性質は物の属性だから、色彩とか、形とか、重さを持っているとか、目に見えるものです。
ところが意識とか心とか精神は目に見えないもの。
それを同一視することはできない。
しかも、意識とか心とか精神は私だけにしかない、他人はあるかどうか分からない。
あると思っているとしたら、私にある意識・心・精神を他人に「投影」しているだけ。
デカルトのいうように人間の心的現象、思考・意志・感情・感覚はそれを直観的に知ることができるから存在することは確実だけど、そうしたものを統一し、総称した心とか精神は概念だから、概念的には存在するかもしれないけど、現実には存在しない。
たとえば、学校という概念があるけど、現実にあるのは生徒と校舎と教師だけで、学校というのはどこにも無い、つまり学校というのは概念なのだ。
それと同じ、心も精神も概念であって、実際に存在するのは心的現象と言われる個々の思考・意志・感情・感覚でしかない。
ベルグソンのいうように人間は内側から直観する限りでは、意識を持ち、意志を持ち、感情を持ち、感覚、つまり内的体験を持つが、人間を外側から観察する限りでは人間は機械とそんなに違わない存在であり、人間の脳は神経繊維・ニューロンと化学物質・シナプスの膨大なネット・ワークであり、その脳に心だとか精神が存在するわけではない。
アメリカの神経学者・マイケル・ガザニガの近著「<わたし>はどこにあるのか」という本によれば「脳は並列分散処理をしていて、そこに主体がいるわけではない。何があるかといえば処理の規則であり、最終的な決定権を持つ<誰か>がいるわけではない」と言っています。
いい換えれば、脳にはいかなる意味でも意識とか、自我とか、主体とか、私がいるわけではない、ということ。
あなたは「脳内の伝達物資やニューロンの電気伝達やホルモンや脳波や・・・・・そういった物質的・エネルギー的現象の性質面、そのような現象によって、目に見えない性質の反応が複雑かつ組織的に起こり我々の知る自我、我、意識、心、精神を実現していると考えます」と仰っていますが、それは現代の神経学・脳科学・神経生理学の知見とは違います。
それはすでにマイケル・ガザニガが言っている通りです。
「物質的・エネルギー的現象の性質面」と言っていますが、それはあくまでも物質的なもの、その物質的なものがどのようにして非・物質的な自我・我・意識・心・精神を実現することができるでしょうか?
「性質面」ってどういう意味でしょうか?
物質の性質面と言っても、物質であることには変わりません。
物質が何らかの精神的なものを持つことはできないのですから。
その物質でしかないものが、どうして自我・我・意識・心・精神を生んだりできるでしょうか?
そこが一番肝心なところで、現代のアメリカの「心の哲学」のチャーマーズやデネットの問題とするところです。
どのようにして物質でしかない脳が、非・物質である意識とか自我とか心とか精神につながっているのか、どのようにして物質から非・物質が生まれるのか、という問題です。
このことはひじょうに深い謎であって、神秘としか言えません。
ところが、前にも言いましたが、あなたは現代で大問題になっている物質と非・物質のつながりの謎を、いとも簡単に乗り越えてしまっている。
それではまるで、チャーマーズやデネットの苦労していることを嘲笑するようなものではないですか?
ご自分はチャーマーズやデネットよりも偉大である、そんな難問は解決したのだから、と。
そうなんですか?
素晴らしい!!
あなたは天才だ!!
お礼
私は天才じゃないですよ どっちかと言うとバカでしょうね。知能指数は100以下です。 哲学バカ?でしょうか。それももう年で新しいことは考える速度が遅いです。 先生のように古今東西の哲学者・思想家・心理学者の知見を勉強する余裕はありませんでした。 私の考えが正しいとは保証は出来ません。 自己採点では 割と高いのですが 68%位当たってると思います。 自分の頭の中では90%以上です。 マイケル・ザリガニもチャーマーズもデネットも知りませんが 自分で考えると30年も考えると それなりに納得の行く答えが見えてくるものです 私が考え始めた頃に考えたのは 哲学科や寺や教会その他文学をやっても 自分より優秀な人が今まで山の様に そのような挑戦をしたのに出来なかった事が出来る筈がない それならば僕はそのような先入見なしに 自分の頭で考えようと 倫社の参考書を5,6冊読んで ダイジェストを頭に入れてスタートしたのです。 と言う様なな訳で 精神と性質は共通点が多いので、精神は性質で出来ているであろうと 思っています。 どうも大変ありがとうございます。