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依存心が消えるとどうなるの?
閲覧ありがとうございます。 私は常に誰かに依存して生きていることをやめたいです。 相手の評価が自分だと思う節があります。 特に親です。親には恐らく小さいころから依存していました。 親の思う反応を私がしないと暴力を振るわれることがありました。 親の期待する成果が出せないときも殴られたり蹴られたり、否定され続けました。 なので高校や大学も親の望むレベル、学部に進んできました。 当時は本気で気付かなかったのですが、今に思えば依存していたんだな…と思います。 大学生になり、依存の対象は親から彼氏に変わりました。 常に何をしているのか気になったり、私のことが好きなのか凄く不安になったり…。 結局別れてしまいましたが、やり直したいとも思っています。ですがこれこそが依存心からきているのかもしれないです。 なのでまずはこの負の依存心を治したいと思います。 ですが、長年人に依存して生きてきたので、依存心が克服された後のビジョンが全く浮かびません。想像できなくて恐怖すら感じます。 依存しない生き方ってなんなのでしょうか。誰か教えてください。
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- HeyXey
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お礼コメントありがとうございます。 前回のは「べき」論に過ぎました。すんなり受け入れることはできなかっただろうと思います。もっと共感を先にすべきでした。 依存心のない自分になろうとするとき、別人になろうとしたり、依存心がないかのように演じたりします。自分を否定しようとするのです。でも、このような方法は長続きしませんし、解決になりません。 依存する自分を自己受容したうえで、「相手の負担になりにくいように依存する方法を考える」とか、「相手の依存も受け止めて“相互依存”を目指す」とか、自分にも他人にもやさしい変化とでも言いましょうか、そういうところが目指す方向ではないでしょうか。 結局のところ、他人の自由と自分の自由のせめぎあいなのですから、折り合いをつけていかねばなりません。 他人に期待してはいけません。そう言うと何だか冷たい感じがしますが、そうではありません。親友なら、恋人なら、こうしてくれて当然である。……そういう考え方が、結局は自分を苦しめます。僕は「べき論」で言ったのではなく、「幸せになりたいのなら…」という視点で言ったのです。
- HeyXey
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お礼コメントありがとうございます。 たしかに、信頼していた人に裏切られたときはすごく傷付きます。『許せない』とも思います。自分を傷つけた人を許すのは、非常に難しいことです。頭では判っていても、なかなかできることではありません。しかし、許すという行為でさえ、実は、意識の奥に多少の横柄さを含んでいるのです。「許すか許さないかは、完全に自分の選択にかかっている。今回は、許してやるから、ありがたく思え」と、人を裁く神にでもなったような気になり、相手を見くだしていると言えなくはありません。憎んでいる人を許すということは、大変な勇気のいる、すばらしい行為です。しかし、その「許す」ということさえ、見方を変えれば、ふてぶてしいことなのです。 許すも許さないも、人間はそんなにえらくありません。 「他人のあやまちを許せない」という人にかぎって、自分のあやまちには目をつぶり、簡単に許してしまうものです。人間は、一生かかっても、完璧にはなりえません。死ぬまでが修行といえます。つねに自分をかえりみて、反省し、向上しようとつとめていれば、他人を批判する暇などないはずです。 許せないのであれば、仕方ありません。もう充分です。こだわるのはやめましょう。 信頼していた恋人に裏切られた時、人は大きなショックを受けます。しかし、そういう時には思い出してください。あなたは、なぜその人と付き合っていたのですか。誰かに強制されたわけではありません。見栄や義理のためでもありません。もしそうなら、そもそもそれは本当の愛ではなかったのですから、真剣に悩む必要もありません。自分が付き合いたいから、付き合っていたのです。自分の頭で判断し、付き合う価値があると見込んだから付き合ったのです。付き合ってくれた相手に感謝こそすれ、恨む理由があるでしょうか。 「自分のことを好きなら~」という条件付きで相手に何かを要求するのであれば、嫌われればそれで終わりです。しかし、そういう人にかぎって、嫌われれば今度は相手を恨むのです。いずれにしろ、他人というものを「利用価値があるか、どうか」という見方しかしていないのです。もし、あなたが愛する人に裏切られて傷ついているなら、自分に言い聞かせてください。「私は、自分が愛したかったから、あの人を愛したのだ」と。 「人を信じる」という言葉には、不思議な魔力があります。真に相手を信頼するというより、「自分は、人を疑うような心の汚れた人間ではない」と思い込みたいために、また、他人にそう見せつけたいために、自分の頭で正しい判断を下すことなく、むやみに人を盲信してしまうのです。 誰かまわず信頼すればよいというものではなく、誤解を怖れずに言えば、相手によって「この人は、どれくらい信頼できるか」という値踏みをしてもよいのです。街を歩いていて、いきなり見ず知らずの他人から「必ず返しますので、100万円貸してください」と言われて、「はいどうぞ」と貸す人はいないでしょう。それを「人を疑うとは、何と心のみにくい人間だ」と非難する人はいません。 「人を信じることは美しく、疑うことはみにくい」という類型的な観念にとらわれなくてもよいのです。信じるか信じないか、ということよりもっと大切なことは、「自分の責任において、自分の頭で判断する」ということです。 自分を「純真な人間」だと思い込んでいる人には、「悪いことはすべて他人のせい」だとするきらいがあります。不幸の原因を、すべて「こんなにも純粋な自分の心を踏みにじった他人が悪い」と思うことによって、責任を逃れようとしているのです。 裏切られて憎むくらいなら、はじめから「信頼している」などと気取ったことを言うべきではありません。「たとえ裏切られても、自分の意志で信頼していたのだから、後悔はない」と思えてはじめて、「信頼」と呼べるのです。 幸せを感じている人は、まわりのすべての人から理解されているわけではありません。 「他人は自分を理解してくれなくて当然、してくれた人には心から感謝しなければならない」と考えているだけです。 不幸な人とは、「他人は自分を理解してくれて当然、してくれない人には怒りを感じる」と考えている人です。「当然」か「不幸」かしかないのですから、いつまでたっても幸せになれるはずがありません。
- HeyXey
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こんばんは。確かに口で言っても(耳で聞いても)理解してもらえないかもしれません。そこを何とか表現してみようと思います。 まず、依存している人には「感情に対する幻想」があります。『わたしのせいで親(彼)は悪い感情(落胆・機嫌が悪い・悲しい等)を持った』と思います。他者の感情が自分のせいだと思うのです。しかし考えてもみてください。自分の感情が他者の手に握られていると感じるという人は未熟以外の何物でもありません。行為の責任を取らせるのはいいのですが、『私が腹を立てているのはお前のせいだから何とかしろ!』と言うことのみっともなさ、恥ずかしさは、オトナならわかる筈です。自分の気分は自分の考え方次第で何とでもなります。「お前のせいで…」と思い込んでいるから、自分の感情に対するコントロールの“自由”を失っているのです。自由と責任はいつもコインのうらおもてです。責任を持てば自由は得られます。自分の感情に責任を持つという考え方です。相手が気分を害したからといって、その責任まで負うことはできないのです。同様に自分の悪感情は自分が責任を負うべきなのです。だって、頭はその人のからだの上に乗っかっているのですから。 自由がなくなる要因の多くは“ダブル・バインド(二重拘束)”です。『こっちもダメ、かと言って逆もダメ』となると、人は動けなくなるのです。「杖を上げて犬を呼ぶ」という言葉があります。犬は近づくと杖でたたかれ、近寄らなければ飼い主に嫌われるのです。 「道を歩いていて、野良犬がついてきたとする。ただついてくるだけなら何とも思わないが、その犬を蹴って追い払おうとしても、なおついてくるなら、本当に慕われているのだということが判って、情がわいてくる」こういう感覚の人は神経症的です。神経症とはノイローゼです。神経質過ぎて、非現実的なことを現実できることと感じている人のことです。しかし実際には、「他人を試さなければ気がすまない人」と付き合うのは面倒だから避けたいと考える人はたくさんいるでしょう。このような行為を「試し行動」と呼びます。 他人を喜ばせるもっともよい方法は、自分が相手との付き合いを楽しむことです。それだけで充分なのです。「相手も楽しむこと」まで要求するのは、ごう慢というものです。 他人の感情が自分の言動で左右される(=左右できる)と考えることは、自分の感情は他人の言動で左右される(左右できる)と考えることと同一です。それがまさしく依存であり、ごう慢な考え方でもあるのです。 自立した人が自分の感情を思うがままにコントロールし、他者との関係をフラットに築いていることを知らずに、感情に対する幻想の世界をさまようのです。自分の感情の責任は自分にある。相手の感情の責任は相手にある、それが正解です。 頭で解ったとしても、ついクセが出てしまい、すぐに変化することはないでしょう。その都度修正していかねばなりません。人間に対する根本的な認知の枠組み(=スキーマ)を見直す必要があります。 今まで言葉で意識してこなかったであろうあなたの思考の枠組みに、真逆の考え方を述べました。他者に対して“操作的”にならず、「他人を変えようとしない」態度が良いと思います。嫌いな人は、どこにでも存在します。地の果てまで逃げても、のがれることはできません。 私たちにできることは、「その人に合った付き合い方をする」ということだけです。 「絶対に自分の意見を譲らない人」には、反論しないことです。「愚痴や悪口ばかり言っている人」は、適当にあしらっておけばよいのです。「自慢ばかりする人」は、調子よくおだてていい気にさせておきましょう。そして何より、付き合う必要のない人とは付き合わなければよいのです。 今、あなたに残された選択肢は何でしょう?。1)言い返すのを我慢する。2)対抗(対決)する。…こういう場合は第3の道もあるというのでなければ、誰でも困ってしまうのです。それがアサーションです。第3の方法が無いと思い込んでいると、ダブル・バインド状態に陥って動けなくなるのです。同じ「言い返さない」という選択肢であっても、「自分の意志で言い返さない」のと「言い返せない」と感じるのとでは、大きな違いがあります。責任を負えば自由になれます。
お礼
回答ありがとうございます。 >他人を喜ばせるもっともよい方法は、自分が相手との付き合いを楽しむことです。それだけで充分なのです。「相手も楽しむこと」まで要求するのは、ごう慢というものです。 他人の感情が自分の言動で左右される(=左右できる)と考えることは、自分の感情は他人の言動で左右される(左右できる)と考えることと同一です。それがまさしく依存であり、ごう慢な考え方でもあるのです。 目から鱗でした。非常に感銘を受けました。彼と別れてから、何事にも言動に責任を持たなければ、と強く感じるようにはなりました。 ですが、自分の感情にも責任を持つ、まで考えは至りませんでした。 今まで、相手が(親)が不快なのは私のせいだ、別れたのはもう私に飽きたからだ、とずっと感じていました。 ですが、相手の感情にまで責任を取る必要はなく、むしろ傲慢であり、コントロールしようとしている…確かにその通りだと思いました。 さらにもう一つ質問良いですか? 自分の感情は自分の責任ですが、例えば信用していた相手に裏切られた…などで落ち込んだり怒りの感情も、全て自己責任でなんとかしていくのが良いのでしょうか。
- sirosuketin
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一人で生きる。
- zippozoo
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do30bさん、 依存心の問題であるより、親御さんから暴力を振るわれてきた DV被害者であることをお考えになったことはありますか? 親を喜ばせよう、でないと否定される、暴力受ける、 の環境で育てられた背景は尋常ではありません。 親に依存した為に受けた家庭内暴力ではないですね。 暴力を平気で子供に犯してきた親から、心身共に抑制され 続けながら、今までやってきたという事実があります。 その結果、ストレスや恥辱、周囲にいつも判断されている のではないか、放棄されるのではないかなどの不安心を 抱かされているということだと思います。 彼氏さんの件も、今まで葛藤されてきた自信不足の為に、 心的に相手をはっきりと掴み難い課題をお持ちなだけです。 家庭内暴力の被害者だったというルーツを認められ、 小さい頃から、自分の罪が原因で暴力を振るわれて 来たのではない事をはっきりと自身に言い聞かせ、 人に依存しているより、親のお陰で、狼狽心や困惑に 陷り易い自分なだけだ、と心の調整を図られるのが まずは第一歩だとは思いますよ。 依存心がある、とご自分を刻印されないことですね。 この世で恋人達が別れる事はしょっちゅうです。 相手を気遣ったり、愛されているのかしら、 との自問などもこれ又多いこの世ですよ。 応援しております。
お礼
回答ありがとうございます。 今まで、虐待かもしれないけど昔のことだし、今掘り返しても私が全て悪かったことにされているし、と私自身親のことはあまり見て見ぬ振りをしてきました。 なので、今までは親の顔色を伺い生きてきた=親への依存 が、他者への依存になってしまったのか、と考えていたのですが、もしかしたら依存ではないのかもしれないです。 依存ではないけれども、過去に縛られているのは確かです。もう少し調べてみます。ありがとうございます。
- torokiti1
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私にも「依存」に関心がありますので考えてみたいと思います。 まず依存は、誰にでもあるのでは? 人は皆、経験のないところからスタートですよね。 その時は、誰かに教えてもらわなければ行動も思考もできないと考えます。 親は、その典型で親に依存がなければ生きることさえできないのでは。 学生であれば、先輩とか異性の人に依存しがちです。初めて見知る生活外の出来事が 多いのでしょうから。 社会人になっても、上司とか先輩とかに依存しています。または、器量が良い同僚にも。 でも、人にはいろいろのタイプの方がいます。 自身の信じる概念をもち、颯爽と行動する人など。 人に依存していることがなく、自分で行動する印象を持つ人だなあ、と思います。 差は何でしょうか? 自立心かなと思います。 成長の過程に依存があって、その段階を超えたら自立し逆に皆を引っ張っていく。 皆の依存を受けて、自立を促していくものかな。 考えますとあなたは、その狭間にいるのであろうと思います。 「依存」の意義を考えたことは、素敵な発見です。 負の依存心とお考えですが、人生、依存と自立の繰り返しではないのかな。 実は私、無駄に年を取っています。若い人の指導にもあたっています。 新卒の指導に、人生のピークを早い時期に持てるようしなさいって、言っています。 自立を促しているのです。
お礼
回答ありがとうございます。 確かに人は誰かに頼らないと、依存しないと生きていけないこともあります。 わからないことは誰かに頼らないとできないです。 ですが、私の依存はまた別のものだと思います。常に親の顔色を伺い、気に入られる行動をしています。でもそうしないと平和に生きていけなかった。 多分親もまた私に依存しているのかなと思います。
- blazin
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依存したくても「出来ない」 そう感じた時・・・ 貴方は自らの依存心との決別を図れる。 親への依存からの決別。 それは決別のようでただの「移動」だった。 貴方の言葉で言えば、 親から彼氏に移動しただけだ、と。 でも、 親なら受け止めてくれていた依存も、 他人の彼氏は受け止めてくれなかった。 親ほどはね? 親子は死ぬまで付いて回る。 でも、 彼氏彼女はそうじゃない。 彼は、 貴方とは「付き合いたかった」人。 でも、 依存心の強い貴方からは、 ただの「構われ」の方が強く感じられた。 付き合えば付き合う程ね? その結果、 貴方は彼から見て付き合うに足る存在では無い。 そういう判断を下された。 構う≠付き合う。 自分で自分とも付き合えていない貴方。 むしろ、 その作業を相手(他者)に預けて、 相手を自分の軸にして世界に向き合おうとしてしまう。 そんな貴方をこれ以上構えません。 彼は、 軸の無い貴方の同化政策を断った。 貴方はまだ、 彼氏に同化させたい(やり直したい) そう思っている。 でも、恐らく無理。 今の貴方ではね? 貴方の「魂胆」が見えるから。 復縁(やり直す)の意味は、 結局自分という軸を他者で賄いたいから。 1人が怖いから、 誰かに重ねる事で自分を守りたいから。 そういう貴方は、 彼から見て「付き合う」対象じゃない。 依存を直すよりも、 今の貴方の依存を丸ごと受け止めてくれる存在。 それってほぼ「いない」んだよ。 貴方はまだいると思っている。 親に依存し、スポイルされた時間が長い。 交際関係にも、 依存心を重ねて付き合ってしまった経験がある。 だからこそ、 まだ同じように出来ると思い込んでいる。 思い込んでいるからこそ、 まだ依存心が健在に働いている。 でもね、 恐らく今後貴方が依存出来る人は見つからない。 見つからない事は怖いよ。 最初はね? でも、 見つからない時間がしばらく続いた時・・・ 貴方はきっとこう考える。 ⇒自分は依存相手を探しているのか? そうでは無くて、 自分の足で立ち、 自分で自分という軸を作る事が大事なのではないのか? その当たり前の目線に立ち返れるんだよ。 その為には、 長年の歴史ゆえの依存相手探し(の名残り) そのアイドリングが少し続いてしまうのは仕方が無い。 それを続けても、続けても、 もう依存出来る相手なんていない。 貴方なりにソワソワ動いて、 それで見つからない(いない) 心からそう思えた時、 ようやく貴方は依存からの脱皮を図ろうとする。 それはもう少し先になるんだと思う。 今の貴方はまだ、 以前からの依存目線で世界を見ているから。 それはそれで良いじゃない? そういう自分としてどんどん消耗して、 そして依存心のダイエットを図るしかない。 今後貴方を都合良く甘えさせてくれる人なんていないから。 依存太りしたくても出来ない。 貴方はまだ、 出来るような「気がして」いるだけ。 ゆっくりと深呼吸を。 貴方は貴方のペースで、 自分自身の段階を上げていくしかない。 依存しない生き方って何なのか? それは、 依存しなくなった貴方が「感じる」事。 依存せず、 自分とも他者とも丁寧に「付き合える」ようになった時・・・ 貴方の世界は今より明るく 今より広がりを持って感じられるはずだから。 大切にしていけると良いよね☆
お礼
回答ありがとうございます。 すみません、回答は凄くありがたいのですが、人に依存したくないと思っているから、質問してみたのですが、これすらもはや依存なのでしょうか? 他に依存できる人を探しているつもりではなかったのですが…もう依存してしまってるんですかね?
- sukeken
- ベストアンサー率21% (1454/6647)
こんにちは。 >依存心が消えるとどうなるの? 楽になれます。 そして、本当の意味で自分の人生を歩めるようになります。 >想像できなくて恐怖すら感じます。 そうでしょうね。 今まで、人(他人、つまり依存の相手)の人生を歩んできたのですから。 自分の人生を歩む。きっと180度変わりますよ。 ワクワクしてください。
お礼
回答ありがとうございます。 本当の意味で…ぼんやりとしていますが、誰でもない自分自身が人生を作っていくのか、と考えると、楽しいような難しいような…そんな気がします。
お礼
回答ありがとうございます。 私にも原因は色々ありますが、彼に裏切られた…という印象がありました。 彼が私を信じてくれているから、私も彼を信じよう、と思いました。 でもこれは間違っていた気がします。 自分がどうしたいか、が根本的に抜け落ちていた気がします。 そして本音を話さなかった自分もいました。傷つきたくなかったからです。 ですが、何事も自分の責任で判断しなければなりませんね。 ありがとうございました。