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明治・大正時代。中央省庁に女性の役人はいましたか。
この質問では中央省庁に勤めておれば役人とします。 なかでも、判任官以上の女性の役人がいたのか、を知りたいです。 中央省庁とは、大蔵省、陸軍省、海軍省、司法省、宮内省、外務省、内務省、 文部省、逓信省、農商務省、工部省などで、出先機関を含みます。 明治40年、中央省庁ではないですが、高知県には女性巡査が1名いたそうです。 よろしくお願いします。
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「中央省庁に勤めておれば役人」「出先機関を含みます。」が 単に女性の判任官と言うだけではダメで いわゆる霞ヶ関勤め限定って事でしょうか? その点が疑問符のまま広く「単に女性の判任官」全般に関する投稿ゆえ、 見当違いの場合は御容赦下さい。 下記の明治14年11月2日決裁によれば、遅くとも明治14年11月1日上申時点には、 文部省の官立女子学校教員の中に女性の判任官が存在したようです。 〇件名:文部省 官立女子学校教員ノ内婦女子ニシテ判任官ノ輩 大礼拝賀ノ節着服ノ儀 【階層】国立公文書館国立公文書館>内閣>記録材料> 簿冊:記録材料・決裁録・第二局 【レファレンスコード】A07061428300【 画像数 】2 http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A07061428300 太政官第二局第五號 十一月一日上申 明治十四年十一月一日 第二局 主任 属 参議 書記官 別紙文部省伺官立女子学校教員ノ内婦女子ニシテ判任官ノ輩大礼拝賀ノ節着服 ノ儀ハ未タ一般婦女ノ礼服御制定無之先以□同省伺出ノ通白襟紋付為相用可然 哉依ヲ左案取調仰高裁候也 御指令按 伺之通 明治十四年十一月二日決裁 〇『新聞集成明治編年史第五卷/新聞集成明治編年史編纂会編/林泉社/1940』 ・<278/319>(499頁4段目)明治十七年七─八月 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920354/278 ※『新聞集成明治編年史』第一巻例言によりますと、 各記事題目は、編者が新たに附したものとの事で省略しました※ 〔八・二、時事〕 滋賀縣士族井崎リウ女は一昨日文部省准判任御用掛(月俸十七圓)を拝命し、 東京女子師範學校勤務を命ぜられたり。 なお、下記の東京朝日新聞記事の逓信大臣秘書官の談話によれば、 逓信省が女子の判任官登用を決定した明治39年7月時点では 「女子の判任官と謂へば、教職に在るものゝ外は現在に於ては、 我國に一切存在せず」とのこと。 また、逓信省初の女子判任官17名(本所貯金課6名・本所内國為替課5名・ 同庶務課2名、大阪支所2名、下關支所2名)は明治39年7月24日附任用。 〇『新聞集成明治編年史第十三卷/新聞集成明治編年史編纂会編/林泉社/1940』 ・<82/295>(118頁4-5段目)明治三十九年七月 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920436/82 〔七・一六、東朝〕 逓信省に於ては女子を判任官となすことゝなれり、 大道逓信大臣秘書官の談話に曰く、 逓信省に於ては、今度其所管内に使用する女子雇員を、 相當の條件の下に判任官に登用することに決定せり、 抑々女子の判任官と謂へば、教職に在るものゝ外は現在に於ては、 我國に一切存在せずして、全然創始時の事柄に屬するを以て、 夫々其筋の意見をも叩き、任用令其他法規の上より差支なしと確定し、 茲に始めて智識的の仕事を執る女子にして、優秀なるものに限り判任官に 登用するに省議一決したり。 ・<83/295>(121頁2~3段目)明治三十九年七月 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920436/83 〔七・二四、東朝〕 女子行政吏員判任官登庸の嚆矢として郵便為替貯金管理所及大阪、下關兩支所 に於ける女子雇員十七名(東京本所十三名大阪支所二名下關支所二名)は 愈々本日附を以て左の如く通信手に任ぜられ、…(後略)… 続いて、下記の明治42年9月16日付朝日新聞記事によれば、 「新橋駅には16人の女性出札係がいて、主任の1名だけが判任官」とのこと。 〇国立民族学博物館>近代日本の身装電子年表 http://htq.minpaku.ac.jp/databases/mcd/chronology.html ※「判任官」検索ヒット15件中13番目※ ・1909(明治42)年9月/現況 駅の出札係の制服(和装・整容)─新橋、品川、横浜、大阪等の鉄道の駅に女性 の出札係ができたのは、1903年のこと。新橋駅には現在16人の女性出札係がい て、年齢は28歳から17歳までで、既婚者もある。主任の1名だけが判任官で 十級俸、15円の月給、それ以外は雇員で30銭から50銭の日給。 彼女たちは黒木綿の職服を着ている。襟から旨までが被布仕立、下は袴風、 筒袖で先端にひだをとっている。“不格好ではないけれど、黒木綿の夏冬通し はヒド過ぎる、せめて羅紗か毛繻子にでもしたいけれど、どうも経費が許さん ので困ります、と高橋駅長は気の毒がる。─流石に文明の職業とて、頭は申し 合わした様に廂髪、リボンも多くは派手なのを避けて、総体に地味な扮装 (コシラエ)。”(松崎天民「東京の女」)[朝日 9/16(5)] 広く「単に女性の判任官」全般についての明治期の初動捜査では、 こんなところでしょうか(笑) 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
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- ithi
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kouki-koureisya さん、こんばんは。 そうですね。宮内省には女官がたくさんいたと思います。皇后宮職や皇太后宮職なんかはもう奏任官クラスの女官がたくさんいたと思います。女子学習院の先生なども奏任官以上の待遇だと思います。奏任官ということは高等官ですから最低でも軍の将校並みです。 また、文部省にある東京女子高等師範学校(お茶の水大学の前身)を卒業すると地方の女子中学校の教員になれたようです。此の辺が大体判任官待遇で軍の下士官並みになります。 東京女子高等師範学校 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A5%B3%E5%AD%90%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%B8%AB%E7%AF%84%E5%AD%A6%E6%A0%A1 高等官 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AE%98 宮内省 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%86%85%E7%9C%81#.E5.86.85.E9.96.A3.E5.88.B6.E5.BA.A6.E4.BB.A5.E9.99.8D.EF.BC.881885.E5.B9.B4-1947.E5.B9.B4.EF.BC.89
お礼
ご回答ありがとうございます。 明治時代の女子教育は、男の教師がしていたと思っていましたので、 華族女学校や学習院女子部に女性教員がいたとは全く思いもよらなかったです。 明治は「男尊女卑」だと思っていましたから、学習院が設立当初は男女共学だったことにも、驚きです。 下田歌子や津田梅子は、私学の教育者だと思っていましたので、再認識しました。 女官は予想していました。
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お礼
いつも綿密に調べ上げた事例を示して下さるので大助かりです。 また、こんな調べ方があるのかと、いつも驚いています。 「文部省 官立女子学校教員ノ内婦女子ニシテ判任官ノ輩大礼拝賀ノ節着服ノ儀」ですが、明治14年末か15年に「大礼拝賀」があったのですね。 いったい、何があったのだろうかと、調べてみたのですが、分りませんでした。 また、「輩」と呼ぶのですね。“やから”と読むのか“ともがら”と読むのか、こんなところで脱線しています。 明治39年7月時点では「女子の判任官と謂へば、教職に在るものゝ外は現在に於ては、我國に一切存在せず」ですね。 このようなことを知りたかったのでドンピシャです。 「女子雇員を、相當の條件の下に判任官に登用することに決定せり、…」ということで、優秀な者を昇格させたのですから、逓信省はなかなかやるじゃないか、と思いました。 これをヒントに調べてみました。 兵庫県立大学看護学部・地域ケア開発研究所紀要 「明治の判任文官層――キャリア形成としての教育史における研究対象―」 池田雅則 http://lib.laic.u-hyogo.ac.jp/laic/5/kiyo22/22-01.pdf#search='%E6%95%99%E5%B8%AB%E3%81%AF%E5%A5%8F%E4%BB%BB%E5%AE%98' (5/14) 官吏の任用資格 なお「男子」であることや成年に達していることもまた官吏たる任用資格とし想定しうるが、教官や通信事務に関わる官吏には女子も存在する。また成年未満でも官吏になれる場合もあった。”性別や年齢は任用の絶対条件ではない。” 官吏たるべき最も根源的な任用資格は「一定ノ智力ヲ有スルコト」である。この「一定ノ智力」を有することを任命権者が認めることによって官吏でない者が官吏になるのである。その能力の有無の判定は、試験に依る場合と依らない場合がある。 「新橋駅には16人の女性出札係がいて、主任の1名だけが判任官」とのこと。 鉄道は、明治42年には内閣所属部局の鉄道院になっていますが、1908年(明治41年)までは逓信省管轄の鉄道局でしたから、逓信省が「女性の時代」を先取りした感じです。 出札係の主任が判任官だったということは貴重な情報です。 かなり状況が分かってきました。
補足
ご回答ありがとうございます。 ホントは「明治・大正時代に女性の役人はいましたか」くらいの軽い気持ちで質問したかったのですが、そんな内容では、「まず役人とはなんぞやを定義せよ」と言われそうなので、中央省庁(こんな言葉自体、当時はなかったのかも)に勤めておれば「役人」ということにしました。 先に「江戸時代に女性の役人はいましたか」と質問しましたが、その続きです。 「霞ヶ関」に限定してもよかったのですが、それでは、「こんなところに女性の役人がいた」というサプライズを期待できません。 それで、範囲を広くして質問しました。