• ベストアンサー

不服ろわぬ穴居の種族

不服ろわぬ穴居の種族 これを退治しようとするが、すぐ穴に逃げ込む。 その穴は四方八方に通じていて、中に入って征伐するような手に負るものではない。 征伐する側は外で音楽を奏でる。 それにつられて穴居の人たちが出てきた。 その出てきたところを皆殺しにした。 その一帯はくるぶしまでの深さの血の海となった。 征伐側が奏でた音楽とはいまでいう神楽みたいなものでしょうか? チベットの仮面舞踊みたいなものでしょうか? だったでしょうか? ご想像などを歓迎しますのでご見解をご披歴ください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

こんにちは。 これには「古事記」から説明させていただきます。 古事記」の中の「出雲の国譲り神話」では、 出雲国を治めていた大国主命(おおくにぬしのみこと)から天照大神(あまてらすおおみかみ)が国を譲り受けて、その後、天津日高彦瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を日向に降臨させて国を治めることとなった。天津日高彦瓊瓊杵尊は天照大神の子である天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)と、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の娘である栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと=萬幡豊秋津師比売命)の子であり、さらには、そのひ孫が「神武天皇」である。と書かれてあります。 また、他方の見方からは、日本に始め「銅鐸」を携えた人々がやってきて、九州、四国、中国、近畿、中部辺りまでをも支配していた。しかし、その後、「銅鏡」を携えた人々が渡来してきて、「銅鐸族」を駆逐し支配下に置いた。「銅鐸族」は大国主命を指し、「銅鏡族」は天照大神である。 「銅鐸族」は稲作を中心とする民族であったが、「銅鏡族」は少ないにもかかわらず軍事的闘争民族で、「銅鐸族」を支配下に置くことに成功した。以後、「銅鐸族」は被征服民族と呼ばれるようになった。そして、「銅鏡族」こそが遠くシルクロードを経て日本にたどり着いた「イスラエルの失われた10支族」である、と、主張する「日本の文化=ユダヤ起源論」「日本・ユダヤ同祖論」などが次々と発表されるようになってきました。 と、これらから推測できることは、「銅鐸族」は近隣の中国あたりから渡来した民族と考えられます。 なぜかというと、中国で一番古い書籍といわれる「書経」の中に、現代で言えば「新天地を求めて海へ出た民族」という記述があります。 では、朝鮮は・・・というと、「三国志」が一番古い書籍といわれており、太古の記述は一切ありません。と言うよりも、それ以前は「不明」ということになります。 そして、「銅鏡族」はシルクロードを経て日本に渡来したイスラエル民族といわれております。 もし、これが正しいとするならば、天照大神が天の岩戸に隠れた折、奏でられた音楽は、中国やチベット系の音楽ではなく、中東(トルコなど)の楽器で奏でられた音楽ではないかと推測されます。 その一つの根拠として、「琵琶」がありますが、Wikiによれば、 西アジアのウード、ヨーロッパのリュートと共通の起源を持ち、形もよく似ている。すなわち卵を縦に半分に割ったような形の共鳴胴に棹を付け、糸倉(ヘッド)がほぼ直角に後ろに曲がった形である。 とあります。 もちろん、琵琶は中国を経て日本に伝わった記述もありますが、中国は中国、日本は日本なりに改良されていったと思われます。 私の「結論」。 総合的に考えると、中東あたりの音楽であったのではないかと考えます。

krya1998
質問者

お礼

ありがとうございました。 日ユ同祖論って、オーソドックスな学会からはとんでも史論と無視されていますが、この列島っていろんな文化、種族などが波状的に到来しているんですよね。 だからみんなの顔を見ると、いろんな故郷があるなって想像してしまいます。 ありがとうございました。

krya1998
質問者

補足

素晴らしい。 そうですか。 かの九品仏浄真寺での二河白道の行事にいき、仮面の宗教行事に興味を持ち、チベットの仮面の舞踊が何か似ていたように感じたのですが、もっと遠国の起源らしいのですね。 有難うございました。 ここ元将軍の狩場地域もあちこちで秋祭りがあり、神楽やお囃子はあるいは土蜘蛛などをおびき出した音楽かななんて考えたのですが、これはもうずぅっと近年の事なんですね。

関連するQ&A