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分一徳政令と徳政令についてです。
分一徳政令と徳政令についてです。 室町時代一揆が盛んに行われましたが、嘉吉の徳政一揆で幕府から公布された『徳政令』と享徳の徳政一揆で政府から公布された『分一徳政令』とではどう違うのでしょうか。 よろしくお願いします!
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★『嘉吉の徳政令』 嘉吉元年(1441)9月に、徳政一揆を収拾しようと、一揆勢の徳政要求を呑んで室町幕府が「徳政令」を発布したもの。 幕府は当初、一揆を起こした土民だけを対象とする限定的な徳政令を発布するつもりであったが、一揆勢は公家・武家をも含めた惣並徳政令の発布を強く要求してきた。 結局幕府は、全山城住民を対象とする徳政令を発布することになる。 それまで傍観していた人々も、相次いで土倉から質物を取り戻し、借書については、発布以前の日付のものは、すべて失効した。 ★『分一徳政令』 享徳の徳政一揆を受けた際には、徳政奉書申請者に対して、債務破棄を認める代わりに、債務額の1/10を幕府に納入させるという「徳政分一銭」の制度を導入した。 債務者だけに得をさせて、幕府自身は土倉と共倒れしてしまった「嘉吉の徳政令」への反省から、幕府は有償徳政令ともいうべきシステムを思い付いた。 「分一銭」の導入からちょうど1年後の康正元年(1455)10月、前年に徳政奉書を受領していながら、分一銭の滞納を続けている者が多数にのぼることが問題になり、幕府は徳政一分銭の制度改正を迫られることになる。 幕府は前年に発給した徳政奉書を一旦回収し、徳政分一銭の納入を済ませた者にのみ、その奉書に幕府政所の事実上の責任者であった伊勢貞親の裏判をそえて、これを再発給した。 この裏判を受けていない者の債務については、土倉がその債務額の1/5を幕府に納入すれば、一転して土倉の債権を保護する方針を取った。 幕府は分一銭を滞納した懲罰として、滞納者に対する分一銭の額を、債務額の1/10から1/5に引き上げることにした。 分一銭は債務者が債務破棄を求める場合にも、逆に債権者が債権保護を求める場合にも、ともに1/5の賦課率が適用されることになった。 債務復活の可能性を債務者にちらつかせることによって、分一銭の納入を徹底させようというねらいであったが、結果的にそれは、債務者が債務破棄を求めようが、債権者が債権保護を求めようが、どちらに転んでも同額の分一銭が懐に入るというメリットを幕府にもたらした訳で、幕府財政再建の工夫が成功した好例と言える。