われら日本人は 日本語を知らなさすぎるのではないか
われら日本人が 外国語をその母語のいわゆる教養ある話し手と同じくらいに習得したという事例(人数)が少ないと思われるのは われわれの母語たる日本語についてよく知らないことから来るのではないか?
これが 問いです。
知っていれば外国語を覚えるのにも役に立つような文法を知らない。
動詞の活用がどのようにして成り立っているのか。これが あいまいである。または ほとんど知らない。
終止形とは どういう法( mood )なのか。つまり 話し手のどういう気分や意志で言い出されている活用形なのか。これを知らない。文がその形で終わるから 終止形だというのみ。
ならば 命令形だって 文を終始させているのではないか。
そしてこの場合は はっきりと《主観の要望〔としての命令〕》の気分(= mood :つまり命令法)で言っている〔から 命令法に活用したと言う〕。
未然形が 不定詞に当てはまる不定法( infinitive mood )だと知れば ただちに世界標準に立てる。《未だ然らざるかたちにその動詞を置く気分》というのは まだその活用を決めていない(定まらず)のだから 不定法なのである。
そのあと 行か(不定法)-ない(否定法)( do not go ) だとか 行か-む(意志法( will go);推量法) あるいは 行か-ば(仮定条件法)( if he go, ) だとかに活用するのだ。
文法だけに限らないであろうが たぶんこのような視点(それが おそらく哲学)としてのグローバル化が必要なのではないか。
そうすれば われら日本人は ふつうにまじめでそれなりに優秀なのだから うんとほかの言葉の習得は早いはずだ。
と ふと思ったので問うてみます。どんなもんでしょう。
(かのエズラ・フォーゲルが 今朝の日経に日本人は英語が下手だと書いていたのを読んででした)。
お礼
重ねまして、リンクを有難うございました。 大学生の小論文かな、と思いながら読みました。 「て形」の重要度がよくわかりました。 従って「た形」が先という事はあり得ないという事もわかりました。 しかし「ない形」は「辞書形」の後でもいいのでは、 と未だに思うのですが、どうでしょうか。 「ない形」の「なくてもいいです」はともかく 「なければなりません」の使用頻度は決して高いように思えませんので・・・。
補足
早速にどうもありがとうございます。 小論文のようなので、後ほどじっくり読もうと思います。 読みましたら、お礼欄にまたコメントさせていただきます。