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子犬と老犬、どちらを助けるか?哲学愛好家のお考えを伺います
- 保健所の野犬保管所で殺処分までの数日を待つ犬どもが収監されております。
- A犬は、生後1年未満で余命10年超を期待できる健康そうな子犬です。
- B犬は、生後10年超と思われる老犬で、余命は2-3年かと想像できる動作緩慢な犬です。
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Mokuzo100nennさん こんばんは。 下記の高山辰雄の絵をご覧ください。 https://www.google.co.jp/search?q=%E9%AB%98%E5%B1%B1%E8%BE%B0%E9%9B%84+%E7%8A%AC&biw=1366&bih=651&tbm=isch&imgil=ed-_6mWlUsXwVM%253A%253Bn7TL3pAJYnKnEM%253Bhttp%25253A%25252F%25252Fameblo.jp%25252Ftonton3%25252Fentry-10153259845.html&source=iu&pf=m&fir=ed-_6mWlUsXwVM%253A%252Cn7TL3pAJYnKnEM%252C_&usg=__WdlUGYePs4MFKVZcyUaQf-Kvvnc%3D&dpr=1&ved=0ahUKEwi-i4G3rPrNAhWCqJQKHUDADf0QyjcIKQ&ei=lmWLV77oMILR0gTAgLfoDw#imgrc=XdQ5W-JkLMSrLM%3A 風景の溶け込み、今にも消え入りそうな、犬の絵です。 休みの間に、随分、昔の、NHKの日曜美術館を観ましたが、高山辰雄さんの作品を分子生物学者の福岡伸一さんがコメントしていました。 高山辰雄の絵は、遠くから見ると、一色の色で塗っているように見える部分も、近くで観察すると、違う色の岩絵の具を、一粒、一粒、ミクロのレベルで置いて、描いているそうです。 福岡伸一さんは、芸術の境地から追究した、高山辰雄さんの生命観と、自身の分子生物学からの生命へのアプローチに共感し下記のようにコメントしていました。 生きているということは動的なもので、分子レベルでみると、絶え間のない律動を繰り返す。生命とは瞬間は個体だが、時間を長くすると、エネルギー・分子の流体であり、更に時間を長くすると気体となり、環境に散らばる。ミクロな粒の動き、流れの中で移ろいゆくのが命で、それが、高山辰雄がたどり着いた、点の表現ではないか。高山の絵の具、一粒が、私達の分子や原子であり、それらは、最終的に環境に散らばり、動的流れの中で、地球や宇宙を構成する分子・原子となるのではないか。 仏教の輪廻を思わせる、生命観と思いました。 このような、自然についての循環的、考えは、西洋の古代ギリシアの自然哲学においても見られます。彼らは循環的でないような変化の存在も認めざるを得ませんでしたが、非循環的変化はそれ自体が不完全というよりも認識が不完全で、変化の一部しか知覚していないからだと考えました。 しかし、現代における自然観は、進化的概念を導入し、自然は循環的変化ではなく進展的変化であり、繰り返すことはない、一方向への力のように考えられています。 そして、この進展変化という考えは科学による発展を、大きく前進させた基盤的考えであると思われます。しかし、進展的変化の行く先はどこなのでしょうか? 進化の系統樹の先にいるのは人間です。今回のような、どちらの犬を選ばざるを得ないかという選択せざるを得なくさせたのは、ペットとしての動物を、自己都合で飼えなくなったからと捨てる、系統樹の先端の人間の勝手な行為から生じ、現在、環境問題として、捨てたペットが外来種として定着し、日本の固有種を駆逐して、繁殖することが問題となっています。 人生を達観していらっしゃる、Mokuzo100nennさんに、若輩者の私に一言いただきたいのですが、命や自然というものを考えるとき、Mokuzo100nennは、循環型と、進化のような一定方向への力の、どちらに、重きを置きますか? ペットでどちらを選ぶかというと、私は、高山辰雄の絵にあるような消え入りそうなB犬であり、あと残りわずかな命の犬の里親となり、お疲れさまと最後を見取り、犬の体を構成する、分子、原子を自然に返すことで、それらが、いつかは私の体の一部になるのでは、という、循環的自然観、生命観に現在、私は傾倒しております。
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- ddtddtddt
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#9です。 前回はあんまり実話めいた事を書きたくなかったので、小説の話にしましたが、現実にもあり得る話のようです。 自分の母親は終戦直後に、某ミッション系病院で看護師をやっていましたが、母体も胎児も両方見殺しにされたのを、何回か経験したそうです。もちろんどちらかを助けたいなら転院すればよいわけですが、終戦直後にそういう経済的余裕を持っている人は少なかった。 現在であれば、絶対に医療過誤か裁判沙汰になってるはずですが、主義主張や原理に忠実過ぎる人がいる現実は、噴飯ものでは片づけられない気がします。 ※前回と矛盾する趣旨である事は、自覚してます。
お礼
ありがとうございました。 人を助けない宗教家ってのは本当に嫌ですね。
- ddtddtddt
- ベストアンサー率56% (179/319)
人命は地球よりも重い、という考えがあります。信じたい考えなので、これを拡張する事は可能でしょう。どんな命も地球よりも重い、と。 ところがこの考えを採用すると、A犬を選ぼうがB犬を選ぼうが、アウトになります。どっちかが死ぬし、また選択によってその後の薬殺処分数も変わりますが、数の大小ではないので、アウトはアウトです。 このように相矛盾する価値判断が衝突する場合に、論理的決着はあり得ないと言ったのは社会学者ウェーバー(本当は歴史学者)でした(大げさかな?(^^;))。その時点で最良と思える事をやるしかないと。 という訳で、しょうもない事しか言えません。例えば多数と少数どちらも救助できるが、どちらかしか救助できない時は、多数を選ぶという選択肢はありでしょう。数の問題ではないから、どちらもアウトなのだが、他の価値判断も出来るだけ部分的に満たし、どんな命も地球よりも重いという精神に沿った、現実的な判断と言えなくもない。いくらかましだ、という意味で。 救える可能性の高い方を救助するという選択肢も、全部トライして全部失うよりは、被害を最小限に抑えるという判断ですが、これらの判断の後ろには、「どんな命も地球よりも重い」という精神が隠れているような気はします。 以下、くだらない話で申し訳ないですが、ジャック・ヒギンズの裁きの日という小説があります。舞台は第2次世界大戦直後の東西ベルリンで、主要人物の一人であるコンリン神父は敬虔なカトリックであると同時に、ベルリンの壁を越えて東側の亡命者を西側に逃がす人道支援組織の長でもありました。 彼は東側の工作で東ベルリンへ拉致され、そこで洗脳を受けます。そこでの一つに、こんなのがありました。コンリン神父には過去に姪がいましたが、妊娠中の姪は交通事故に遭い、重態となります。病院で医師から彼は、姪か胎児かのどちらか一方なら助けられるから、選択しろと迫られます。しかしどちらも拒絶します。カトリックの教えに忠実に従うなら、そうなります。結果、姪も胎児も死亡します。 洗脳官は「お前が二人とも殺した」と責めますが、神父は苦しんだのち「いやそうではない。二人が死んだのは事故のせいだ。また二人をひいた運転手のせいでもない。全ては不運な事故のせいであり、それは神の御心だ」と言い切ります。 賛否はあるでしょうが、人間はこれぐらい強くないといけない気がしました。また自分の選択によって生じた痛みを忘れない事だと思います。犬の場合は難しいですが。 自分も保健所から、シベリアンハスキーと北海道犬のハーフの(引き取り手のない)でっかい子犬を、ひきたっと事があります。
お礼
神父は人を救わないですね。死を弔うだけが彼らの仕事なのか。 不作為の罪を否定し、自分は罪が無いと主張する神父、噴飯ものです。 実は、設問自体がどっちを選んでもアウトになる設問ですから、そんなの答えないという回答が一番コンフォタブルで、実際、「一概には答えられない。」という回答を態々書き込んでくれた方もいました。 でも、この質問への回答よりも、質問者さんが実際に保健所から処分待ちの犬を引き取ったという事実が重いと思います。 ありがとうございました。
- stmim
- ベストアンサー率24% (57/236)
この問題には似ているけど別の二つの論点が含まれています。 (1)犬を救護する (2)犬を飼う この二つのどちらにウエイトを置くかで答えが変わってきます。 (1)ですと助けた犬が無事に生存することが主眼となります。私設の犬一匹だけの救護施設を運営することになります。引き取った犬が飼い主になつくかという飼い主との関係性は問題となりません。その犬が平穏に余生が過ごせればいいのです。 (2)ですと助けた犬と飼い主との心の交流が重要です。老犬では新しい飼い主に馴染めない可能性があります。子犬の時から育てたほうが飼い主を主人と思ってくれるし、飼い主も犬に愛情がわきます。もう子犬のかわいさといったらたまらないものがあります。子犬時代から世話すると愛情もひとしおでしょう。 それから犬を飼っていて一番つらいのは犬が死ぬ時です。だからできれば若くて余命が長い犬を飼ったほうが、つらい別れを先延ばしすることができます。老犬では飼ってすぐ死んでしまいます。そして犬が死んでしまうと、しばらく犬を飼いたくなくなると思います。しばらくは「さあ、次を飼おう」とはならないです。 私だったら「(2)犬を飼う」に重点を置きますので、A犬を飼うと思います。 (1)の動機で犬を飼うと私の場合、長続きしないと思うからです。 質問者様は「(1)犬を救護する」に重点があるように感じました。 個別のこの犬を助けたいということではなくて助ける犬を最大化したいということですので。その場合、一匹の犬を10年飼うより、寿命3~4年の犬を次々と3匹飼ったほうが、犬の救出の最大化になるということはないと思います。 (1)の場合、犬からみた公平性で考えるならくじを引いて当たった犬を飼うのがよいと思います。 それから現実的な意味では、どの犬を飼うかは奥様に相談されるのがよいと思います。犬は一人だけでは飼いきれないのでどこかで奥様に助けていただくことがあると思います。その時にスムースに協力していただくには奥様のご意向も伺っておいたほうがよいかと思います。
お礼
ありがとうございます。 そうですね。実際、犬を一頭買っていますので、保健所から引き取る犬は「飼う」ことよりも「救う」ことに重心を置いて質問を作りました。 A犬を引き取って、10年かそれ以上、家族として一緒に過ごすのは、素敵な選択と思います。
- oyatsuya
- ベストアンサー率21% (111/517)
Aは私でなくても誰かに引き取られる可能性が高いので選択外。 それに、短命だと責任感面で気楽なのでB。 Bでも、 感染症を持ってなくて凶暴でなければ、ということで。 Bを送り出したあと、また飼えそうな状況や気持ちなら、 またB。 でも、妊娠中か産後すぐの赤子持ちの犬なら助けたい気もするので それならAになるのかな。
お礼
なるほど。 ご自身だけで無く、他の里親候補の選択肢を考慮して、ご自分の引き取る犬を決定するのですね。 本当の優しをもった素晴らしい哲学と思います。 ありがとうございました。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
子犬か老犬かは、決定的要因ではない。 それは、犬を人に変えて子供と老人の どちらかを助ける問題にしてみれば分かる。 一般的な価値としては、より長期間、 社会に寄与できる子供の方が高い評価 だが、それは可能性に過ぎないのに対し、 老人の場合は既成の能力であって、その 人物がノーベル賞学者か犯罪者かによって 全く正反対の評価となる。 つまり老若の違いとは異なる要因が決定的 になるので、一概には答えられない。
お礼
哲学は役に立たないということでしょうか。 「一概には答えられない」と回答するのが上策なのかな? ありがとうございました。
- kuro804
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こんばんは 犬猫人に恨まれそうですがあえて言います! 回答はいずれも引き取らないです。 理由はいずれかを引き取れば収容施設に空きがうまれ また空きのままでは施設の人の首が飛びます。 つまり里親になれば施設が空き大人の事情で収容される犬猫がうまれます。 里親が高尚な愛とは人の身勝手な妄想の哲学であり 単に里親と施設は敵味方の違いでしかありません。 以上、私は猫です。
お礼
野犬保管所は居爺的収容施設であって、奥の扉を開ければ、そこはガス室です。 私がA犬もB犬も引き取らなければ、両方とも数日以内に処分され、「空き」が作られます。 ありがとうございました。
- maiko0333
- ベストアンサー率19% (839/4401)
日本国全員の、世界の人口すべてを救うんだという気持ちが大切ということです。
お礼
ありがとうございます。 そのお気持ちを大切に、三頭目、四頭目、五頭目、六頭目、七頭目、八頭目をよろしくおねがいします!
- KoalaGold
- ベストアンサー率20% (2539/12475)
飼うことで受ける家族の楽しみというのもあるでしょう。拾って箱に入れておくわけではなく毎日の生活に共有する可愛さや愛情、生き物を育てる事で心に育つ何か。 老犬は盛りを越していてその時期がもうありません。すでに10年過ごしていたら愛情が湧いていたでしょうが突然もらわれてきた犬です。来たからには最後まで看取るとしても老犬に病気や痛みもつきもの。お世話自体が苦しいものになります。 飼う側飼われる側が同時に利益を被るという点で幼犬を選びます。同じ理由でペットショップには子犬しかいません。
お礼
哲学的なご回答ありがとう在ます。 ペットショップに哲学があるとは思えないのです。 ペットショップは利益だけを考えて老犬を排除していると思います。 どうもありがとうございました。
- maiko0333
- ベストアンサー率19% (839/4401)
哲学的には「両方助ける」=2頭譲り受けてくる。かな。 奥さんには謝っといてください。
お礼
三頭目、四頭目、五頭目、六頭目、七頭目、八頭目などに関して、哲学的な回答をいただければありがたいです。 どうもありがとう在ました。
お礼
ありがとうございます。 素晴らしい絵を教えていただき、感謝いたします。 >命や自然というものを考えるとき、Mokuzo100nennは、循環型と、進化のような一定方向への力の、どちらに、重きを置きますか? 命に関しては、循環型と思うようになりました。 自然は、その範囲を宇宙にまで拡張して考えた結果、「進化のような一定方向への力」と考えるに至りました。 時間とは何か、を考えた結果です。 宇宙には始まりが有るので、時間は過去方向に無限ではない事は、21世紀に生きる人類の衆目の一致するところです。 未来方向は議論の分かれるところですが、宇宙の進化(進歩ではなくて、定向進化と呼ばれる一方向へ向かったプロセス)の結果、やがて宇宙では、温度差が無くなり(=熱力学が機能しない)、質量の遍在もなくなり(=万有引力が機能しない)、原子核も崩壊して素粒子が裸で散在する(=量子力学も機能しない)状態に向かいますので、長期的には「何も起こらない」状態になります。 何も起こらない状態では時間を測定することができなくなりますので、時間が必要なくなります。「時間は未来方向に無限」なのではなくて、遠い未来には(物理的に)時間が必要なくなるということです。 地球の生命は、この大きな宇宙の非情なる定向進化のプロセスに一瞬、閃く、美しい出来事で、個体が連鎖しながら生命を一定期間維持する、かけがえのないプロセスです。 地球の生命全体はやがて(40億年以内)に絶滅しますが、それまでの暫くの間、一所懸命に生命を紡ぐ、いとおしい現象ですね。 この地球の生命連鎖の1ノードとして、私がこの世に生を受けた事実は、奇跡以外の何物でもありませんので、この僥倖に感謝し、残された時間を大切に生きてゆきたいと思っています。