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薩英戦争について

イギリスが薩長の力を認めて その後の援助を始めたのだと 思います。 薩英戦争はどちらが勝ったんですか? もしくは戦争は2回あって その内の1回は薩摩が勝ったん でしょうか? 教科書ではイギリスが勝ったと 書いてあったので質問しました。

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  • ベストアンサー
  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.3

戦争に勝ったか負けたかの判断ですが、 これは ・相手が負けました、と宣言したばあい。 ・首都などを陥落させたり、相手の最高責任者を  捕らえるとかした場合。 ・被害の大小 などから判断されるわけです。 薩英戦争はどちらも、敗北を宣言していませんし、 首都が陥落したわけでもありません。 最高責任者も双方無事です。 被害については。 人的被害は、英国が圧倒的に大きかった訳です。 軍事関係の被害も、英国が大きかったです。 これに対し、薩摩の被害は、市街地の1/10が 焼かれた、という大きな被害です。 どちらの被害が大きかったのか、一律には 言えません。 ということで、勝敗は無い、と考えるべきでしょう。

koyamatakashi
質問者

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とても参考になりました。 回答ありがとうございます!

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  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.4

たぶん薩英戦争の結果イギリスが薩摩の力を認めたと巷間言われているのが質問者様の疑問の原因なのでしょうが、はっきり言ってそれはあまり真実ではありません。 イギリスは日本市場に食い込もうにも、日本で政権を握る幕府にはフランスがすでに食いこんでいたんです。だからNO2の薩摩に食いこむのは自然な話で、それはイギリスにとって戦争の結果薩摩を認めたからとかはあんま関係ありません。幕府に武器を売れない以上売り込み先は当然に薩摩なんです。ただ薩摩側が薩英戦争で欧米の力を認識するまで攘夷攘夷と騒いでいて英国と組む環境になかっただけです。

koyamatakashi
質問者

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回答ありがとうございます!

  • eroero4649
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回答No.2

そりゃまた非常に難しいご質問ですな。今NATO軍はアフガニスタンから撤兵していますが、「その戦争はNATO軍は勝ったのですか、負けたのですか」と聞くくらいの難問です。 元々のきっかけは前年に起きた生麦事件です。この賠償責任について薩摩藩はこれを拒否したのでイギリス軍の軍艦が薩摩湾に侵入して報復として薩摩藩の船舶に略奪行為を働きました。これに薩摩軍が砲台からイギリス軍艦に発砲、イギリス軍側も反撃したのが薩英戦争です。薩英戦争っていうけれど、実際には薩英紛争といったほうが正しいですよね。 この紛争は2日間に渡って行われ、イギリス艦隊は横浜へ回航したのでこれを「イギリス艦隊は撤退した」と解釈して「薩摩側の勝利」と喧伝することはできるとは思います。まだ当時はプロパガンダというものが存在しませんでしたけどね。 しかし一方薩摩側の損害はというと、市街は全体のおよそ10%が砲撃による火災で焼失し、その中には薩摩藩が近代装備を製造するために作った軍需工場である集成館も含まれていましたから「肉を切って骨を折られる」状況だったと思います。 またイギリス艦隊は薩摩軍の砲撃の射程圏内に入ってしまい損害を受けましたが、その所有する大砲は薩摩側をアウトレンジできましたから、戦いが長引けばイギリス側の一方的な攻撃となったでしょう。 「日本には武士がいたから恐れをなして西洋列強は日本の植民地化を諦めた」という人がしばしばいますが、それは日本を買いかぶりすぎています。確かに日本は後にアジアでタイと並んで唯一ならぬ唯二つ植民地化されず、それだけではなく自国民だけで成り立つ近代国家を作り上げたわけですが、そこは二つの幸運があったと(私は)思います。 ひとつは、ヨーロッパでクリミア戦争が起きて欧米列強がアジアへの興味を失ったこと。もうひとつが日本には欧米列強が戦争をしてでも手に入れたくなるような資源が何もなかったことです。軍隊の派遣というのは昔も今もとてもお金がかかります。彼らからすればアジアの端っこまで大枚払って遠征して、それに見返る分の価値が日本には見いだせなかったのです。そして更に幸運なことに、アメリカで南北戦争があってそこで大量の中古兵器がダブついたことも起きました。実は南北戦争で小銃の技術革新が進みまして、小銃の射程が飛躍的に伸びたのです。すると旧式のゲベール銃が大量に余った。ところが日本では幕府や各藩が彼らからすれば時代遅れのゲベール銃をボッタクリの値段でもありがたがって大量に買い付けたのです。「だったら、儲ければいい。仮にあいつらがそれで武装したところでこっちからすれば旧式だから脅威にはならない」となったのです。なにせこっちは火縄銃からそのままの浦島太郎状態ですから、ゲベール銃でも光り輝いて見えたのです。 イギリスとすればインドの支配で成功したように、各地の太守(各藩)をたきつけて泥沼の内戦状態にしてその混乱の中で支配権を樹立しようと思っていたのではないかと思うのですが、戊辰戦争がああもあっさり終わってさらに新政府(明治政府)がああもスムースに支配権を確立したのはちょっと読み違えたんじゃないかなと思います。

koyamatakashi
質問者

お礼

回答ありがとうございます!

  • type096
  • ベストアンサー率22% (8/36)
回答No.1

薩英戦争は完全に薩摩側の敗北です。 その後に薩摩と英国の距離が近くなったのは、敗戦の経験を通して幕藩体制下での攘夷継続方針を放棄した薩摩と、日本へのアプローチでフランスに先を越されていたイギリスの利害が一致したからです。 薩摩は現体制を力で変更させるためにイギリスの助力を欲していましたし、イギリスは日本への新しい窓口として薩摩を利用したかったのです。

koyamatakashi
質問者

お礼

回答ありがとうございます!

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