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オーストリアによるセルビアへの宣戦布告理由
- オーストリアによるセルビアへの宣戦布告理由とは?
- セルビアへの宣戦布告の背景となる事件とは?
- オーストリアがセルビアに宣戦布告をした背景と、この戦争の意義について
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質問者が選んだベストアンサー
まず国内状況として、東はロシア、北はドイツ、西はイタリアに囲まれて南(バルカン半島)しか行き場がなかったという大前提があります。だったらあんなヘタに触ると大火傷しそうなところに手を出さないで領土を無理に広げないで国内の立て直しを図ればいいといいたいところですが、歴史上それで上手くいった例なんてほとんどないんですね。結局、領土を広げないとじり貧になることは変わりがないのです。 質問者さんもご存知なように、オーストリア・ハンガリー帝国そのものが国内に民族問題を多く抱えていて帝国が解体する危険をはらんでいました。こういう状態のときに外に敵を作って国内を一致団結させるようにするのは政治の古典的常道です。失敗しちゃった例がおトナリのパククネさんですが、成功した例もあって、それが日本の小泉純一郎氏です。中国、韓国との関係を(意図的に)悪化させて、格差社会に飲み込まれて不満を持つ層を嫌中・嫌韓に持ち込むことに成功し、自身への支持率が揺らぐことはありませんでした。 ボスニア・ヘルツェゴビナを帝国に編入している時点で、「次はセルビア」という野望を隠しもしていなかったのですよ。逆にいうとサラエボ事件は開戦のための絶好の口実となったといってもいいと思います。実際にオーストリア・ハンガリーはセルビアに10ヶ条からなる最後通牒を突きつけ、イギリスの外務大臣をして「こんな恐ろしい文書はねェぜ」と絶句させたほどの厳しいものでしたが、セルビア政府は2ヶ条だけを除いて受け入れを表明したにも関わらず宣戦布告に踏み切っています。 それでもオーストリア・ハンガリーがセルビアに攻め込んだとき、ヨーロッパ諸国の首脳は誰もが「戦争は1ヶ月もありゃ終わるだろ」と楽観的でした。あんな大戦争になるとは誰も想像もしていなかったのです。 なんであんなことになっちゃったのかというと、対セルビア戦のために皇帝や政府は軍は部分動員にすべきだろうと思ったのですが、軍部はもし途中で総動員となったら混乱するという理由で総動員を主張(実際、中途半端な動員だと混乱した可能性があったと思います)。それでオーストリア・ハンガリーが総動員すると対抗上ロシアも総動員を発令。ロシアが総動員したのでドイツも総動員を発令。 ここで話がややこしくなるのは、ドイツは国家戦略としてもしロシアと戦争をするなら先にフランスを攻めて返す刀でロシアをやっつけるということを決めていたことです。事前にそうする計画だったので、律儀なドイツ人としては計画通りに対仏宣戦布告。そこまできたらイギリスも参戦、と教科書通りのドミノ倒しで世界大戦となったのです。 オーストリア・ハンガリーとしては、フランスやイギリスとは国境を接しておらず、仮にアドリア海からやってくるとしても大軍を上陸させることは不可能ですから、仮にフランスやイギリスが介入したとしても大きな影響を英仏両国は与えられないと踏んだのではないかと思います
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- zep19
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まず当時のオーストリア・ハンガリー帝国において外交問題等重要議題を決定する最高機関は共通閣僚会議でした 共通閣僚会議出席者は帝国の共通外相、共通国防相、共通蔵相とオーストリア、ハンガリー双方の首相、国防相、蔵相でした 共通宰相は存在しないため、イニシアチブを握る会議議長は共通外相が務めました オーストリア・ハンガリー帝国での歴代共通外相は基本的にドイツとの同盟を基軸にしますが ハンガリー系のアンドラーシやポーランド系のゴルコウスキは親英反露 ドイツ系のエーレンタールは親露的な政策を取りました 1906年に共通外相に就任したエーレンタールは占領下にあったボスニアを併合しようとします ボスニアを併合し帝国内のクロアチア、スロヴェニア、ダルマチアと統合し オーストリア、ハンガリーに次ぐ南スラブ地域を構成し三重制を確立しようとしました そしてその併合案を墺露中立条約を締結していたロシアに打診します ロシアが容認したと勘違いし併合を強行したところ、ロシアが激怒 しかしながら英仏はロシアを支持せず これを帝国は外交的勝利と見なしました しかし国内的にボスニア併合はオーストリア、ハンガリー双方が自国への帰属を拒否 やむなく共通蔵相直轄領となり、そこに駐屯していた第16軍団も共通国防相から共通蔵相の配下に編入される事態となりました エーレンタールに次いで外相になったベルヒトルトも国際協調路線を踏襲します 第一次バルカン戦争後、帝国が独立させようとしたアルバニア北部スクタリをモンテネグロが占領したため ベルヒトルトはロンドンで六大国大使会議を開催させ、ロシアを除く英独仏墺伊連合艦隊を結成しモンテネグロに圧力をかけますが なかなかモンテネグロが応ぜず 好戦的な帝国共通軍参謀長コンラートが対モンテネグロ討伐を主張するのを抑えつつ ベルヒトルトが他の四か国に大規模な上陸による牽制を主張するも反対され、しかも大事にしたくないドイツにもつれない態度を取られたため ベルヒトルトはこれ以降、国際協調路線より好戦的なコンラートに接近 10月危機でアルバニア領内にいるセルビア軍に撤退を求め強硬な最後通牒を行い、これはセルビアが受諾したものの サラエボ事件で大いに帝国の威信を失墜 開戦へと向かったのです 当初は対セルビア限定の戦争で終わると予想していたようです
- ithi
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1w3r5ymさん、こんにちは。 それはオーストリア自体の問題も抱えていました。当時、オーストリアはハンガリーとの2重帝国体制でした。そして、多くの他民族を抱えていました。言葉もばらばらだったようです。軍隊では将校はドイツ語以外に命令をかけることを覚えなければならなかったようです。こうした他民族君主国家を支えるため、皇帝を中心とした国家的威信が必要でした。つまり重しです。だけど、皇太子が殺された後、その質素な葬式に国民の怒りはセルビアに向けられ、戦争へと向かっていったのです。もし、これが皇帝自身に向けられたら、大規模な暴動が起き、革命が起きる可能性もありました。皇帝個人は皇太子の結婚問題で快く思っていませんでした。 利益が少ない割に周囲を巻き込みすぎたと思います。そもそももしバルカンを攻撃したら必然的にパンスラヴ主義をかかげるロシアとも対立、三国協商があるので芋ずる式に英仏との開戦の可能性もみえますし、いくら三国同盟があるとはいえ当時のオーストリアに最悪の状況である対露仏英戦争に勝てる力はなかったと思います。 実は対ロシア対策というそのためにドイツと同盟を結んでいました。この当時、世界最強をうたわれたドイツ陸軍を味方につけたのです。 ただ、これは誤算があり、ドイツはドイツでジレンマがありました。西にフランス、東にロシアという2正面作戦を強いられたのです。解決策として出たのはベルギー国境を抜けるというシェリーフェン計画です。このためにイギリスとも戦争する羽目になりました。 オーストリア=ハンガリー2重帝国 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%EF%BC%9D%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%B8%9D%E5%9B%BD#.E3.82.B5.E3.83.A9.E3.82.A8.E3.83.B4.E3.82.A9.E4.BA.8B.E4.BB.B6
- jkpawapuro
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うーんまず当時のオーストリアの事情としてそもそも平穏では無いですよね。 セルビアは戦勝で国土を拡大し、国内ではスラブ民族に独立運動や反乱の可能性あり、それをセルビアとロシアが後ろで後押しする。 この状況で皇太子が殺害されたのを手をこまねいて見ていたらどうなりますか? スラブ系の独立運動はどんどん勢いを増しついには内乱に発展、他の民族もいっせいに動き出し帝国瓦解は目に見えてます。オーストリアとしては報復戦争にでるよりほかに選択肢は無いでしょう。 戦争の目的も別にセルビアを併合することではないですよね、スラブ系民族の勢いを断ちオーストリアの優位を見せることが大事なので、セルビア軍に電撃的に打撃を与え優位な講和をすればそれで目的は達成できます。 ただオーストリアよりドイツのほうがはるかに近代的で動きが早かったんですよね。一瞬で総動員体制をとり即座にロシアフランスに宣戦布告します。この辺の動きが正直読みが甘かったのでしょう。ドイツが余計なことせずロシア軍が動き始めるまでにセルビアに対して勝利という形で講和すれば理想だったのですが、一瞬でドイツが戦火を拡大してしまいました。
- あずき なな(@azuki-7)
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そりゃそうですよ 皇太子夫妻が殺されてるんですよ? 民族と国家の威信に掛けても立ち上がるでしょう この際勝ち負けは関係ないのです