こんにちは。
#3です。回答をお読み頂きありがとうございます。
>ruehas様の説明によりますと、理性を失うということは感情に流され、それにともなう行動は認識されないという解釈でよろしいでしょうか?
う~ん、そうですね、そういうことなんですが、ほんのちょっと違うかも知れません。説明が下手糞でたいへん申し訳ないことです。
感情行動は認識があとだと申し上げました。これがどういうことかと言いますと、例えば、自分が何かに腹を立てて怒り出したとします。理性的な行動であるならば、状況を判断し、自分にとって有利な結果を予測した上で、怒るという行動を選択します。でも、そんな器用なひとはいませんよね。たいがいの場合、気が付いたときには怒っています。
どうして怒り出したのかは分らないのですが、怒り出したことによって、自分が現在怒っているという状態は認識できるようになります。つまり、感情行動というのは、行動が実行されたあとで、もしくは実行されることによって初めて自分に認識されるものなんです。ですから、行動よりも判断・認識の方があとになるんですね。やや乱暴な言い方ですが、記憶もあとになります。
そのとき、怒っているという状況は認識できますから、それは記憶には残るはずです。でも、あのとき自分はあんなことを言われたからカチンとなって怒り出したんだ、などといったものは、冷静になったあとで作られた筋書きで、そのときの記憶ではありません、というようなことを説明しようと思ったのですが、どんなもんでしょうか。
記憶に残らないと言うならば、どうして残らないのか、何と言っても、これが質問者さんのご質問の主旨ですよね。これに就いて、もう一度説明のチャンスを下さい。
感情的な行動に走ったとき、頭に血が上っているので、自分が何を言ったか、何をしたのか記憶に定かでないというのは経験的にも理解できますよね。
質問者さんの仰る「認識されない」というのはズバリその通りだと思います。
記憶に残るということは、まず、その行動や状況が意識に上らなければなりません。「意識に上る」というのは、感覚器官が捉えた情報が大脳の高次器官に送られるということです。つまり、感覚器官が受け取った情報が判断や認知を司る部分に投射され、それが認識されなければ、実行しても体験しても記憶には残らないということです。
感情的な行動というのは、認識があとです。あとでも、意識に上れば記憶に残せます。ですが、意識されずにそのままになってしまう行動や情動は日常生活の中で幾らでもあります。朝、起きてから寝るまでの行動に全て理由があり、それを端から憶えているひとはいませんよね。感情的な行動には計画性がありませんから、事前に理由も決まっていません。何と言っても頭に血が上って行動が優先なのですから、意識に上る暇もなく、そのままになってしまうものがたくさんあるはずです。ですから、その一連の記憶は統一性もなく、穴だらけということになります。感情が先行して注意力が低下しているのも、意識に上らない大きな理由ですね。
我々の記憶は、漠然とした状態よりも、理路整然としたものの方が憶えやすく、思い出しやすい、これは、当たり前のことですが、このような記憶を「陳述記憶」と言います。つまり、論理的で、言葉で言い表せる記憶ですね。それに対して、漠然とした状況や情景など、視覚や聴覚などを再現しなければならないものを「非陳述記憶」と言います。
自分はそのとき、何回「バカヤロー」と言ったのか。
例えば「A」と言われたのでバカヤローと言い返した。そのあと、「B」なんて言うものだから更に「バカヤロー」と返してやった。「C」と言われたときには我慢ができなかった。
このような理由が記憶に残っているのあれば、自分はあのとき3回バカヤローと言った、と論理的に陳述することができます。ですけど、感情行動には「理由」というものが予め決まっていませんから、その部分が記憶の穴になっています。ですから、あやふやな記憶、思い出しづらい記憶ということになるのではないでしょうか。
>また、所謂生殖行為というものは本能行動の部類に入りますが、これも理性を失う行動の一つであるとすれば、その感情というのはどのようなものなのでしょうか?
その感情とは「欲求」だと思います。
本能というのは反応の集まりに過ぎませんから、そこに感情はありません。感情とは、本能の反応が欲求として具体化されたものです。
どうなる分りませんが、取り敢えず、行動というものを段階的に分けてみます。
反射
本能行動
感情行動
理性行動
反射というのは、入力と出力が一対一の単純な反応です。反射神経なんて言葉がありますが、例えば目の前に野球のボールが飛んで来たので避けた、というのは、もう少し高度な反応で、どちらかと言えば感情行動に入るようです。せいぜい、思わず目を瞑った、といったようなところまでが反射ではないでしょうか。
このこのような単純な反応が複数集まって、目的を持った行動に組み立てられているのが本能行動ですね。この時点では、まだ感情というものは発生していません。感情が発生するためには、本能の判断や行動が意識に上り、大脳で認識されなければなりません。
例えば、空腹を判断するのは本能です。ですが、その反応が意識に上り、認識されなければ感情は発生しません。空腹を感知する神経が信号を送り、それが大脳で認識されたとき、初めて「お腹が空いた」という意識が生まれます。フロイトは、これを「深層意識からの呼び掛け」と言っていました。上手いことを言うものですね。
この呼び掛けによって欲求というものが具体的になります。つまり、お腹が空いたという認識によって、何か食べたいという具体的な欲求が発生します。この欲求を実現するために行動が選択されます。このような本能からの呼び掛けに伴う心の動きが感情ではないでしょうか。そして、それがそのまま実行に移されるのが感情行動であり、事前に判断の下されるものが理性行動ということになります。
感情行動も、理性行動も、発生した欲求を実現するためのものであることに変わりはありません。ですから、理性というのは、必ずしも行動を抑制するためのものではありません。人間にとって理性とは、本能や感情が示す欲求を効率良く実現するためのものなんですね。
本能の反応を抑制することはできませんから、それが意識に上るならば感情という心の動きは必ず発生してしまいます。理性と感情が拮抗するのはここからではないでしょうか。認識されなければ、理性はそれと戦うことはできませんよね。感情というのは本能が認識されたものです。従って、理性を失うというのは、本能に抵抗できなかったということではなく、やはり、それによって産み出された感情が先行した、ということになるのだと思います。
そして、ということであるならば、逆に言えば、本能がそのまま実現されるのではなく、ひとたび感情というものに変換されるのであるならば、理性はそれを抑制することも可能ということになります。
本能が感情に変換されるのは、人間の大脳が発達しているからだと思います。ですが、必ずしもそうでなく、人間も動物ですから、本能行動が先に実現してしまう場合は幾らでもありますよね。
視覚的に性的な刺激を受けた場合、ぶっちゃけた話、男性が女性の裸を見たときです、その信号は偏桃体を通して即座に視床下部に送られます。視床下部は全身の自律神経を司る部位で、それにより、自律神経が活性化し、性ホルモンが分泌されます。成人男性の場合、精子が製造されていれば勃起します。本能行動というのはこのようなものですよね。咄嗟に両手で股間を隠すことはできても、その進行を抑制することはできません。
ですが、その先の行動選択には感情というものが介入してきます。誰だって、ここまで事態が進行すれば感情が発生しますよね。ですから、理性的な判断がある限り、そこで間違えを犯さずに済むのだと思います。
良く、「痴漢は男性の本能だ」などと言いますが、あれはウソですよね。
魅力的な女性を目の当たりにして性衝動が起こるのは、これは当たり前のことです。ですが、あと10センチ伸ばせばお尻に手が届くなんてのは、明らかに計画性を持った理性的な行動選択です。感情の抑制が効かなかったなんていう言い訳の通用しない確信犯です。
確かに、理性的な判断に混じって、何処かで幾つかの感情的判断が優先しているのでしょう。但しこの場合、理性は明らかに感情と共に発生した欲求を効率良く実現するために強かに働いています。
そう言えば、確信犯で思い付きましたが、バレなければ良い、なんてのも理性を失う大きな要素ですよね。
余計な話でした。
お礼
ではアルコールで酔いすぎて記憶がないという人は大脳新皮質の働きが低下しすぎたために起こる現象なのですね。 わかりやすい説明をありがとうございました。