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京都の西本願寺と東本願寺
京都の西本願寺と東本願寺 どうして分かれることになったのか、私は調べてもイマイチよくわからないので 簡単に 詳しくご説明していただけませんでしょうか?
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- titelist1
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織田信長に石山本願寺から退居を命じられた顕如は長男の教如と10年に及び戦うのですが、父の顕如はついに信長と和睦して退隠して石山から立ち去るのです。長男の教如は父の態度に反抗したので父から絶縁されるのです。 やがて信長が本能寺で殺されると秀吉の時代になり、顕如の妻から3男の准如を後継者にするように懇願されるのです。そこで秀吉はこれを認め准如を本願時の跡目に据えます。長男の教如は本願寺の片隅で裏方と称され、家康に近づきました。 秀吉の死後の関ヶ原合戦で勝利した家康は教如の訴えを認めて本願寺の東側に東本願寺を建ててやるのです。西と東を並び建てることで対立させて互いを牽制させたのです。 天下人の信長、秀吉、家康らと本願寺の父顕如と母、長男と3男らの反目が本願時の分裂の原因です。
- oska
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>京都の西本願寺と東本願寺。どうして分かれることになったの 一般的に、西本願寺と称しますが「本願寺」が正式な名称です。^^; 東本願寺に対して西本願寺と一般的に呼ばれるだけですね。 ※似た例で、伊勢神宮。本当の名称は「神宮」です。 この事でも分かる様に、(西)本願寺から独立したのが東本願寺です。 今の大阪城に本願寺がありましたが、信長・秀吉と戦っていました。 信長亡き後も秀吉と戦いましたが、最後は「和睦」。 この地を明け渡す代わりに、秀吉は(本願寺に対して)京都に新たな土地を与えます。 ※本願寺の勢力を恐れた結果、土地を与える事で融和を図った? 今の、(西)本願寺境内と隣の興正寺境内です。 ※興正寺は、明治初期に(西)本願寺から独立。 (西)本願寺には、秀吉に関係深い建物が多く残っていますよね。 が、秀吉との和睦に反対する勢力も(西)本願寺に存在したのです。 この和睦反対派が頼ったのが、家康です。 天下統一を願っていた家康も、(西)本願寺勢力を恐れていたので「(西)本願寺の規模縮小」を画策。 和睦反対派に、新たに京都の地を与えます。 今の、東本願寺境内です。 ここで、東・西本願寺が並んで成立し現在に至ります。 余談ですが・・・。 どちらも「親鸞を祖」としていますよね。 が、親鸞の墓は「東・西本願寺が、別々に管理」しています。 東本願寺は、大谷祖廟。(西)本願寺は、大谷本廟。 双方ともに、親鸞の墓地があります。
- あずき なな(@azuki-7)
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要は兄弟げんかです 信長に対抗する兄と融和を求む弟との対立ですよ
- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 親鸞は地位の低い貧しい貴族の家に生まれたため、9歳にして比叡山に行き僧侶となりました。やがて、青年になるに従って、どうしても抑えることのできない「性欲」に悩まされるようになりました。師と仰ぐ僧侶や兄弟子たちに、その話をすると、ニベもなく「修業が足りないからだ」と強いお叱りを受けました。 やがて、親鸞は比叡山を降りて京都東山に行ったところで専修念仏を説いていた法然上人にであいました。 親鸞は思い切って「性欲」の話をすると、法然は、 「僧が結婚しないと心を定めて念仏を唱えられないなら、いっそのこと結婚してしまいなさい」 と言われ、僧侶として恵信尼(えしんに)と結婚をし、初めての妻帯僧侶となりました。 やがて、法然の唱えていた「専修念仏」・・・つまりは、苦しい修行などは一切必要としない。ただただ「南無阿弥陀仏」とさえ唱えていれば、誰でもが「極楽往生」へ行ける、という教えを継承するとともに、これを「他力本願」と称し、さらには、法然を超えて「浄土真宗」と名付けて、その布教に努めました。 この教えはは、広く民衆に受け入れられ、爆発的に全国へと広まっていきました。 やがて親鸞の死後、大谷の地で夫である小野宮禅念(おのみやぜんねん)と共に親鸞の廟堂を管理していた親鸞の娘の覚信尼(かくしんに)は、門徒たちの結束を末永く保持したいという願いから、廟堂と土地、親鸞の肖像画を門徒たちに自由に管理、運営して良い、ただし、自分の子孫を廟堂管理の総責任者である「留守職」(るすしき)という職にすること、という約束を門徒たちと取り交わしました。 そして、覚信尼の孫である覚如(かくにょ)は、廟堂に「本願寺」(名称の由来は「他力本願」からきている)という額を掲げ、寺院として整備し、さらに教線を拡大していきました。 やがて、第8世蓮如(れんにょ)の時代になると、別称「一向宗」とも呼ばれるようになり、各地で守護大名たちと争いを始めるようになり、その拡大を恐れた織田信長と対立し、10年にも及ぶ石山合戦が始まりました。 決して、浄土真宗(一向宗)自体は、守護大名や領主を打倒するという教義(目的)はなく、むしろ、守護大名や領主たちの方が、例えば、年貢の取り立てを増量しようとしても、多くの民衆(一向宗門徒たち)が反対をして、言うことを聞いてくれない・・・などということから、一向宗の弾圧に乗り出したのがきっかけでした。 こうして、守護大名や領主たちと一向宗門徒たちとの間には、常に、敵対関係が生じて各地で一向一揆が発生していったのです。 織田信長と対立した石山合戦ののち、第11世顕如(けんにょ)は天皇の勅命を受け入れ、信長と和睦を結んだが、顕如の長男であった教如(きょうにょ)は、この和睦に強く反対をしたため、顕如はやむなく教如を義絶(破門)しました。 顕如の死後、豊臣秀吉により六条堀川に寺所を与えられ、教如は寺へ戻り第12世と称したが、顕如の側室であった如春尼(にょしゅんに)が顕如の譲り状(遺言書)を盾にそれを認めなかった。 そのため、教如はやむなく家臣と共に寺を出て、第12世は顕如の末子であった准如(じゅんにょ)が就任をした。 これ以後、准如の系譜を「本願寺派」(西本願寺)と呼ぶようになった。 教如は、しばらくは行き場を失って隠遁生活をしていたが、慶長7年(1602)、徳川家康が西本願寺の真向いに寺所を教如に与え、12代本願寺宗主として復帰させました。以後、教如の系譜を「真宗大谷派」(東本願寺)と呼ぶようになりました。 なお、余談ですが、徳川家康は、 「末代までも、浄土真宗を崇めること」 という遺言書を残すほどの浄土真宗の熱心な信者でした。
- bikkamu
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話は戦国時代にさかのぼります。 主人公は織田信長と本願寺法主の本願寺顕如率いる一向一揆衆。 通称石山10年戦争とも石山合戦とも言われる戦争です。 南無阿弥陀仏を唱えれば極楽浄土に行けると信じてる本願寺信者とゲリラ戦を仕掛ける雑賀衆、海路を通って一向一揆衆に物資を運びこむ毛利などの活躍と荒木村重の謀反でなかなか決着がつかなくて、焦った信長は本願寺法主の顕如へ和睦を申込み顕如はそれを飲んで終わった戦争です。(実際は教如が交戦を呼びかけていたため加賀の一向一揆と柴田勝家は合戦をしていたことを付け加えておきます。) ところがこれに異を唱えたのが、顕如の長男教如。 彼は徹底抗戦を主張、そのまま親子は仲たがいしたが、信長の死後朝廷の仲介で和解したものの、顕如の怒りは収まらず教如を廃嫡し3男の准如を嫡男としたが、顕如が死ぬと秀吉の命で教如が本願寺を継ぐことに。 ところが、顕如の妻で教如の母にあたる、如春らが顕如の意志を秀吉に伝えたところ、教如は隠居が言い渡され准如が後を継いだ。 ところがこれがお家騒動に発展。 教如を以前から懇意にしていた家康によって東本願寺が立てられ、これがもとで東西が分かれたという話です。 長くなってすみません。 説明が下手なので長いけどウィキペディアで調べたほうが詳しいですよ。
- notnot
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 の、信長との戦いのあたりから読むとよくわかると思います。
お礼
非常にわかりやすいご説明ありがとうございます!