野派などという集団は親子兄弟叔父従兄弟など血族集団でした。 いかに幕府が所有する建物が多くても仕事量は多くありませんので希望者に教えるというようなこともやっていました。 これが、狩野派の系統の絵を描く絵師とか狩野派に師事していたとか言われています。 大名家のものとしては秋田久保田藩のように秋田蘭画とよばれる西洋絵画の技法を取り入れたものもありました。秋田派と呼ばれていました。 絵師は藩士として扱われ逆に藩士で絵師になった人もいました。 浮世絵も版木で刷り上げたものだけではなく肉筆画もあります。 リトグラフの原画のようなものと思ってください。 版木で刷り上げた浮世絵の場合は、下絵師(原画を描く人)彫師(版木を彫る人)摺師(刷る人)など専門家(職人)の集団が制作していました。 この集団を取り纏めていたのが版元(地本問屋)と呼ばれる現在の出版社のような人でした。 原画を描いた人の名前だけが伝えられているだけでが、髪の毛一本一本を凸版として彫り上げる技術や色ごとに何枚もの版木を使いながらズレルことなく刷り上げる技術など高い職人技に支えられていました、 この版元が町内に絵の好きな子供がいると自分が使っていた絵師に手ほどきをさせて成長するとそのまま絵師として使っていました。 その際に有名な師匠のところへ弟子入りさせることもありました。 現在浮世絵とされているものは、芸術性が認められたものですが、当時は挿絵や写真がわりにあらゆる分野で使われていました。 美人画や役者絵は現在の広告やアイドルの写真集でした。 歌川広重の東海道五十三次などは現代の旅行案内書か絵葉書のようなものです。 一番多かったのが絵双紙(絵草紙)合本などと呼ばれる書籍でした。 絵の周辺にぎっしりと文章が書かれています。 つまり浮世絵というのは現代のように飾るものではなく、気楽に手に取って楽しむものでした。 このような性格のものですので、絵師(下絵師)も画家というよりも職人でした。 職人ですからしかつめらしく何何派などということはありませんでした。 絵が好きならその道の職人として育ちました。 そういう意味では大工や板前とかわりがありませんでした。 流派が継承する技法や画風を自分なりに取りれて自分の技に磨きをかけていました。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34516)
回答No.1

写楽はその正体がはっきりと分かっていませんから、独学絵師である可能性は否定できないですね。最近、その正体は能役者の斎藤十郎兵衛だという説が有力となっています。元が能役者ですから絵師が本業ではないですね。ただ、もしかしたら斎藤十郎兵衛その人が誰かに絵を習っていた可能性はあると思いますが、それを裏付ける資料が残っていません。 写楽については、画家や漫画家の多くから「デッサンの基本ができていないから本業の画家ではないと思う」と昔から指摘されていましたね。 中には、そういう人もいたかもしれません。浮世絵師というのは現代でいうならまさに漫画家ですからね。ただそういう人は歴史に名を遺すことなく消えていったのだと思います。コミケ本の99%以上は後世に残らないじゃないですか。商業化されたマンガもそうです。マンガ史に名を遺すマンガは、やっぱり飛び抜けた画力を持った人の作品になるでしょうからね。「進撃の巨人」がマンガ史に名を遺すかっていうとそれはないです。 江戸時代のような昔であれば、誰かのところに弟子入りでもしないと道具も手に入らなかったでしょうね。現代のようにそこらじゅうで物を売っている時代ではないですからね。 また仮に道具を手に入れたところで教科書があるわけでもないので独習することはほとんど不可能です。とても絵の上手な子だとなったら誰かが絵師のところに弟子入りするように勧めるでしょうしね。江戸時代後期というより、幕末前夜といったほうがいい時代に葛飾北斎が「北斎漫画」というのを出して、これがデッサンの教科書本的なものとなりました。でもああいうのが作られたということは、そういう教科書があったらいいなという世間のニーズもあったのでしょうね。