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パリ占領(第二次大戦)

第二次大戦で、ドイツが東西ヨーロッパに進行しますが、オーストリアやオランダなどはともかく「格」としては大国のフランスがあっさり占領されたのは不思議な気がしますがなぜなんでしょうか?。ソ連は徹底抗戦したのに。

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  • eroero4649
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回答No.6

#3です。あの西方電撃戦は、決してラッキーパンチではないです。周到な罠でした。 元々、ドイツ軍はシュリーフェンプランに基づいて最右翼(フランス軍から見ると最左翼)からパリを狙う作戦でした。「第一次大戦でシュリーフェンプランは失敗したのに、また同じ手かよ」って思うところですが、当初の予定はそうだったのです。 ところが、その作戦計画書を乗せたドイツ軍の飛行機がベルギー領内で墜落しちゃったのです。ドイツ軍は真っ青になりました。これがフランス軍に拾われたら作戦計画がモロバレです。で、この案はもう使えないなとなったんです。 このとき、マンシュタイン将軍がアルデンヌの森に装甲部隊を突破させるって作戦を提案したのです。アルデンヌ地方は山と森林が続く地域で、戦車部隊が通るのは「最も向かない地形」だったのです。狭い通路の出口を抑えられたら後ろは渋滞しますでしょ?実際問題、「あのアルデンヌの栄光再び」を狙って行われたバルジ大作戦では後方で渋滞が起きて突破に失敗しています。 「軍事の常識として下の下策だから敵も油断しているはず。だから裏をかける」とマンシュタイン将軍はドイツ装甲部隊の父であるグデリアン将軍に提案したのです。グデリアン将軍は「マジ超クールじゃん!総統閣下に話してみるよ!」となってヒトラーに直接提案。ヒトラーは「マジ超クール!」と目を輝かせたのです。でも常識的には「ありえない」のです。羽生善治棋士がプロ棋士でも理解できない超絶な手を打つのに似ていますね。一見素人の破れかぶれの一手のように見えて、よくよく考えるとすごい伏線が張られていた一手だった、というやつです。 あとね、あんまドイツ軍人をdisらないほうがいいと思いますよ。我が軍も香水をウィスキーだと思って飲んじゃったり、水洗トイレでジャガイモを洗ったりしていましたからね。兵隊さんの手記を読んでも、夜襲に行った兵士が戦利品としてタバコを奪ってきて、アメリカのタバコはうまいからみんな大喜びだったなんて話がちょいちょいありますからね。

MONKEYMONKEY
質問者

お礼

ありがとうございます。裏の裏を読んで、意外とど真ん中のストレートで見送り三振と言ったところでしょうか?。 羽生善治も研究する升田幸三は様々な奇襲作戦をやったらしい。その分惨敗も多かった。戦争もそんなセンスが必要とされるのかも。 ディスるつもりもなく、お互い、時には、優秀だったり、おろかだったりするものだと思っております。

その他の回答 (6)

  • jkpawapuro
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回答No.7

無用の長物とおっしゃいますが、マジノ線は強力な要塞ですよ。 あんな要塞築かれたら絶対に陸軍の力じゃ抜けません。 分厚いコンクリートで掩蔽されてて空爆も通じないでしょうからありゃ鉄壁です。 問題は要塞線なんだから穴を作るな、ちゃんと国境全部つなげってところが間抜けなだけです。 1、ベルギーオランダを覆う要塞線を建設 2、ベルギーオランダを見捨ててフランス国境に要塞線を建設 3、要塞線に穴を開ける以上対戦車戦術を研究しドイツの第一撃で抜かれないよう守りを固める。 相手の侵攻路は本当に狭い要塞線の穴に限られてるんだから、ちゃんとそこを守ればよかっただけの話で、いくら森林地帯とはいえ国境をがら空きにしたフランスの手落ちとしかいいようがないですよ。後世になってマジノ線は金ばっかかかって他の部署が近代化できなかったとか要塞兵が游兵化したとかいわれますが、じゃあ要塞線なしに独仏の広い国境をフランス軍が守れたかってなるとどう考えても不可能です。

MONKEYMONKEY
質問者

お礼

ありがとうございます。わかりました。マジノ線のクォリティに疑問はありません。うちの近所にもありますよ。オートロックなんだけど、うらの駐車場側からは普通に外から入れるマンション。そういう感じかもしれません。

回答No.5

そりゃ ヒトラーの作戦勝ちだからです ヒトラーはポーランドに侵攻したとき フランスには手を出さないと言う嘘の約束をします フランスが油断したところに電撃作戦で一気にパリを占領しました だからフランスは抵抗する暇がなく敗れたのです ソ連はヨーロッパの端ですし独ソ不可侵条約を結んでたので ほかの国がドイツと戦ってる間に軍事力と戦闘態勢を整える事ができたのです

MONKEYMONKEY
質問者

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ありがとうございます。不可侵やぶりはズデーテン地方から常套手段でヒットラーの作戦というか約束破りを「へとも思ってない」のでしょうね。他国はそれをわかってても戦争したくない(選挙で反戦をうたってる)ので、ヒットラーにいくらでも足元を見られる。

  • ithi
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回答No.4

MONKEYMONKEY さん、こんにちは。 確かにヨーロッパ有数の軍事大国であるフランスですが、第一次大戦の時の膨大な損害に懲り、ドイツの国境を要塞で囲むことにしたのです。これがマジノ線です。 対ドイツ戦がこんなに短期で終了したのはフランスがマジノ線という要塞をかなり過信していたということでしょう。加えて英軍が派遣されていました。 しかし、マジノ線の死角といわれるアルデンヌの森を戦車部隊に突破されたため、1週間もたたずに敗北するという憂き目を見ます。つまり、反撃する隙を与えないドイツ得意の電撃戦の結果だと思います。 また、徹底抗戦するというけどそれには時間がいります。それには広大な領土や堅固は要塞がないと時間稼ぎができません。マジノ線が不備なうえ国土の狭いフランスとは比べられないほど広大な領土を持つソ連とは比較にならないです。 下記のURLを参照ください。 第二次大戦 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6 マジノ線 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B8%E3%83%8E%E7%B7%9A

MONKEYMONKEY
質問者

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ありがとうございます。 最近、福井県でシカの大量発生に石川県が県境に長さ50kmの防シカのフェンスを計画したそうです。 現代版マジノ線です。

  • eroero4649
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回答No.3

話は第一次大戦に遡ります。ご存知かと思いますが、第一次大戦というのは塹壕戦になった戦争でした。第一次大戦の戦訓は、「コンクリートと機関銃で守られた陣地を砲兵と歩兵で攻略するのは不可能」というものでした。防御側が無敵状態になったのです。ソンムの戦いではたった1日で攻撃側のイギリス軍は7万6千もの死傷者を出しました。たった1日ですよ。しかも「攻撃を焦って充分な準備をしないまま攻撃した」とかではなく、充分な砲兵を用意して周到に砲撃をしていたにも関わらずなのです。 「絶対に陣地は抜けない」に対してどう対処するかが第一次大戦後の各国の最重要テーマとなりました。これに対してフランス軍が出した答えが「マジノ線」でした。とにかく仏独国境は重厚で周到な陣地を用意しておくこと。これでどれだけドイツ軍が大兵力を整えても砲兵を用意しても絶対不敗の状況を作ろうとしました。 仏独の直接国境地帯はそれで安心でしたが、不安なのがベルギーとの国境地帯でした。ベルギーとオランダはほぼまっ平らで防御に向きません。実際、ドイツ軍はシュリーフェンプランとというオランダとベルギーを通ってパリへとアプローチする戦略をとっていました。基本的にドイツ軍の対仏戦略はこのシュリーフェンプランを踏襲していました。 このシュリーフェンプランへの対処法としてフランス軍が考えたのが、「じゃ、こっちから先にベルギーに攻め入ってなるべく向こうでドイツ軍を迎え撃つ」でした。これはベルギーやオランダの事情は抜きにして、フランスの考え方として間違っていません。直接国境地帯はマジノ線で迎え撃ち、シュリーフェンプランにはベルギー侵攻戦略で迎え撃つ。バッチリです。 そしてこの迎え撃ちのための部隊編成は「火力重視」でした。第一次大戦で「やっぱ戦争って火力がモノをいうよね。機動力?陣地戦に機動力なんか無用の長物だろ!」と学んだのです。そしてイギリス軍が使った戦車に対しては「威力はあるみたいだけど、故障も多くてたいして使い物にならない」と思ったのです。これは自分が敵側となってその威力を直接ぶつけられたドイツ軍と、味方が使っているのを横目で見ていたフランス軍との見解の相違が出たんですね。実際、第一次大戦の戦車ってそんなに決定的な役割はしていませんでした。あれの開発にはチャーチルが関わったので、あの宣伝上手のチャーチル卿によって過大に宣伝されてるのです。実際にはかなり故障が多くて稼働率も低いものでした。 なので、戦車の主任務は「歩兵の攻撃を火力面でサポートする」「敵の拠点を潰す」という役割でした。シャールB1という戦車がありますが、重装甲、重火力なのは歩兵の盾となって敵の拠点を火力で潰すためなのです。歩兵のサポートだから、機動力は不要ですよね。 そして仏独戦が始まると、フランスは予定通りにその機動部隊をベルギー方面へと進出させました。対シュリーフェンプランの青写真通りです。 ところが、これに対してドイツ軍が取った作戦が「アルデンヌの森を抜けて英仏海峡まで一気に突破する」だったのです。フランス軍が(フランス軍側から見て)左翼から起動し、ドイツ軍もまた同じように左翼から突破を図ります。こういう風に回転軸が回ってしまうのを「回転ドア効果」というのですが、この回転ドア効果がばっちりハマってしまったのですね。 ゲームではどこに敵の部隊がどのくらいいるかは分かりますが、実際の戦場ではそういうものは一切分かりません。そのうえ、こういうときは誤情報も流れて錯綜して混乱します。「あっちにドイツ軍が出た」「こっちをドイツ軍に占領された」「どこどこの部隊と連絡がとれない」なんて情報がわーっと出てきたのです。これでフランス軍司令部は大混乱になりました。司令部が大混乱なんだから現場となったらもっとひどい。「どうなってるんだ!」「それが司令部とさっぱり連絡がつかないのです」なんてやっているうちに文字通りに各個撃破されていったわけです。ある日出社したら会社が潰れたらしいという噂が流れて本社と連絡しても誰とも連絡がつかない。そうなったらどうなるかといったら、会社の備品でも持ち逃げしようというような気分になりますよね。そして誰かが「もう会社は破産だ。退職金代わりに俺はこれをもらっていくぞ」なんてなったらもうあとは我も我もとなるでしょう。 フランス軍の機動部隊はまだベルギー領内に健在でしたが、その機動部隊とパリとの間にドイツ軍が入っており、パリを守る兵力はもうなかったのです。つまり、ドイツ軍とパリとの間には無人の原野が広がるだけだったのです。慌てて進路を戻しても、後続の歩兵部隊に足止めされているうちにパリはドイツの装甲師団に占領されることでしょう。 これで、フランス軍の誰もが「オワタオワタオワタ・・・」と心が折れてしまったのです。相手の心が折れてしまったら、もう勝負ありです。電撃戦というのは、その名前の通りに相手の脳に電撃を与えて、「体力がいくら残っても、脳が動かなくなったら終わりだよね」というのを狙った作戦なんです。それが対仏戦では「かいしんのいちげき」になったということなのですね。更にいえば、属性の相性もバッチリだったのです。

MONKEYMONKEY
質問者

お礼

ありがとうございます。ソンムの戦いは悲惨ですね。日露戦の「二百三高地」もそういう戦況でした。 戦車における敵味方の過少・過大評価は面白いですね。冷戦時の「ミグ25」もそういう感じで西側は「万能のモンスター戦闘機」と恐れていたが、函館に亡命で着陸した本機をしらべたら時代遅れの真空管を使ってるなど大分買いかぶってた事がわかったらしい。 マジノ線は発想としては万里の長城とかわらない。正に無用の「長」物。 回転ドアも面白いですが、それはドイツ側だって狙って出来たわけじゃないですよね。ラッキーカウンターパンチといいますか。「勢い」がよければスピードは力なりですね。それとも高確率で勝算があったのでしょうかね。ヒットラーはパリ見学をしたらしいが、ベルリンよりパリが都会ですから、なんとなく長州藩が京都を占領した感じに似てますね。 田舎者(?)のドイツ人がフランスから高級ワインを持ち帰りよく分からずに飲んでいたという。

  • staratras
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回答No.2

もちろんフランス軍もまったく抵抗しなかったわけではありません。ただ戦車などを効果的に使用したドイツ軍の電撃的な侵攻にうまく対応できなかったのです。 第1次世界大戦の苦い教訓から、フランスはドイツに対する警戒をしていましたが、その中心はドイツとの国境付近に要塞を設置し、長大な防衛線(マジノ線)を構築して侵攻に備えるというものでした。その「マジノ線」は難攻不落だとされていましたが、実際に戦争が始まると、ドイツ軍はこのマジノ線を迂回して、ベルギーのアルデンヌの森と呼ばれる森林地帯を通ってフランスに攻め込んできました。ベルギーとの国境付近では防衛線は開戦時には作られておらず、開線後の構築は間に合いませんでした。フランス軍はこのアルデンヌの森について、自然の要害で戦車や重砲は通行できないと考えていたのですが、そうではありませんでした。 パリに限って言えば、フランス政府が「無防備都市」を宣言し、ドイツ軍は無血占領しました。 ヨーロッパの地図を見れば明らかですが、ドイツ領土(国境)からパリとモスクワとでは距離が大きく異なり、後者は前者の約4倍もあります。ベルリンからモスクワまでは直線(大圏)距離で約1600キロあり、これは東京と那覇との距離よりわずかに大きいことになります。さすがのドイツ軍もこの東部戦線では電撃戦で一気にモスクワを陥落させることはできませんでした。モスクワの近郊にまで迫ったものの、赤軍の抵抗だけでなく早い冬の訪れ(降雪・泥濘)もあって進撃の停止を余儀なくされました。その後は持久戦からやがて潮目が変わって押し返されていきます。

MONKEYMONKEY
質問者

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ありがとうございます。なるほど。「ベルギー越し」というところが実に重要だったのですね。 正に「潮目が変わる」とはこの事で、フランス占領までのドイツは何もかもが「大成功」でした。とりわけ経済繁栄ときたら史上空前の急繁栄となりました。ファシズムなしに全国民がナチスを支持したわけですから。 対ソ戦も「不可侵条約」が功を奏しソ連の軍備がシベリアに集中していた不意をついたし。冬が早く到来し「ゾルゲ」による日本の対ソ連参戦はないという早期レポートが効いたみたいですね。 後は真珠湾ですがこれがアメリカ国民の反戦意識を変えたようですが(綺麗事なしにも投資先・市場としてドイツが商売上最重要で戦争して失いたくなかった)、日本は「真珠湾攻撃」つまりあえてアメリカの逆鱗にふれずに南進する「ベルギー越し」並みにクレバーな作戦はありえなかったのでしょうかね?。仮にドイツがソ連を予定通り「全滅」させ、真珠湾も行われず反戦機運にノルマンディ上陸が遅れた場合、下手したらドイツが欧州の覇者となって終戦という結末もありえたでしょうか?。またユダヤ人ホロコーストというのもやらずに、むしろ「戦争協力」させたらV2ロケットや原子爆弾も実現出来たかも。 それくらいヒットラーの前半の「潮目」は天才的で幸運でした。

  • tzd78886
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回答No.1

ソ連は一党独裁の共産主義の国ですから、決定や行動は素早いです。民主主義の国では簡単にはいきません。どの方向に舵を取る場合でもこの点で見ればかないません。

MONKEYMONKEY
質問者

お礼

ありがとうございます。 米英も国民の「反戦」機運にある意味「手を焼いた」ようですよね。真珠湾でようやく「日本に報復を!」となりフォード社などが軍事工場を作り始めたようです。 フランスもしかりですね。

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