- ベストアンサー
哲学に出来る事はないか?
前世紀末 21世紀は理想の時代かと思いましたが、なかなか言う様には行きません。 アメリカと中国 どちらが世界をリードしてゆくのか? アメリカは軍産複合体が25%と言うし。中国は韓国と北朝鮮の両方にパイプがあります。 アメリカが南北朝鮮を統一できるとは思えません イスラム教とキリスト教の問題もあるでしょう 人間の次なる存在の問題もあります。人間が進化するか ロボット、コンピュータ アンドロイドが増えていくか? 温暖化、人口爆発、戦争、資本主義の行き過ぎ アメリカや日本の多額の借金もあります。 憲法解釈、憲法改憲、教育の問題、少子高齢化、詐欺や借金、うつ病や自殺 この様な色々な問題の中で我々はここで何が出来るか? 人間ならば人間性がある、惻隠の情がある。存在目指して愛を持って知恵を絞るのが心の真実ではないでしょうか? こういう事なら出来るのではないかと言うアンサーを簡潔に表してください。 日頃思うことはありませんか?
- みんなの回答 (22)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
>この際ですから、出し惜しみなく持論を更に開陳して頂けると >この問の答えが深まるものと感じます。どうかよろしくお願いしますm(_ _)m ⇒幾分それるかも知れませんが、「共生問題」を添付いたします。 「共生社会の追求」 昨今、各方面でいわゆる共生問題を取沙汰する声がよく聞かれる。しかし、なぜ今「共生」なのであろうか。この術語(symbiosis)は、ほんの四半世紀前までは生物学分野の一専門用語でしかなかった。それが今や、福祉論・教育論・社会学・歴史学・経済学など、いろいろな分野の学術用語となり、研究主題、時に政策目的あるいは理想的な社会関係とさえみなされている。大学や市民講座などの講義科目となり、新聞・雑誌・テレビ・インターネットなどのメディアでも頻繁に取り上げられている。 今日、人間は、歴史上経験したことがないほど高次元の、しかも複雑に絡み合う関係のもとで、他者(他人・他国のみならず、自然環境をも含む自己以外のすべて)と交渉し、契約し、協定し、調整を図りながら「共に生きなければ」生きていけない状況下にある。すなわち現代は、共生を考えることなしに単独に生きること(例えば、仙人のような暮らしをすること)がまず不可能な時代になった、ということである。 したがって、直截に言うならば、共生を考えることは、「人間の生存や社会のあり方を考えることと同一次元の問題になった」と言えよう。それゆえ共生の研究は、我々一人一人が「相互に依存し合いながら」、人間として「他者と共に生きるための総合的人間学」である、とさえ言い得るのではないだろうか。 「我々は過去から積極的な指針は受取れなくても否定的な忠告は受取ることができる」という(オルテガ『大衆の反逆』)。オルテガのいうこの「否定的な忠告」とは、換言すれば「~してはならない」である。これを現代科学技術に当てはめると、「有害物を無害化できず、自然の循環ルートに乗らないものは排出してはならない」であり、「それができないなら元の活動を一時停止せよ」であろう。仲田直は、「他の生物や自然との共生では、人間のみが選択権(決定権)を持ってしまっている点が問題点の一つである」と主張する。木田元は、「これ以上豊かにも便利にもならなくていい。その思い切りを思想化することだ。この調子でいったら人類は自滅する」と警告する。このあたり、“There is nothing new under the sun.”(旧約聖書「伝道の書」)の感ひとしおである。今ここで我々の感じることは、おおむねすでに先人が指摘したとおりなのだ。 人間は自然を加工することで生存条件を得ている。人間が生きるためには自然が必要で、限りある自然を破壊してはならない。だからこそフルサイクルの循環型社会が求められる。同時に、それは人間の立場から見た自然保護であって、人類の功利的要請に従ったものであることを忘れてはならない。では、自然環境に対して我々はどんな関係に立つべきか。それを代弁するように下川雅弘は、自然保護について次のように述べている。 “人類が自然を保護しようとする最大の目的は何か。それは、地球に対するいとおしみや、生態系中の人類以外の生物たちに対するいつくしみというだけでは説明はつかず、多くの場合、他ならぬ人類にとって快適な環境を維持し、創出していくことこそがその目的なのではないのだろうか。(…)このような指摘は以前からなされており、「エコ」(=エコロジー: ecology)とは、人間の「エゴ」(=エゴイズム:egoism)であると揶揄されるなどはその代表例である。人類が環境を考える際に、最近特に繰り返し強調される自然との共生とは、言い換えれば人類がその一構成員として所属している生態系における自らの存在を自ら滅ぼさないために、常に生態系のバランスを念頭において思考し続けていかねばならないとする考え方である、と言えよう”。 地上のあらゆる場所で繰り返される様々な所業の結果、今や我々は「環境疎外」(環境による人間への疎外をいう。具体的には、人間の造った環境が人間に対して害を与えるようになり、人間とは疎遠なものとなった状況を指す)の憂き目に見舞われてしまった。これまで人間は、おめでたくも自然のためによいことをしているつもりだった。こういった意識を謙虚に反省し、誰のためでもない自分自身のために地球に優しい行為が求められているのだという事実を肝に銘じるべきである。 「環境は祖先からの遺産ではなく子孫からの借り物」(オーデュボン)であるという。現代文明の利便に浴しきっている我々は、未来を考える際、時に現在の自分を否定しなければならなくなってその葛藤に苦しむが、しかし自然環境との関係においては、今ここにいない人々をも視野に入れた行動上の配慮が求められることに疑いの余地はない。 科学が経済と結合して技術を生み、科学の総合化や再構築の要請を無視して、直線的な動きを続けてきた。公害はこの一方向的運動の継続の当然の帰結であった。まして、環境は現代に生きる我々だけのものではない。科学技術的進歩を一時凍結しても、死の灰・地球温暖化・オゾンホール・酸性雨など、負の科学的遺産の解決に全力をさし向けるべきではないだろうか。現下は、「進歩は二の次」とせねばならない時なのである。広角的な視野で現代社会を捉え直せば、否が応でも、可能な限り汚染状態を減らし、持続可能な社会経済を維持することが必須の条件となっている。そうしなければ生きられない時代に居合わせた我々の宿命的義務と言わねばならないのかも知れない。
お礼
興味深くありがたい話をありがとうございます。 私のキャッチフレーズの一つに「ゆっくり進化しよう」と言うのがあります。 人間は急激に進化しすぎました。環境は愚か人命も心も愛さえも殺してしまいました。 我々が子供の頃は、まだ自然が沢山あり、現実の世界(自然)がどの様に調和し、どの様に恵み、どのように危険であるかを学びました。 しかしいまの子供たちは現実ならぬ人工のもので遊んでいます。 野球、サッカーくらいならまだしもゲームやPC、スマホにマニア、 勉強も学校だけでは足りないと 塾に習い事お受験まで 人工のものに浸っています。 真理とか哲学とか、それが何を意味するかも情報の中で分からないのではないでしょうか? 共生との事でしたが、共生というのは違うDNAを持った生き物が共に住むという事だと思います。 同じDNAといえば細胞同士や脳と腸のような関係で更に密な関係となります 他人同士がいきなり共同生活するのは大変ですが、兄弟姉妹や双子なら そう気にならない 信頼もしやすい・・・ 精神的にそれを求めるのが宗教でしょう。同じ教えという、言わばDNAを持って 共に生きていこうと言うものです。ただ問題はその教えが案外あやふやだということです 或いは教えが進化せず古いまま、男性社会の教えだったり、神が絶対だったり 現実と合わないことも明らかになってきてます。 そういう古い教えをもっと新しい教えにして、宗教という形ではなく 思想信条という形で、我々は命と心と自然と社会の真理に迫らなければなりません。 共産主義でも資本主義でもない、仏教でもキリスト教でもない 男中心でも女中心でもない、科学でもお金でもない 仕事と生活と目的と理想と愛情と幸せと自由の為の生きがいとなる思想信条を 編み出して供給する責任があるのではないでしょうか? 人間が共生する為に必要なのは個人の良心です。個人が単位にならなければ 理性は充分働かず、差別や諍いやいじめの原因になります。 私は個人主義者ですが 協力主義と言うのを考えました。 協力主義は調和主義、調和主義は存在主義です。 環境とも新世界とも人間同士も調和して安定しながら進化していく その様な世界が必要であり、人の幸せと新たな存在を未来に実現することが 人間の目的なのではないでしょうか? なんか自分の考えを書いてしまいましたが。 ナカイ702さんにも教えを請いながら 考えて行きたいと思います。 これはどうも大変ありがとうございますm(_ _)m