- ベストアンサー
伏見
「真田丸」を見ていると、秀吉が「おい、家康を呼べ」なんていうとすぐに会えたりして、全国の武将が全員伏見に滞在しているみたいですが、そういうもんだったんですか?。 確かに各武将がみんな全国の地元におられては、コミュニケーションが全く取れませんので、一ヶ所に集結しているのは合理です。 しかし、その代わり、地元の管理がおろそかになるわけですが。 むしろ、本社勤務で、時々地方出張する、リージョナル・マネージャーのような感じでしょうか。 かなり現代的ですね。
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
> 全国の武将が全員伏見に滞在しているみたいですが、そういうもんだったんですか?。 そういうもんだった、らしいですね。 NHKの「ブラタモリ」という番組をみていたら、いろんな大名が伏見でお隣さんどうしだったと言っていました。 今の伏見の地名にも、たくさんの有名大名の名前が付いているようです。 あのときの説明では、大阪城が豊臣さんのプライベート城で、伏見城(桃山城)が公の行政城(京都も大坂も、奈良方面も見渡せる最高の位置)だったとか。タモリさんも、逆じゃないかと驚いていましたね。 行政上の便宜のため、秀吉(伏見が大好きだった由)が膝元に大名を集めたんですね。 ある場所では、説明役の人が「♪酒は飲め飲め飲むならば~」と歌う「黒田節」の主人公が、酒で名槍「日本号」を呑み取った屋敷は「ここです」とか言って指さしていました。もちろん、いまは(大名屋敷に比べれば遥かに小さな)ふつうの個人のお宅(複数)ですが。 余談ですが、伏見桃山城の模擬天守閣(昭和の臭いプンプン)に行った時、中は見られないのかなぁ、せめて天守閣の最上階に行って周囲を見渡したものだが、と残念に思ったものでした。 ブラタモリでその願いが叶ってとてもうれしかったです。撮影の日は残念ながら曇っていましたが、感覚はつかめて満足でした。
その他の回答 (4)
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1963/11745)
江戸時代には不採用になる と言うか そもそも参勤交代の目的は参勤で大量の資金を使わせて大名の国力を削いで謀反を防ぐ事です 信長の時代はまだ戦があったので 大名の国力を削ぐわけには行かなかった その違いです
お礼
ありがとうございます。 参覲交代があるということは、普段は、地元にいるということですよね?。 つまり。織田信長が、各武将を首都に集結させる方式を確立したが、江戸時代にはその方式は不採用になって元の地元滞在方式に戻ったということでしょうかね?。
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1963/11745)
豊臣秀吉は信長にならって 全国の諸大名を城下の屋敷に住ませました(領国での謀反を防ぐためです) ですから全国の諸大名は大阪や伏見の屋敷に滞在していました ちなみに地元の管理は息子や家臣がやってた(家康の場合 伏見に家康がいる時地元は秀忠に任せてありました) あなたが思ってるより現代的ですよ? しかも信長の時代にはその制度は確立していました
お礼
ありがとうございます。 そのようですね。 しかし、江戸時代はまた戻りますよね。参覲交代は、「たまに江戸に来る」のですものね?。 「信長が既に確立していた」と言っても、江戸で不採用になるわけですかね。
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11074/34519)
後に関ヶ原のきっかけとなったのは、家康による会津上杉討伐になるわけですが、その会津討伐もその始まりは上杉景勝が会津に帰国している間に「謀反の企てあり」という訴えがあって、家康が上洛を命じるも景勝が応じないという流れがあったからです。 当時はまだ秀吉による天下統一がなったばかりで、各地の戦国大名つうのはついこないだまで近隣の誰かと戦争していたわけですから、みんな大なり小なり陥れてやろうという敵がいたわけです。例えば伊達政宗なら最上や佐竹はどうにかして潰してやろうと思ってたでしょうし、津軽為信は帰国の途中で南部から暗殺されそうにもなっていました。 だからうっかり帰国すると、その大名に恨みを持っていたり敵対している大名から「アイツなんで帰国したんでしょうねえ。なんか謀反を企てているかもしれませんよ」と告げ口もされるでしょうし、その大名が潰されればおこぼれにあずかれそうな連中なら「あー俺も前々からアイツ怪しいと思ってたんすよ。ぶっ潰しましょうよ!」と乗っかってくるでしょうから、ウカウカ自分の領地にいられないと思いますよ。特に京都大阪から離れると政治状況の情報も入ってきませんから、うっかりすると「自分に謀反の嫌疑がかけられていることを知ったときにはもう京都では討伐することで方針が固まっていた」なんてことだって起こり得たと思いますよ。 実際、関ケ原のときも伊達政宗はまさか1日で勝敗が決してるとは思わなくて情勢を見極めるために日和見を決め込んで最上義光を見殺しにして、そのせいでまんまと百万石のお墨付きを反故にされてしまいましたよね。
お礼
ありがとうございます。 私も伏見の回のプラタモリをみました。正に、「伏見は日本の首都だった」というお題で、秀吉が伏見でやりたかった事が明らかにされます。 あのタモリですら、伏見が首都のようになっていた事を知りませんでした。そもそも「大坂」だと思っていた。そして、大名が伏見住まいしてたのも知りません。 帰国が謀反の嫌疑となるのは、伏見居住がスタンダードとなるからで、帰国の方が「レア」だからですよね。 それって、意外とみんな認識してないですよね?。
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9601)
MONKEYMONKEY さん、こんばんは。 天下人の城下町というのは、大体、大名屋敷がたくさんあるものです。大阪もそうですし、家康の江戸もそうです。
お礼
ありがとうございます。 私のイメージでは大名屋敷はたまに上京したときの宿くらいのものかと思ってたので、常にいるのは意外でした。
お礼
ありがとうございます。 えー、ブラタモリは大好きなのですが、伏見の回なんてありましたっけ?。(調べると)あー、その回だけなぜか見逃してました。見てみます。この質問にピッタリの回でしたね。