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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:江戸幕府。小姓の採用基準。)

江戸幕府の小姓の採用基準とは?

このQ&Aのポイント
  • 江戸幕府の小姓は将軍に仕え、将軍を襲う可能性があるため厳しい選考が行われました。
  • 東照宮御実記には、旗本の身内から安心して選考できたことが示唆されています。
  • 江戸中後期では、学問の試験などはあったのか不明です。

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回答No.2

こんにちは。 >>「上申書」のようなものをネットで探しているのですが、見つかりません。 具体例を知りたいという私の勝手な願いですが、もし、ご存知でしたら教えてください。 ★確かにWebサイトを検索しても、それらしきものは見当たりませんね。 下記は、明治に入ってからの「お伺い書」(上申書)ですが、大概はこのような書き方だったと考えます。 日本海ニ在ル竹島松島之義ハ別紙甲号  之通去明治十年中本邦関係無之事  ニ伺定相成爾来然カ相心得居候処今  般島根県ヨリ別紙乙号之通申出候次  第ニヨレハ大倉組社員ノ者航到伐木候  趣ニ相聞候就テハ該島之義ニ付近頃朝  鮮国ト何歟談判約束等ニ相渉リタル義ニテモ  有之候哉一応致承知度、此段及御照  会候也 明治十四年十一月廿九日内務権大書記官西村捨三  外務書記官  御中 http://www.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/takeshima/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04_j.html ★公方さまへの上申(お伺い)書は、多くの場合、「人事案件」「刑罰案件」が多かったため、そうした史料は、多分に「徳川美術館」等には保存されているとは思いますが、現代で言うところの「個人情報」で、中々、一般人には公開しないのでしょうね。 ★逆に、答申書などは江戸の庶民、と言っても、例えば「町年寄」とか「学者」などが保存したり書き写したりしていますので、巷へも結構流出しているのだと思います。 ★次のサイトにも、上申書らしきものはあるようですが、何分、文字が小さかったり、断片的だったりして、私にも判読しかねます。 https://www.google.co.jp/search?q=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%80%80%E4%BC%BA%E3%81%84%E6%9B%B8&hl=ja&rlz=1T4SNJB_jaJP686JP686&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwisu6XD_KHMAhWBipQKHWlrD8EQsAQIPg&biw=1920&bih=876 >>どんな人が「選考」されたのか、また自薦か他薦か、これも疑問です。 ★99%の確率で「旗本」の家柄でした。 残りの1%は、御家人となりますが、何らかの「手づる」で幕府の役職者と関わりを持っていた者(家柄)です。 そして、旗本であっても御家人であっても、組頭の推薦が主でした。 まあ、そうなると、では組頭はどのようにして見つけたか? と、言うことになるのでしょうが、昨今でもそうですが、 「あそこの家の倅は優秀だ」 とか、 「あいつは中々の男前だ」 「あの家柄は・・・」 などの「噂」も原点にはあったと思います。 また、家人の働きかけもありました。 ★組頭にしても、自分の推薦した者が番方入りやお役に付けば、巡り巡って毎年々々盆暮れなどの「付け届け」も受け取ることができましたし、鼻高々で幅を利かすこともできました。 ★そうなると、「あの組頭に頼べば出世できる」などの噂もたち、推薦を願う家からの「賄賂」も増えたでしょう。 ★組頭は、推薦状を目付に提出し、後は、公方さままで達する。という仕組みです。 ★前回、旗本や御家人にも暗黙の序列がある。と述べましたが、どういうことか? これは、町割り図を見て下さい。同じ旗本(御家人)であっても、屋敷の広さが違うことを疑問に思ったことはありませんか?この広さの違いが、言ってみれば「暗黙の序列」なのです。当然、広い屋敷はそれなりの格式がある。序列が高い。と言うことです。 ★もちろん、これらの旗本や御家人の屋敷は幕府から貸し与えられた全て「官舎」です。 出世をすれば、当然、広い屋敷が与えられました。 ★御留守居役支配に「明屋敷番調役」という職があり、例えば、旗本同士や御家人などと喧嘩で相手を殺傷してしまった場合などは、お家断絶などになったりしますが、明屋敷番調役は、「〇月〇日までに退去するように」という書状(退去命令書)を作り、下役などに届けさせました。その後、「明屋敷番勘定役」(御留守居役支配下)が台帳に記載をし、「明屋敷番伊賀者」(御留守居役支配下)が空き屋敷を管理しました。 そして、出世などをした旗本や御家人に、それ相応の広さの屋敷への転居をさせました。 ★何せ、武士だけでも50万人といわれる街ですから、現代の東京を例にとっても、どこかで常に犯罪などが起きて、お家断絶、屋敷の明け渡し、などは日常茶飯事だったのです。 ★また、犯罪だけできなく、後継ぎが居ない・・・例えば、娘しか居らず、婿を決める前に死亡してしまった。などもお家断絶。屋敷の明け渡し、ということになるのです。 ★話を元に戻すと、そうした家柄の違いなどでも組頭の人選に影響したと考えます。 ★目付は、多々ある組頭からの推薦状を吟味し、おそらく「面接試験」などは無かったとは思いますが、家柄などを念頭に置いて人事を行いました。 ★組頭もただ単に「〇〇の者を推す」というだけの簡単な書面ではなく、「家柄」(場合によっては「家系」なども)「背丈」「学識」「容貌」などを細かく書く、従って、組頭の筆1本にかかっていたと言っても過言ではありませんでした。

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 的確なヒントを頂きましたので「幕府に推薦 組頭」をキーに検索しますと、氏家幹人著『小石川御家人物語』 (朝日新聞社)を紹介するサイトがヒットしました。 「小姓」の採用ではないですが、幕臣の採用や選考について事例をあげて説明されています。 Bungetsu 様のご回答のとおり「目付は、多々ある組頭からの推薦状を吟味し、おそらく面接試験などは無かったとは思いますが、家柄などを念頭に置いて人事」を行なっていますので、「組頭の筆1本にかかっていたと言っても過言ではありませんでした」の感じです。 確かに、「個人情報」ですから、「推薦状」がネットに流出したりすることはなく、探しても見つからないはずですね。 「科挙」ほどの全国規模の試験ではないですが、幕臣を対象とした「学問吟味」があったことは知っていましたが、この質問をしたことにより、江戸時代にも能力主義人事登用制度があったことを知りました。 江戸時代後半には、金次第で庶民でも御家人や旗本になれたのですから、庶民でも幕臣となって、この試験を受けることができた、ということになります。 この結論にも驚いています。 お蔭様で疑問は解消しました。 ご教示に感謝申し上げます。

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回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 まずは、あなたの「採用基準」らしきものから述べますと、 旗本の家柄、コネ、その他としては、性格、健康状態、体格、容貌、などが吟味されました。 ★何千人、何万人もいる旗本の中でも、ある程度、家格順がありました。 まあ、これは遡ること、あなたの言われる初期の頃の家康や秀忠時代からの戦功評価により暗黙の序列が存在しました。 ★コネ・・・ある程度の幕閣、あるいは、老中、若年寄、はたまた、町奉行、勘定奉行などからの「引き」(推薦)などもありました。 ★性格・・・やはり、温厚篤実・・・忠誠心の判断基準となりました。いわゆる、現代で言う「切れやすい」では務まらない。 ★健康状態、体格・・・小姓になれば、当然のことながら360日(旧暦では360日しかなかった)休日はありません。 朝は公方さまの起きる前に起きて、公方さまが起きられてからの身の周りの仕事をする。夜は夜で、公方さまが就寝されるまで付き添う、さらには、公方さまが就寝されても交代での見張り番(宿直)などなど、健康状態や体力がなくては務まりません。 例えば、中奥(公方さまのプライベート・ゾーン・大奥とは区切られている)での公方さまの生活を一部紹介すると、 朝・・・大奥で寝泊まりをされた場合は御中臈が担当しましたが、中奥の際には公方さまが、起床をすると、歯磨き、洗面、髭剃り、髪結い、食事の世話、着替えの手伝い、などなどです。当然、公方さまより先に起きて、それらの準備をする必要がありました。 寝過ごした・・・もってのほか! 昼・・・公方さまが昼食の際の世話、公務での上申書や人事案件な御用取次衆が読み上げる際は次の間での控え、公方さまが大名などとの面会には太刀持ちで控える、などなど。 夕方~夜・・・風呂から揚がると着替えの手伝い、(大奥以外の中奥での場合)夕食の世話、就寝された後も寝ずの番。 面白いところでは、公方さまが就寝後、夜中に厠(トイレ)に起きるたびに、枕を取り替える役目などもありました。 はっきり言って、360日、24時間、休むことはできませんでしたので、当然のことながら健康な体力のある者でなければ務まらない。 ひ弱そうでは務まらない。だからと言って、デブでも困る。 ★容貌・・・やはり諸大名などとの面会などで太刀持ちや控えとして、いわゆる「人前に出る仕事」もありましたから、容貌が貧相では「見栄えが良くない」。できるだけ、容姿端麗が望ましかった。 これらの選考は(面接らしきものは)、目付衆(定員10名)が行い、老中へ上申書が提出され、さらに、公方さまに上申され、公方さまの採決(公方さまは、実際には見てもいないし、面接や会ってもいないが)を経て決定されます。 なお、余談ですが大目付は大名を取り締まる役目です。 次に学問関係ですが、 ★武家の特に嫡男ともなると、もちろん、文武両道ではありましたが、五歳~七歳ぐらいまでは、手習いで文字を覚えさせられた。七歳からはいきなり「中庸(=四書のうちの「礼節」の部分)」の素読から始まる。中味の意味までは教えてもらえない。八歳ぐらいになると師のもとに通い、十歳までに「四書五経」の素読を覚える。まあ、その間には、聞きかじりで意味を理解するようになる。武術は、剣道と水泳であった。 ★武士の子息が十二歳になると、湯島聖堂附属の学問所で試験を受けた。出世を目指す者は特別試験の「素読吟味」にチャレンジし、さらには、「学問吟味」と呼ばれる国家試験があった。前者は年に1回。後者は3年に1度行われた。後者に合格すると「番入り」ができた。逆に、合格しないと、どんなに家柄が良くても家督相続さえ許可されなかった。けっこう、厳しい世界であった。 ★番入りとは、「小姓組」「書院番」「新番」「大番」などの武官の役職で、「番方」と呼ばれた。公方様の身の回りの世話や城中の警備と公方さまが出かけるときの警護役を主な仕事とした。「番方入り」は武士のエリートコースと呼ばれ、出世も早かった。 一方、「勘定方」「右筆」「納戸方」などは「役方」と呼ばれ文官であったので、生涯をその役目だけで過ごした者も多かった。 上記のように、学問は武家の跡継ぎになるには必須でしたので、これは当然クリアしていなければなりませんでした。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >旗本の家柄、コネ、その他としては、性格、健康状態、体格、容貌、などが吟味されました。 そうですね、容貌も大事な条件でしょうね。 世襲ではないという点が、他の職務の採用基準とは異なるように思いました。 >これらの選考は(面接らしきものは)、目付衆(定員10名)が行い、老中へ上申書が提出され、さらに、公方さまに上申され、公方さまの採決(公方さまは、実際には見てもいないし、面接や会ってもいないが)を経て決定されます。 「上申書」のようなものをネットで探しているのですが、見つかりません。 具体例を知りたいという私の勝手な願いですが、もし、ご存知でしたら教えてください。 歴史上に名を残した、小姓から出世した人(柳沢吉保、堀田正俊、間部詮房・詮之ほか)は経歴が分かるのですが、それよりも、名を残していないが、大多数を占めた普通の小姓に興味があります。 小姓の採用とか選考、言わば人材登用に興味があります。 上記の出世した人は、小姓になってからうまく立ち回ったというか、人の気を逸らさない話上手・聞き上手というか、そんなことで将軍のお気に入りになった感じです。 しかし、その後才覚を現して、時代に応じた行政手腕も発揮していますから、もともと優秀だったのでしょう。 bungetsu 様のご回答を読んで、いつものように次から次へと疑問が湧いてきます。 「これらの選考は(面接らしきものは)、目付衆(定員10名)が行い(後略)」ということですが、 どんな人が「選考」されたのか、また自薦か他薦か、これも疑問です。 大体の輪郭は分かりましたので、この疑問は独り言だと思ってください。 なんだかんだと屁理屈を並べて、素直に分かりましたと言わぬ質問者ですが、このことは、回答を熱心に読んでいる証拠だと思って、許してください。 >面白いところでは、公方さまが就寝後、夜中に厠に起きるたびに、枕を取り替える役目などもありました。 確かに面白いです。

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