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存在性ってどう言う意味?

存在性とは・・・・? 忘れたでしょうね。 どう言う意味か当てたら偉い。

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回答No.14

再度、あなたの補足に対して、私から回答します。 存在は存在物(者)とは違うことを、区別すべきことをハイデガーは主張しています。 ハイデガーを持ち出さなくても、そのことは分かります。 存在物(者)は具体的なもの、目に見えるもの、感覚できるもの、個別的なもの、特殊的なものですが、存在は目に見えないもの、感覚できないもの、一般的なもの、普遍的なものですから、両者は違います。 あなたはウィキペディアと同じように両者を同じものと混同しているようですが、区別しなければならないですよ。 存在は個別者ではなく、一般的なもの、概念です。 しかも、個別的・具体的なものが1階にあるとしたら、存在は2階の概念です。 たとえば、学校という概念がありますが、学校というのは概念だから、見たり感覚できないし、現実にこの世界にあるものではありません。 現実にあるのは1階の生徒と先生と校舎だけです。 その1階の具体的なものの上に登って2階にあるものが学校という概念です。 存在物(者)は1階にあり、私たちに見ることができ、感覚できるものですが、存在は2階の概念で、私たちには見ることも感覚も出来ません。 ところがあなたはこう言っています、 「私は存在を名詞と考えて、存在物(者)などの存在と同じものと考えて、「存在」を「存在するもの」と考えていたことです。 ・・・・・その通り、「存在」と「存在するもの」を一緒にして考えていたということです。 私が指摘するように。 そして、こうも言っています、 「つまり私は一般の意味での「存在」という言葉を使い、先生(注、私は先生ではありませんが・・・・・)は哲学用語として「存在」という言葉を使っていた、ということです。 ・・・・・・一般の人は、あなたと同じで、またウィキペディアも同じで、「存在」と「存在するもの・存在者(物)」を区別していないのです。 だけど哲学に限らず、本当は両者は区別しなければならないのです。 ハイデガーが何といおうとも、それとは関係なしに。 存在は目に見えないのに反し、存在者(物)は目に見えるものですから。 哲学を離れても、哲学とは無関係に、両者は違うでしょ? 存在とは存在するもの・存在者(物)の全体です。 存在者(物)は部分に対して、存在はその全体です。 なぜならば、個別的な「存在するもの・存在者(物)」は「あったり」「なかったり」するけれども、存在は至る所にあり、無いことが無いのですから。 あなたも前に言っていましたよね? 存在は至る所にある、と。 つまり存在は普遍的です。 それに対して「存在するもの・存在者(物)は空間のどこか特定の所にあります。 机の上とか、学校の中とか、会社の中とか、そういう具体的な場所にあります。 ところが存在は至る所にあるのですから、どんな場所にも、宇宙空間にだってあります。 真空の中にもあります。 存在は「あまねく」存在するのですから、無いところがありません。 ハイデガーは存在を「存在するもの・存在者(物)」を存在せしめる根拠とか理由ではないかといいましたが、その一方では「存在するもの・存在者(物)」は、矛盾するようですが、根拠なしに存在するのではないかといいました。 どういうことかというと、その「存在するもの・存在者(物)」の根拠とかも、同じ「存在するもの・存在者(物)」でしかないからです。 たとえば、あなたの言う存在性とか、性質とか、エネルギーも「存在するもの・存在者(物)」でしかないからです。 だとすると、そのエネルギーが存在する根拠は何なのか? という質問が避けられなくなります。 何ものかの「存在するもの」の根拠を、ふたたび「存在するもの」で答えれば、今度はその「存在するもの」の根拠は何か? 問わねばならなくなり、無限遡行に陥るのが避けられません。 だからそれをシェリングは根拠は「無底」だと言ったのです。 「無底」というのは「底なし」という意味です。 無限遡行に陥るというのはどこまで行っても、行き着くところがないということ。 だからそれは「無」に等しい。 このことからハイデガーは「存在するもの・存在者(物)」は根拠なしに存在していると言ったのです。 この考えは仏教の「空」と「縁起」の考えによく似ています。 仏教はこの世に存在するものはいかなる実体もない、いっさいは「縁起」によって、因果関係で結ばれているだけで、「空」である、と。 ハイデガーも同じです。 この世の中に「存在するもの・存在者(物)」は根拠なしに存在している、と。 根拠は「空」である、と。 ところがあなたは「私の考えでは、存在者(物)が存在する根拠は大いにあります。まず、歴史、因果律があります。そして存在性、存在を実現している性質が在ってのことです」 ・・・・・・という。 歴史は存在ではなく、「存在するもの」です。 因果律も同様、「存在するもの」です。 そして「存在性」も「存在を実現している性質」も「存在するもの・存在者(物)」です。 だったら、その歴史が存在する根拠は何なのですか? 因果律が存在する根拠は何なのですか? そして「存在性」が「存在を実現している性質」が存在する根拠は何なのですか? それに答えようとして、また「存在するもの・存在者(物)」を持ち出して答えようとすれば、ふたたびその「存在するもの・存在者(物)」の存在する根拠は何なのですか? という問いが避けられなくなり、どこまで行っても果てしが無くなります。 無限遡行が避けられない。 「たとえば、あなたが人にあなたが存在する根拠がないと言ったらどう思うでしょうか?」 ・・・・・・といいますが、仏教はこの世の中は何も無い、「空」であると言っていますよ。 何ものかが存在すると思うのは迷妄である、と言っています。 それを「業観縁起」といい、「業」つまり、人間の欲望がこの世の中が存在すると見せているのであり、「業」を滅却すれば「空」であると教えています。 つまりこの世界、この世の中は、根拠なくして存在していると教えています。 一般の人がそれを聞いたなら、仏教の真理に目覚め、そうなんですかあ、と感謝されるんではないですか? 私はハイデガーも仏教を離れても、この世の中は根拠なくして存在していると信じています。

yuniko99
質問者

お礼

先生(貴方)の論法だと、生徒と先生と校舎だって実際にあると言うわではなくなります 実際にいるのは子供?と大人?と建物です。 子供も、色んな子供がいますし、人間でしょうけど、人間も結局は素粒子で出来ているのです 学校がないのなら人間もないのでは?? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 何も信じることはないと思いますが ご説明で色々哲学の事が分かりました。 なるほどと思う一方 それじゃ人々は「存在者」でさえ根拠がない 空だ。こうなったら即身成仏だ即身仏だと言い出しはしませんかねえ? 私は「存在」と言う言葉を身近にする為にも私の語感を使いたいと思います 私は「存在」とは(個性ある)性質を持ったエネルギー と定義しました その定義に拘るつもりはありませんが 何で(個性ある)という言葉を付けてるかというと、仰る通り存在はどこからどこまでが存在なのか分からないということです。 ですから定義をしなければ「存在」は内容もなく、空虚で、定義できないものになってしまいます。 そこで私は考えました。それでは存在者も空で何が何だか普通の人には分からない しかし存在は模様がある、濃淡や形があるのです。形もハッキリはしてませんが エネルギーに働く性質のおかげでエネルギーには個性がある 酸素分子なら酸素分子の個性、犬なら犬の(その犬の)個性が、葉っぱにも家にも 学校にも個性がある(学校なんて在る訳じゃないとか言ったら学生たちは寝るか困惑するか分かりませんよ^^) その個性を持って存在の単位としたのです。当然原子も個性、分子も個性、物質も個性、生物も個性、人間も個性、個人の考えにも個性です。つまり重なっています。共有する個性もあるでしょう。 その方が生き生きしていいじゃないですか。 それにエネルギー・物質も存在としなければ 他に何が存在なのかという気がします。 この世はその様な個性(本質?)を持って存在としなければ、仰る通り 存在は定義できず内容もない空虚なものになり、人々から哲学は難しくて何がなんだか分からない と言われるようになってしまいます。 個性が本質を意味するのかどうかは私もまだよく考えていません。 PCの調子がおかしく、消えそうになったので とりあえず送信

yuniko99
質問者

補足

お礼を忘れていました 色即是空 空即是色 どうも大変ありがとうございます☆

その他の回答 (13)

  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.13

感想です。 あなたは 「性質を骨格として千変万化する森羅万象を整理し 世界に役立つ考えを 確立させたい」 と考えられていると 思います。すると性質は ルールに従って変化するにしても 未来に渡って 続けていく ことになっている と考えておられると思うのです。なぜなら性質が短期間に 消滅すると 性質は世界に役立たないと思われるからです。そこで 性質が永遠に続くための 土台のようなものを考え それが存在であると。そこで存在とは考えてみると永遠の今の別称のような気がします。性質は存在性(永遠に消えることはない)としてみる ということでしょう。だから 存在は重要なキーワードなのです。 そこで改めて存在の定義を このカテで問うてみると UR氏の指摘のように 哲学としては 定義できない もの ということのようです。しかし 定義できないと言って 問題ではない と思います。論理哲学として 性質哲学をまとめる には 定義できる原則を明確にし 哲学展開すればいいと思います。それは性質の定義を分かりやすく述べ  造語はその都度 定義をし 主張をしていくことだ と思います。 存在が定義されないから その哲学の存在は認められない という批判者にたいしては 全ての哲学の存在を否定するつもりなのか と 反論できるかと思います。

yuniko99
質問者

お礼

成る程 痛快ですねえ^^ 「存在」が定義出来ないなら哲学はどうなるのか?存在を考えない哲学も珍しく その「存在」が内容がなく、空虚で、定義不能なもの(何もそこまで言わなくてもねえ) ハイデッカーがいけないのでしょうか?そんなこと言ったら大学のハイデガー専門の教授に喧しく言われるかもしれませんねえ。 存在性というものは特に永遠とか、消えることがないとか、根源とか、そういう意味はないです ただ「性質」と言うものが真理に従って現れると書いたのでその様に思われるのでしょうけど 変化しながら法則によって必ず現れる刹那的な性質のことです。 その中で或る存在(個性ある性質を持ったエネルギー・物質)の実現に役立つ性質を存在性 敢えて言うなら その存在の存在性 と言う事になります。 ですから別の存在の存在性とはまた違う訳です。私の説明不足でしょうね。 どうもありがとうございます。

  • a_hona
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回答No.12

存在性で満ちているですか。それはそうかもしれません。その時には、ベクトルがどの方向に向いてるかというよりも、満ちていると言う表現の方がぴったりきます。 最初は意味不明のユニコ説でしたが、幾分か理解が進んできたようです。

yuniko99
質問者

お礼

どうもありがとうございます。理解していただくのが何よりありがたいです。 呼吸に関する様々な性質、飲食に関する様々な性質、消化分解に関する様々な性質 生体物質合成と新陳代謝に関する様々な性質、病気を防ぐための様々な性質、行動のための様々な性質、 五感で認識するための様々な性質、語感で認識した様々な性質(情報、記憶) 学習・思考による様々な性質(概念、アイデア等)環境による様々な性質(気温、住環境、衣類、TV、ラジオ、ビデオ、PCその他様々の性質 等などなど 書ききれる訳がありませんが様々な性質によって人間は存在できています また人間の存在を安定させより確かにするために働く様々な性質(趣味など、学問、仕事、お金のゆとり等など) そのように その存在(者)を実現するために必要、又は有効な性質を存在性を存在性と呼びます。 これが存在性の定義です。 どうも大変ありがとうございます。

回答No.11

#6の者です。 >存在の仕方の性質? 存在・・性質?>どんな性質でしょう? 正気で言っているのでしょうか? 個々の存在の背後にある普遍的要因について、 いつもここで議論してきたのに。 前の議論が終わると、次の議論の時にはまた0から 始めるのですか?

yuniko99
質問者

お礼

すみません 頭が悪いもんで 存在の仕方の性質 と言うのは 存在性の事を言っているのでしょうか? それとも先生のご持論を言ってあるのでしょうか? どうもすみません。

回答No.10

まず、ウィキペディアなんか信用ならないから、あんなのは当てにしないこと。 存在とは「ある」とか「いる」ということ。 そこまでは正しいですが、その後が間違い。 そのある(いる)何か・・・・・・・・という場合の「何か」は存在者(物)のことだから、存在とは違う。 ウィキペディアは存在と「存在するもの・存在者(物)」を混同している。 あなたと同じように。 だからそれに続く、 歴史上に存在する人物・・・・・・・というのも、存在ではなく、存在者(物)。 神のように用いる・・・・・・・というのも、存在ではなく、存在者(物)。 (哲学)他の何かに依存することなく、それ自体としてあるもの・・・・・・・・というのは存在ではなく、実体の定義。 (人にとって)まず、現実(リアリティー)としてあるもの・・・・・・・というのも存在の定義ではなく、実存の定義。 現象として人の意識に映じているものや人が経験している内容・・・・・・というのも、存在ではなく、存在者(物)の定義。 以上、ウィキペディアは存在と存在者(物)を混同しており、実体と実存とも混同している。 間違いだらけ。 だからウィキペディアは当てにならない、と言っただろう? ウィキペディアに書いてあることを引き合いに出して私を批判するのはお門違い。 え・・・・・そうすると、つまり、早い話が、存在は存在しない、という事でしょうか? ヘーゲルは存在も無も共に無規定だということは、中身が何もない、空虚で、空っぽという意味では、存在と無は等しい、と「大論理学」の冒頭で言っています。 存在は「存在者(物)」という意味では存在しません。 無規定で、中身が何もない、空虚だということは、存在は定義できないということであり、無と同じではないとしても無に等しいということ。 存在するもの、存在者(物)は存在するわけですね? はい、その通りです。 目に見えるもの、形のあるもの、性質や属性を持つもの、その他いろいろに形容されるものは存在します。 しかし、存在は性質も、属性も、目に見えるものでもなく、感覚できるものでもなく、また形容詞で述語づけられるものでもないので、存在はその意味では存在しません。 たとえば「山がある」「猫がいる」と言った場合、その「ある」とか「いる」にどんな形があるでしょうか? どんな性質があるでしょうか? それに「ある」とか「いる」は述語ではありません。 日本語文法を知っている人ならば、すぐ分かります。 その「ある」とか「いる」を名詞化したものが存在です。 存在というと、存在するものと混同します。 だから「ある」とか「いる」という言葉で考えることをお勧めします。 そうすれば、それを存在者(物)と混同することはないと思います。 「ある」とか「いる」というのは、すぐ分かるように人物でもない、物でもない、存在するものでもない、カントが言うように一般定立です。 存在は無なんですか? ・・・・・・ちょっと考え過ぎではないでしょうか? 逆です。簡単なことなのに、あなたが考えすぎているのです。 あなたは毎日、「ある」とか「いる」という言葉を使っているはずです。 だから「ある」とか「いる」が何を意味するかあなたは十分に知っているはずです。 知っているのに、あなたは複雑に考えすぎるんですよ。 「ある」とか「いる」には何も内容がないでしょ? 単の「ある」と言っているにすぎない、それを存在性だとか、性質だとか、エネルギーだとか、あなたの方が複雑に考えすぎているんですよ。 どうして「ある」とか「いる」が存在性だとか、性質だとか、エネルギーを持っているんですか? ちょっと考えすぎではないでしょうか? じゃあ、「存在」とは何なのですか? というけど、その「何なのか?」という質問が、存在を存在者(物)と混同させる元凶なのです。 存在は定義できないのですから、何なのでもありません。 何なのですか? と聞かれたら、存在者(物)ではありません、としか答えられません。 定義できないものを、また無に等しいものをどうやって定義できるんですか? ハイデガーによれば、存在は存在者(物)をして存在せしめる根拠とか、理由だと言っています。 その一方で、「根拠律」という本で、存在者(物)にはそれが存在する根拠はない、と言っています。 つまり存在者(物)は根拠なしに存在している、とも言っています。 これは後期シェリングの「人間的自由の本質」でいう「無底」の概念と同じです。 実存主義の思い込み、ヘーゲル・ハイデガーの考えすぎ、パラドックスですな。 それは実存主義も、ヘーゲルも、ハイデガーも読んだことがない人のいうことではありません。 神と一緒ですな、何だかんだと言っているうちに、在りもしないものを「存在」と言い出した。精神でもない、物質でもない、実存(?)でもない、何でも無い、無だ、そうでしょ? というけれど、あなたのように存在性だとか、存在は性質だとか、エネルギーだとか、デタラメを言うことに比べたら、まだましです。 だいいち、存在は神と一緒ではありませんよ。 どうして「ある」とか「いる」が神と一緒なんですか? あなただって毎日「ある」とか「いる」という言葉を喋っているじゃないですか? それが神と一緒なんですか? 確かに存在、「ある」とか「いる」は精神でもないし、物質でもないし、実存でもありません。 そんなことは「ある」とか「いる」という言葉を見れば、すぐ分かるでしょう。 毎日使っているんだから。 「ある」とか「いる」が、精神なのですか? そして物質なのですか? そして実存なのですか? 無でもなければ存在でもありませんよ。 「ある」とか「いる」というのはただの言葉です。 確か文法では終末の存在詞とか助動詞というのではありませんか? 私は「ある」とか「いる」という言葉が、精神だとか物質だとか実存なんて考えたこともありません。 それは考え過ぎです。  

yuniko99
質問者

お礼

成る程 ある、いるは英語と同じく動詞だと思いますが 違うでしょうか? 分かった事が二つあります 一つは 先生が存在を動詞と思って「ある」「いる」と考えていいもの と考えてあるのん対し 私は「存在」を名詞と考えて 存在物、存在者 などの「存在」と同じものと考えて 「存在」を 存在するもの と考えていた。ということです。 私の電子辞書の国語大辞典によれば 一般には名詞として「存在」と言い 哲学用語として「存在」being,existence Seinの訳語 これも名詞?動名詞?かもしれませんが、そう書いてあります。 つまり私は一般の意味での「存在」という言葉を使い 先生は哲学用語としての「存在」という言葉を使っていた。 と言う事です。従ってウィキも一般の用語としての「存在」を書いたものの様です。 私は一般の人に分からないのでは哲学の意味がないと思っていましたから 私には私の意味合いがあり 哲学を熟知している先生には先生の哲学用語は正しい。 と言えるかと思います。 それともう一つ。 >ハイデガーによれば、存在は存在者(物)をして存在せしめる根拠とか、理由だと言っています。 >その一方で、「根拠律」という本で、存在者(物)にはそれが存在する根拠はない、と言っています。 >つまり存在者(物)は根拠なしに存在している、とも言っています。 先生はハイデガーが書いてるからと言う根拠で 存在者(物)が存在する根拠はない。 と書いてありますが、まずハイデガーの書き方が矛盾気味なのと 私の考えでは存在者(物)が存在する根拠は大いにあります。 まず歴史、因果律があります。そして存在性 存在を実現している性質が在っての事です。 それらが無ければ存在は存在できません。(存在は存在者・物) 存在が存在する根拠はあるのです。これは非常に大きな問題です。 例えば人に「あなたが存在する根拠はない」と言ったらどう思うでしょうか? 特に大哲学者がそう言ったら 大きな影響があります。 目が行かれてきました  どうも大変ありがとうございます。

noname#208724
noname#208724
回答No.9

私は少しだけ覚えていますよ。 存在性とは: 人が産まれるときには、みんなが幸せになるための性質が備わっている。 それは平和を求める心の素になっている。しかも自然の法則に従っている。でしたか? ちなみに仏教では、仏性といって、人が産まれるときには、その一切が整うといわれています。しかし成長する過程で、どこか曲がってしまうんでしょうね。 ―― おさな子が しだいしだいに知恵づきて 仏に遠くなるぞ悲しき (一休さん) スピード時代ともいわれるご時勢ですが、私たちはゆっくりと生きたいものです。 まあ私の説は、身体の細胞すべてに、心になる物質があるというもので、それこそ各方面での研究は、なかなか進まないとは思いますので、必然的にゆっくりと生きるしかないわけです。それに比べたらyuniko さんの説のほうが可能性があるでしょうに。 しばらくは、踊るアホウに見るアホウということで、ちょうどいいんじゃないですかあ。

yuniko99
質問者

お礼

一休さんの句は考えさせられますねえ。そう言われてみるとそうですねえ。 存在性については仰るような側面もありますが 物質でも生物でも人間でも精神でも その存在を実現するために必要、または有効な性質を存在性と名づけました。 成る程 どうも大変ありがとうございます。

回答No.8

 セム人が捉えた神は   《わたしはある》 それがわたしだ。   (エフィエー アッシェル エフィエー)  と言ったと説明しました。(ヤフヱーが 《かれ(=神)はあらしめる》という意味だとしたら その名づけと言いますか定義と言いますかは それほどおどろくにはあたいしません)。  けれども 《存在》が問題とされていることに間違いありません。  しかもこの場合は 神が語ったということは――神を人間が見たということは―― まづあり得ませんから そこのところをどう捉えるかが問われます。  どう捉えるかにかかわらず――つまり いやいや神などはいないと否定し《無い神がいる》という無神論を採るにしろ いややはり 神はいると思うと言って有神論を採るにしろ―― 次のことは確実ではないでしょうか。  すなわち 神のことにかこつけて 人間が《存在とは何か?》を問うているということはです。  問題は 目で見ているもの・耳で聞いているものは それとして――知覚にかんするかぎりで――存在します。つまり 存在すると一般に表現されることがおこなわれています。と同時に そうだとしたとき では《存在》とは それでよいのか? それだけのことか? となおうたがいが起きるということ。これら二つの側面があるということではないか。  知覚しうること以外は 存在しない。つまり無である。というとき では それでよいのか? それだけのことか? という問いがなお起きて来るはずだからです。 《無い とか 無だ》というなら その概念を定義してくれと言われます。  存在しないものを言うと答えるなら それなら存在とは何か? という問いに戻って来ます。  つまり 存在とは 感覚しうるものごとであって もうそれだけか? といううたがいです。  ここでもし 有ると無いという概念だけで世界を認識したと言うとすれば おそらく人間の思い上がりになるのではないか? おそらくそのときには 《人間の能力にかんするかぎりで 無いものは無いと決める》といったコトワリが必要になるでしょう。  このコトワリというのは 人間の経験的で相対的で有限で移ろいゆく知覚や認識の能力について それがすべてか? といううたがいを含んでいます。相対的な世界を相対的だと言うのは じつにその背景に絶対を想定していることになるからです。これは 人間の能力によっても可能です。絶対を想定していない相対性は ないのです。  こういった問題を見ないというのは――またヘーゲルやカントもやはりそういう問題は見ていなかったと言い張るのは―― おかしい。のではないでしょうか?   (ここまでとします)。

yuniko99
質問者

お礼

何なんですか「存在」とは? 無いんですか?無ですか? 何かがあると思っていたら無かった だから存在とは無だ と言う訳ですか? 実存って 何なんですか? これを質問しようかなあ? どうもありがとうございます。

回答No.7

質問の体をなしていない。 問題提起でもない。 質問を作るのは才能が必要なんだとつくづく思います。

yuniko99
質問者

お礼

それは申し訳ないです。

回答No.6

日本語ですから、「特殊」に対して「特殊性」があるように、 「存在」が個別の現象についての定義なら、「存在性」は それらに共通した要因でしかあり得ません。

yuniko99
質問者

お礼

特殊性:他と異なる特別の性質。・・・・・ では 存在性とは:存在な性質?存在の性質?存在の仕方の性質? 存在・・性質? どんな性質でしょう? 僕の考えた「存在性とはちょっと違うみたいではありますね。 どうも大変ありがとうございます。

回答No.5

存在は定義できない、ということを詳しく説明しましょう。 こんな哲学の初歩的なことをあなたに説明しなければならないとは、情けないですが、あなたが哲学というものをほとんど知らない以上、説明しないではいられませんから。 カントが「純粋理性批判」で、存在を述語ではないと言ったのは聖アンセルムスとデカルトの神の存在論的証明を批判するためでした。 アンセルムスは言います、 「神はそれ以上大なるものが考えられない存在者である。神は全知全能、完全無欠の存在者である。それ以上大なるものが考えられないものが、また全知全能、完全無欠の存在者が存在しないとしたら、それはそれ以上大なるものがない、全知全能で、完全無欠の存在者という定義に反するだろう、だから神は存在する、神は存在せざるを得ないのだ」と。 それに対して、神がいかに定義できようと、定義があるからと言って、そこから神が存在するということを導き出すことはできない。 なぜならば、神のそれ以上大なるものがないとか、全知全能だとか、完全無欠の存在者だとかいうのは神の述語であり、主語・神から分析的に導き出せる定義に過ぎない、それに対して存在は述語ではないから、いかに神がそれ以上大なるものがない、全知全能・完全無欠の存在者であろうと、そこから神が存在するということはできない。 このことから分かるのは存在は定義できない、ということです。 定義するということは、主語を述語することです。 つまり主語に含まれている事柄、性質や属性を分析的に展開することです。 だからもともと主語に含まれている以上のことを述べることはできないんです。 ところが存在は述語ではないんですから、主語には含まれない。 主語に付加するものです。 ではいったい何を付加するといえば、単にそれが「ある」ということだけなんです。 性質でもない、エネルギーでもない、属性でもない、単にそれが「ある」と言って定立しているだけです。 カントが言うように存在とは、主語の一般定立です。 一般というのは漠然として、全体的に、という意味です。 ハイデガーが言うように存在はいかなる「存在するもの・存在者・存在物」でもありません。 存在はすべての「存在者・存在物」を包括するものです。 個々の存在者・存在物は、「存在するもの」です。 ですが、存在はそうした「存在するもの」をすべて包括するものですから、「存在するもの・存在者・存在物」とは異なります。 あなたは存在と「存在するもの・存在者・存在物」を混同していませんか? 両者は区別しなければなりません。 なぜならば存在は抽象的な概念で、中身が何もなく、空虚で、その点からしたら「無」と同じものです。 ヘーゲルは「大論理学」で、存在も無も共に無規定だということでは同じである、と言っています。 つまり存在も無も、中身が何もなく、空虚で、空っぽという点では同じということです。 存在は定義できないのです。 無と同じものをどうやって定義できるんですか? ところがあなたは存在を定義できると言っている。 それが存在性とか、性質だとか、エーネルギーだとか言って。 しかし、定義できるものは存在ではなく、「存在するもの・存在者・存在物」です。 あなたはそれを混同している。 存在が無と等しい、ということは存在はいかなる「存在するもの」ではなく、無なんですよ。 あなたが定義できると言っているのは存在ではありません。 それは「存在するもの・存在者・存在物」です。 あなたは存在と「存在するもの・存在者・存在物」を混同しているんです。 存在はいかなる意味でも「存在するもの」ではありません。 「存在しないモノ」「無に等しいモノ」は定義できません。

yuniko99
質問者

お礼

>なぜならば存在は抽象的な概念で、中身が何もなく、空虚で、その点からしたら「無」と同じものです。 >「存在しないモノ」「無に等しいモノ」は定義できません。 え~~ そうすると つまり 早い話が 存在は存在しない と言う事でしょうか?? 存在の説明のはじめに神の話が出ましたが 、神の事は日本人はあまり知らないのでは? 存在するモノ 存在者 存在物 は存在するわけですね。 >存在が無と等しい、ということは存在はいかなる「存在するもの」ではなく、無なんですよ。 存在は 無なんですか?・・・ちょっと考えすぎなんじゃないでしょうか? 私は無知で、無恥であることは認めますが、存在は 無いんですよ って? じゃあ「存在」って何なんですか? 実存主義の思い込み?ヘーゲル・ハイデッカーの考え過ぎ? なんで存在なんて言葉があるんですか?存在って何を意味してるんですか? 哲学の為の哲学ですねえ。何の役にも立たない。 存在は存在しない??? パラドックスですな。 神と一緒ですよ 何だかんだと言ってるうちに 在りもしないものを「存在」と言い出した 精神でもない 物質でもない 実存?でもない 何でもない 無だ。そうでしょ? どうも大変ありがとうございます。

yuniko99
質問者

補足

ウィキペディア 存在(そんざい、英語 being, existence, ドイツ語 Sein)とは、 あること[1]。あるいは、いること[1]。また、そのある(いる)何か[1]。「歴史に存在する人物」「神の存在」のように用いる[1]。 (哲学) 他の何かに依存することなく、それ自体としてあるもの[2]。 ものの本質[2]。 (人間にとって)まず現実(リアリティ)としてあるもの。実存[2]。 《現象》として人の意識に映じているものや人が経験している内容[2]。

回答No.4

 こんにちは。  あなたの言う《存在性》とは 対話を始めてから 自分に都合のわるい事柄が出て来たときには 口をつぐむエネルギーを発揮する性質です。  相手との話し合いをとうとばず それによってご自分の《存在性》に傷つけるということが その《性質》にはふくまれます。  もっともご自分では それが《真理に則って現われる》ことだと言うのだそうですが。  (相手の発言を承けて 長くじゅうぶん考えることはあり得ます。けれども 同じ主題で そのように対話を中断して 別の問い求めの場をつくるというのは それは相手の・そしてご自分の《存在性》をないがしろにする《存在性》であると指摘せざるを得ません)。 

yuniko99
質問者

お礼

申し訳ないのですが ここは対話や議論の場ではありません。 まして挑発して質問者に返事しろという場ではないです。 そういうのは掲示板で飽きるほどやりました が無駄でした 時間の。 まあ悪く思わないでください いい回答をください。こっちが唸るような^^ どうもです。

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