※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:金ぴかの大仏様や豪華な祭壇に祈るのはなぜですか)
金ぴかの大仏様や豪華な祭壇に祈るのはなぜですか
このQ&Aのポイント
金ぴかの大仏様や豪華な祭壇に祈る理由について知りたいです。そのような宗教施設は多額のお金や労力がかかるため、なぜ造るのでしょうか。信心を集めるためなのか、教義に反しないのか気になります。
信心の対象であるイエス様やお釈迦様は貧しい状況で生まれ育ったと聞いています。しかし、なぜ彼らを讃えるために贅沢な宗教施設が造られるのでしょうか。食べることや着ることに困っている人々がいる現実を考えると、それらの施設は空虚に思えます。
素朴な疑問ですが、金ぴかの大仏様や豪華な祭壇に祈る理由を教えてください。そのような豪華な宗教施設が信心の対象であるイエス様やお釈迦様とどのように関係しているのか、また教義に反することではないのか気になります。
敬虔な教徒の方々には不躾な質問かもしれません。
気分を害してしまったらごめんなさい。
前提として、
当方は多額のお金を失った経験から贅沢や金銭そのものを嫌悪しているきらいがあり、
巨大で豪華な宗教施設への強い違和感があり、居心地が悪く感じてしまいます。
美しいものは好きですが、その為のお金や労力のことをどこかで考えてしまいます。
(こちらは精神医学の分野ですので言及はお控え頂ければありがたいです)
そこで質問なのですが、なぜあれほどに豪華な像や建造物、品物を造り崇めるのですか?
より多くの信心を集める為ですか?
イエス様は誰よりも貧しくあるため、馬小屋で出生されたと聞きました。
お釈迦様は生に苦悶し王子という身を捨てて出家されたと文献で読みました。
過ぎる贅沢は教義に反しはしませんか?
食うに困り、着る物や雨風を凌ぐに困る人がいる世では、どれも空虚に思えます。
またこのような信心を持たない者でも、お話頂けるお寺さんや教会をご存知でしたら
ぜひお教えください。
お礼
みなさん、この度はたくさんのご回答をお寄せくださり、ありがとうございました。 このように罰当たりな質問に対し13ものお答え、心遣いを頂き大変恐縮です。 一つ一つの回答に納得したり感心しながら読むうちに、 どうお礼を伝え、ベストアンサーをどうするか本当に迷いました。 一つしか選べなくても私にとってはどの方も大切な回答です。 多くのご親切に対してうまく言葉を返せない不義理をどうかお許しください。 仏教、キリスト教、イスラム教、それぞれの宗教においても宗派によって 様々な価値観を許容される度量があると知れたことは大きな収穫でした。 ありがとうございます。 当方の元々の中途半端な聞きかじり知識のせいで混乱している気があるので もう少し個人的に勉強させて頂き、宗派を含めて自分にあった生き方を模索しようと思います。 また皆様からは当たり前なお考えかもしれませんが ”やっぱり人間は「何か」を拝みたい性分があるのだと思います” ”金儲けは、人間の本質です。だからそれをセーブする必要があります。” ”集団で共同作業の結果、金ピカと言う形で結実することが大切” ”そんなお金と言うものを使いこなすのも、また徳のあること” ”幸福が金銭そのものとはとても言えませんが、それを絶対に無視することもできません。” ”人々に信じられ、敬われているんですよ。好きな人を大切にするのと一緒” "世の中に貧富の差があるのは当たり前のことだと思っています。 寺や神社が栄えていても違和感はありません。 むしろ、お金が無くて衰退してほしくはないので寸志を差し上げています。" というのは私にとってはエポックメイキングな発言でした。 身銭をあまり持たない自分は、思想から閉め出された気がしていたのかも知れません。 今回ichikawaseiji様をベストアンサーにさせて頂いたのは、 それぞれの宗教を挙げてお金に対する考え方を明確に示してくださったこと、 また複雑な質問にも関わらず、分かりやすく言葉を尽くしてくださったことが理由です。 >富貴を尊び卑賤を卑下しませんでしょうか。 生活が変わる以前は(具体的な名称は申し上げませんが)輝かしいと思えたものが 胸焼けしたりケバケバしいというふうに感じたのです。 そもそもの前提に不備があり申し訳ないのですが、私がお金を失ったのではなく、 私の親族がお金を知らぬ間に使い果たしていたという事態でして、 ある程度の水準の暮らしをしていたことが夢であり、どれだけ今はお金を持っていても 諸行無常感というか、お金と言う物の信用は幻のように実体がないと感じるのですよね。 他にも言及してくださった方もおいでですが、当方の価値観は少数派と理解した上で、 あくまで質問に必要な前提としてご説明したまでですので 何を美しいと思うかが180度変わってしまったというのは、 多分生きていく上で必要だからそうなったのだと思いますし、治せるものかもわかりません。 >敢えて非日常的な行為である礼拝に訪れた人々も非日常的な空間に納得するのではありませんでしょうか 日常生活をおくられている空間よりも貧相なダンボールハウスのような所へわざわざ出かけていかれますか。 普段着よりも貧相な服装で結婚式などの儀式に参列されますか。 はっとさせられました。 >以上大雑把に説明しましたが、構築物を所有する寺院や教会側の問題ではなくそこに集まる人々全体の心の動きがもたらしているものだとお考えください。 心に留めておきます。