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「我」と「気」の違い
我が強い人は気が強いのでしょうか? 私の知り合いの多くの我が強いなと思う人の特徴は以下です。 ・とにかく(人の話を遮ってまで)自分の話ばかりする ・知識量が豊富 ・初対面でも仕切りたがる ・(これらのことから)自分は肯定されたい、そうされるべき、だと思っているようだが他人に対しては否定の方が多い。 こんな感じですが、これらは「自分に自信がある」ことや「気の強さ」からくることなのでしょうか? エネルギーの弱い我が強い人もいると思いますし、逆にエネルギーが強くとも我が弱い人もいるかと思います。 自分(我)を押し通すのはエネルギー(気)なのでしょうか。 それとも別のものなのでしょうか?
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エネルギー(気)、ではなくて、単に強気、弱気では? 気持ちの強弱を強気・弱気と評しただけのこと。 でも、「我」は殆ど大多数の人が必ず一人に一つづつ (表面的には)必ず持ってるもの。 強気の人でも重病などで性格が変わることは良くある ことだし、弱気だと思われていた人がキレると手が 付けられない暴れ方をすることもある。 DNAにコーディングされた元々の「気質」というものは 確実に人格の基本構造の元になってると思うけれど、 その後の生育過程で大切に育てられた者は、自己肯定感が 強く、他人に対して支配的に振る舞える。 すると、他人が怯んだり、追従したりするようになる。 時には卑屈な態度を取る者もあらわれる。 で、そういう支配経験がより一層、自分は特別だと 考える強さを増していき、どんどん強気になる。 でも逆に、子供時代に大切にされなかったり、虐待 されたりして対人的な恐怖感を植え付けられてしまい、 それが友達関係などの他人との間にも怯えや警戒心、 敵意などの負の感情に動かされてしまった人もいる。 その結果、周囲から見下されたり、或は怖がられたりして 孤独感を増し、弱気になったり陰気になったりする。 そんなケースも多数あるのだと思います。 あなたは周囲の空気に敏感で、気の強い誰かにいつも 一方的に言われてストレスを感じたりしているのですか? 強気とは「成功体験の循環による確信」。 弱気とは「低い自己評価による背信」。 背信?誰に対する? 勿論、自分に対する、です。 これ、哲学の質問なのかなあ・・・ま、いっか。
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- ways
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我を通そうとする人は、コンプレックスがあるんですよ。だから、そこをカバーするためにも、人に認められたい、みんなに見てほしいという。性格が子供っぽいというのもあると思います。 でも、人の話を聞かない人は、間違った判断もしやすいので、暴走して、自滅される方も多い。自分が何者かになったような錯覚を起こすんでしょうね。 気が強いというより、みんなから遅れを取ることに、不安を感じるのでしょう。だから、常に一番になりたがる。 本当に気が強い人、強気な人は、もっと積極的で、好奇心も旺盛な方ですよ。我の強い人とは、少し違います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >遅れを取ることに、不安を感じるのでしょう。 心理的に不安がある人はそれを隠すためによくしゃべるらしいですね。 あと「やられる前にやれ」というエネルギーが動いているのかと思います。
- hekiyu
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相手のことを考えない、相手の立場に立って 考えることが出来ない。 そういう人だと思います。 エネルギーとは別でしょう。 欧米人や中国人、韓国人などもそうですが 相手のことを考えません。 だから、米国人などは電車が混んでいても お互いに微動調整して、空間を作るとか ができません。 だから、彼らは押しが強いです。 結果、争いも多くなります。
お礼
ご回答ありがとうございます。 それは民族性の傾向というものでしょう。 しかし「郷に入れば郷に入る」精神で日本に住み、または日本人の精神を学びたいと来日する外人もたくさんいます。 すれば精神性は人種で絶対的に変わるものでもありません。 ですから○○人はどうなどと、過剰な一般化をするのも「争いの元」ですよ。 (こういうとネトウヨから「反日」といわれるのでしょう(笑)でもそれも同様「過剰な一般化」です)
- amenhotep2000
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Frauさん こんばんは。 閑話休題 まずこの動画を観てください。 https://www.youtube.com/watch?v=cHHTA7QknZI 漫画ドラゴンボールです。私も「気」でかめはめ波を打てるように修行の身です(笑)。 今回は西洋ではなく東洋の視点で回答しようと思いますが、この「気」という概念を調べると面白いです。 Frauさんは東洋医学の鍼灸医学(お灸や鍼)をして治療したことはありますか? 現在の日本においても決して見捨てられていない治療法と思います。 鍼灸医学を遡ると、中国の伝説上の天子であった黄帝が医学上の先生である岐伯に質問し、それに答える形の「素問」という医学書に行き着くそうです。 そして鍼灸医学がほぼ完成したのが、「霊枢」という医学書で、後漢時代に編纂させられたそうです。 この霊枢において、「気」の重要性を「神」と表現しているそうです。 東洋の中国における「神」の概念が何なのか興味深いところです。ちなみに陰陽五行説の上に確立されています。 この東洋医学とともに「気」の概念が日本に入って来たのはいいのですが、この「気」という概念が江戸時代まで日本において根強かったため、日本において「科学」というものが独自に発達せず、明治時代以降の西洋文明から学ばなければならなかったそうです。 医学的見地から考察すると宗教的に、東洋の仏教、ヒンズー教、西洋のキリスト教、イスラム教などの、どの教えが真理で間違いだなどと、このサイトでも議論されていますが、その思想の中で育まれて生まれた西洋医学(例えばイスラム教のアヴィセンナなしには西洋医学は語れない)・東洋医学の恩恵は日本人は皆受けているし、高齢化が進むなか、さらに受けざるを得ないので、宗教は柔軟に考えるのが日本ではいいのではと思っています。 長くなったので「我」についての考察は私もあまり知識がないので省略しますが、IT mediaの回答欄の下についてくる、「この質問を見ているなら」の中の情報に書いていましたが、銀座の高級クラブのママによると本当のお金持ちは「空気で人を動かす」そうです。何もいわなくてもその人が中心にいるだけで、従業員が勝手に動くそうです。これは「気」か? ですから、Frauさんのご質問のような人は、まだ器が小さい人と思われます。 私も、もっと器の大きい人間になるため修行に戻ります。
お礼
ご回答ありがとうございます。 全体主義の東洋的哲学や医学のほうが私は好きです。 学問はなんでも領域が重なっているものですが、分離させてしまう、またそれがまた科学だということはもったいないことです。 >何もいわなくてもその人が中心にいるだけで、従業員が勝手に動くそうです。これは「気」か? すごいそんな方がいるのですね。 その人に対するリスペクト的なことや、その人から発する威圧感で動くわけで、その人の「我」で動かしているわけではありません。 もしそこで厳しい口調で命令をしてしまったら「勝手に」は動かないでしょう。 あ、今「北風と太陽」の話が連想されたのですが。 「北風」が「我」であり、「太陽」が「気」かもしれないなと思います。 「北風」は自らに抵抗を呼び寄せ、「太陽」は自ずと人を導く。 おもしろいですね。風も熱も同じエネルギーなのですから(笑)
- 雪中庵(@psytex)
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利己的であっても、自己チューでなければ、 助け合いによる「利己」が可能なら利他を望む。 同様に、意志が強くても、自己チューでなければ、 他との協調を望み得る。
お礼
ご回答ありがとうございます。 わかりやすく深い回答だと思いました。 >利己的であっても、自己チューでなければ ここの境界を見極めるのが難しいんですよね。 たとえば同じ一つの目的に有志が集まった場合、自分の意見ばかり主張する人がいるとします。 その目的を達成するには利他が必要です(たとえばボランティア)。 自我を満足させたい(自己中)の主張はたとえ正論であっても、彼を感情的には受け入れがたくなる仲間もいるとします。 そのため、自己中な人の考え方や行動力がたとえ有力な戦力であっても、感情的に排除してしまったら、目的が成功しない確立が高くなります。 それがため、彼をよく思わない人間がいればいるほど、グループ全体の我慢や緊張感が高くなります。 自己中であるがゆえ、自身が自分の属するグループから排除させようと自ら導いているのですが、その「策略」にひっかかった人間が実際に排除してしまえば、逆に自己中の被害者が加害者となってしまいます。 ご回答者様のおっしゃるように「自己中でない、意志が強い人との協調」がもっとも平和的に目的を遂行できるのではないかと考えました。
単に「我だけは強いが協調性のない人」と して片づけています。 エネルギーといえば それを押し通す 空気のよまさなは一つの エネルギーかも知れません。 自信があるとかないとかは、 そんな人について深く考えた こともないです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >空気のよまさなは一つのエネルギーかも知れません。 なるほど。意識のエネルギーが自分に向いているわけですね。それが他人へと投影されているのかもしれませんね。
- urigadai2013
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「我が強い」というけれど、実態は、欲求が他に比して強いとか、自己顕示欲が強いとか、そういうことなんではないですか? 私は人間に「我」とか「自我」なんてないと思っていますから、欲求とか欲望が強い、他人に対して自己を誇示する傾向が強いのだと思っています。 まあ、そういうのを「我」というのかもしれないですけど・・・・ そして「気」というのは中国の朱子学の「理気二元論」に由来する言葉で、天には理があり、それが人間の気となって現れる、という言い方をします。 「元気」とか「気持ち」とか、「気の持ちよう」とか、「気息奄々」とか、日本語には「気」の付く言葉が多いです。 みんな中国の影響ですね。 あなたはそれをエネルギーといっているけど、いかにも近代の物理学に由来する言葉で、「気」の歴史と由来を知らない人が言いそうなことです。 「気」がエネルギーとすれば、エネルギーは物質があってエネルギーがあるんだから、その本体の物質って何ですか? 「我」ってこと? 「我」って物質ではないですよね? 物質ではない「我」からエネルギーが出るんですか? 私はそんなことは初めて聞きました、びっくり! たしかに「精神のエネルギー」だなんて言い方をしますよね? ベルグソンの本にそういうタイトルの本を見たことがあります。 だけどそれは「比喩」でしょ? エネルギーは物質が衝突して発生するものだから、精神なんかからエネルギーが発生するわけがない。 精神と精神が衝突してエネルギーが発生するんですか? そうすると人間は二つの精神を持っているわけですね? どっちの精神が本当の私の精神なんでしょうか? なぜって、二つの精神を私が持っているとしたらそれは矛盾だからです。 たぶん、「エネルギーが強い」というのは自己の欲求とか欲望が他に比して強いということではありませんか? エネルギーじゃなくて。 エネルギーなんて言うと、物理学の話に聞こえます。 物理学だったら分かりますが、あなたは物理学の話をしているのではなくて、人間の話をしているのですよね? だったら、紛らわしいから、エネルギーなんて物理学の話をするのはやめましょう。 それにあなたは「自分に・・・・・」といいますが、その自分というのはどこにあるんですか? 前述のように私は人間には「我」とか「自我」なんてないと思っていますから、自分も存在しないと思っています。 デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」といって、私が思うから私が存在するようなことを言いましたが、私が思ったからといって、確実なのは私が思っているという事実だけであって、思っている事実があるからといって、私まで存在するわけではありません。 だからデカルトは「省察」で神の存在証明をしたのです。 神の存在が証明されたならば、その神が自分の存在を保証していると考え、私の存在も確実だと言ったのです。 逆にいうと、神がいなかったら、私の存在なんて証明できないし、もしかしたら、私なんて存在しないのかもしれない。 その私は脳にあるんでしょうか? だけど脳は神経繊維・ニューロンと化学物質・シナプスのネットワークで、その脳に私なんて存在しません。 だったら、私なんてどこにあるのでしょうか? 身体に? だけど身体は他人の身体の部品といくらでも交換できますから、身体に人格なんてありません。 つまり、自分なんて、また「我」とか「自我」なんてどこにも無いのです。 私の身体を指して自分といっているんでしょう? だけど身体は物質です。 物質に自分なんてありません。 あなたの質問は全体的に言って、いわゆる「おとぎ話」に過ぎません。 たぶん学校で、洗脳されたんでしょう。 人間には「自我あります、自分というものがあります」といわれて、それを信じたのでしょう。 何の根拠もなく。
お礼
ご回答ありがとうございます。 理気二元論について初耳でしたので、辞書を引きました。 -------------------------------------------------------------------------- りきにげんろん【理気二元論】 程頤(ていい)の説を受け継いで朱熹(しゆき)が大成した宋学の形而上学的原理。物質を形成する素材およびその運動を気ととらえ,気を統制する原理であり,その運動に内在して全存在を貫く根拠となり,人間にあっては道徳原理となるものを理として,理気二元により存在の構造を解明する。 --------------------------------------------------------------------------- 「物質を形成する素材およびその運動を気ととらえ,気を統制する原理」ですから、物質を統制するのは形而上学的なことです。 ご回答者様は「我」は物質ではない=形而上学的ととらえているのですから同じことになります。 あと「神の存在が証明された」ことについてですが、 私を近代科学におかされているデカルトこそ近代科学の啓蒙者ではないですか。 私は目の前に神様が現れない限り信じられませんが。あ、でも神様はときどき現れます。自分に都合のよいときに(笑) 確かに「人生は思い込み」「病は気から」ですよね。 でも自我がないということは心も否定しているわけですよね。 ご回答者様自身もひとりの人間として、適応機制や防衛機制を用いている(つまり生きている)ことを否定していることになります。
逆を考えた場合 「我を押し通さない人は気が弱い」というのが成り立つのか!? そんな事無いでしょ・・・ 芸能人って 殆ど 我を無くして あやつり人形になってるのですよ・・ なのに 気は とんでもなくあるが・・・
補足
ご回答ありがとうございます。 >気は とんでもなくあるが・・・ これって自己顕示欲のことですよね?
お礼
ご回答ありがとうございます。 自分に対する「確信」「背信」という表現には納得しました。 生得説と環境説どちらかに傾かないお考えなのですね。私もまったく同感です。 私の観察する支配欲の強い人に共通するのがコンプレックスや劣等感です。 だから常に他人と自分を比べ、他人の弱点や劣っている(と感じるところ)をあら探しします。 こういう人間は支配欲が尋常ではなく実際、家庭内や組織内においては権力者となるわけで、忠告したり叱ったりする人間がいなくなります。 そしてさらに「それ」が助長されていく…(父もその一人ですが)。 ですから「悪人」もまた他者が作り上げるものだと思います。 人々の「悪人」に対する無関心や不必要な迎合や依存という大衆心理がモンスターを作るのだということです。 でも権力者は真の強さをもっているかといえば疑問です。実際彼らの虚勢は小心であるがゆえです。真の強さはたぶん寡黙なのだと思っています。