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哲学科について
哲学科で学ぶ人はよく、変わっていると言われます。 私には何が変わっているのか分かりません。 人が考える事は自然な現象だと思うのです。 ひとりひとり違うことを学んでいたとして、哲学科で学んでいた人だけ、変わっていると捉えられる現状を疑問に思います。 何を普通として考えているのでしょうか。 この世に同じ人間はいません。 善人、悪人ならば理解できます。しかし、普通の人ってなんですか。 何が変わっているのか教えて下さい。
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ヘーゲルは哲学は「転倒した世界である」と言いました。 つまり哲学者は私たちとそんなに違わない、普通の人ですが、その見ている世界が、同じ世界でも、「転倒した世界」なのです。 何が「転倒した世界」なのか、具体的な説明は難しいのですが、私の体験からすると、18歳の時、電車の中でショーペンハウワーの「意志と表象としての世界」を読んでいて、その第2巻の冒頭の文章を読んで、電車の乗り換えのために、ホームに降り立った時、突然、光が煌めいてバーッと明るく閃光が走り、それまで見えていた世界がまったく別の世界に見えてきました。 宗教的な「啓示」とか「回心」の体験によく似ていました。 もちろん、だからと言って、世界が何一つ変わったわけではありませんでしたが、底が抜けた、というか、世界は何の根拠もなしに虚空に浮かんでいるように見えてきました。 ちなみに、ショーペンハウワーの該当箇所の文章を下にあげておきましょう。 「無限の空間に無数の光る球があり、そのひとつひとつの周りをおよそ1ダースほどの照らし出された小さい球がグルグル回っているが、その内部は熱く、堅くて冷たい皮におおわれており、その皮の上で、これを覆っているカビが認識する生命体を生み出した。・・・・・これが経験的真理、実在であり、世界である。けれどもこの生命体は無限の空間で思いのまま漂うあの球の上に存在して、どこから来て、どこへ行くかを知らず、休む間もなく迅速に生成消滅を繰り返えしつつ、初めも終わりもない時間のなかで、押し合いへし合い苦しむ、数えきれない似たような存在のひとつに過ぎない」 どうですか、実に壮大なヴィジョンです。 自分が地球の上のカビに等しい存在であり、押し合いへし合いしているけど、どこから来たか、どこへ行くかも知らず、生成消滅を繰り返して、気がついた時はもう自分は存在していない。 私は思いました、いったい、この自分というのは何なんだ? そして、世界というのは何なんだ? 私たちは日常生活をしていると、世界が存在することは、そして自分が存在することは、当たり前のように思えますが、実際は何も見ていない、ということが分かります。 私にとって、その駅のホームで体験したことは、ヘーゲルの言うように「世界がひっくり返った」ことを意味しました。 そして、私は思いました。 「なぜ、この世界は存在するのか? 存在しなくても良かったはずなのに、存在している、これはなぜだ? そしてもう一つ、この世界を覗き込んでいる私という存在がある。この私というのは何なんだ? 私というのは誰なんだ?」という疑問でした。 どうして世界は無でなくて、存在なのでしょうか? 以来、半世紀、私はずっとそのことを考えてきました。 だけど、今もって、そのことが分かりません。 アリストテレスは「哲学とは、世界を目の前にする驚きである」と言いました。 何事であれ、何ものかが存在することは驚異です。 世界は、そして宇宙はなぜ存在するのでしょうか? 無でもよかったはずですが、どういう訳か存在しています。 こんな不思議なことが、世の中にあるのでしょうか? たぶん、あなたでも、世界が、宇宙が存在するのを見ているはずです。 でも、根本的な疑問、なぜ存在するのか? という疑問には襲われなかったのだと思います。 なんと言っても、日常生活がある、学校の授業があり、友人との語らいがあり、両親・兄弟との楽しい団らんがあります。 社会に出れば、職業を持ち、日々の課題をこなさねばなりません。 そうして哲学の初心、世界が存在していることへの驚異の念は失われて行き、日常生活に埋没してゆきます。 世界が存在していることは自明であり、当然のことです。 それが存在しないなんてことがあるでしょうか? 私はショーペンハウワーの壮大なヴィジョンに触れて、普通の日常生活が送れなくなりました。 そんな些末なことなんかどうでもいいものに思われてきました。 なぜ、世界が存在しているのか、ということを考えることに比べたら、自分の職業だとか、結婚して家庭を築くことなんか、些末などうでもいいことです。 かつてニイチェは言いました。 「どう生きるかよりも、なぜを考える方が一倍も大切なことだ」と。 つまり「いかに」よりも、「なぜ」の方が大事なのだ、と。 ショーペンハウワーは若い時、母親の主催するサロンで、ドイツの有名な文学者の質問「どうしてあなたは哲学をやろうと思ったんですか?」と問われ、「人生は不可解です。私はそれを解明することに一生を捧げるつもりです」と答え、感心されたと言います。 世の中には、世界の謎に取りつかれ、それで一生を棒に振る人間もいるのです。 たぶん、あなたから見ると、そういう人間は変わっていると思うんでしょうね? 私自身は別に変っているわけでも、そのつもりもありませんが、世間の尺度から見たら、変わっている部類に分類されるかもしれません。 ただ、私は自分が18歳の時に「啓示」を受けて、「回心」の体験をして、その謎を解くために一生懸命に生きてきただけなのですが。 批評家の故・秋山駿は「ある種の人間は18歳の時に精神的な革命に遭遇することがある」と言いました。 まさしく、私は彼のいうとおり、精神的な革命に遭遇して、人生が大きく転換するのを体験した人間でした。
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- kurinal
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thezzw3325様、こんばんは。 別に。 とにかく、「普通」ではない、のでしょう。 レッテルを貼って。自分たちは「普通」なんでしょう。 ははは。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんばんは。 哲学科で学ぶかどうかは ふつうの人間かどうかとは関係ありません。 哲学にかかわってふつうの人間とちがうという場合は 認識論を重んじるクセがあるというものです。 それが高じると 認識でおのれ自身や世界のすべてが決まると言い張るようになります。 あるいはつまり 認識内容を行動に移すというときの意志行為 この意志についても認識論者は 意志とは何か等々の認識をもって代えることが出来るとまで思い詰めて行きます。意志とは何かが分かれば その意志行為をおこなったことになるというまでに振り子は極点に振り切って行きます。 あるいは 別の見方から行くと だいたい西欧哲学に片寄って行くクセがあります。せいぜいインドおよび中国までであって 日本人の生活における生活態度としての思想には とんと疎いというクセになって現われます。 これらは 哲学をしていようがいまいが ふつうの人間には見られないクセです。 悲母観音の絵の中の幼児(あるいは胎児?)が何かにつつまれているのとあたかも同じように 認識内容としての繭の中にやすらかにおねんねしているというクセです。積極的におねんねしに行こうとするようなのです。
- Key_A
- ベストアンサー率9% (55/603)
ここの哲学カテには、頭のおかしい者が非常に多い。毎日のように質問してるのは病人ばかりだが。一通り見ればわかります。質問者もこういう目で見られているのです。 それ以外ですと、就職時にどう役立てられるのかという違和感やね。
丁度 このサイトで「哲学」のカテゴリーで質問してる人達の質問を見なさいな・・ どれだけ 頭が硬く そして どの質問にも 答えが多数出る質問になっています・・ 哲学とは 質問はするが 正解は無いものなのです・・ 例えば科学なら 立証もあるし 明らかに昔と今とでは進歩してる 医学も又 現代医学は進歩してる 宗教に於いても 既に進歩し 今では 修行に絶食や水行等も しなくなって来ています・・ しかし 哲学は 昔から 質問だけ・・明確な答えが出ないまま 未だ 質問責めになってる事が解かりますよ 土台 哲学者は 変わり者というより ひねくれた考えで屁理屈を言ってるに過ぎない‥
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11074/34516)
>普通の人ってなんですか 一般の人々が「普通の人」というとき、それは一般大衆の多数意見だと思えばいいかなと思います。 その場合、一般大衆の多数派は、そもそも「普通の人とは何だろう?」ということは考えずに生きています。「この世に、普通じゃない人っているのか!?」なんてことは考えないのです。 哲学って、めんどっちい学問ですよね。例えば「マクドナルドのハンバーガー」というと、世の一般大衆の多数派はあのマクドナルドで出てくるハンバーガーを想像し、そのことに対して一切の疑問も持ちません。「それで当然だろ?」と思います。しかし、哲学者は「もしマクドナルドでモスバーガーを作ったら、それはマクドナルドのハンバーガーか、それともそれはモスバーガーか」などとめんどっちいことを考え始めます。揚句には「我々が目にしているハンバーガーとは、ハンバーガーなのだろうか」などと訳の分からないことを考えます。それが哲学ですよね。普通の人、とあえてここではいいますが、世間の大多数の人はそんなのいちいち考えないのです。だって疲れるから。他の人はもっと他のことに興味を持っていて、そっちにエネルギーを注いでいるのです。 またよくいわれることですが、大学の哲学科を卒業してもまず就職には役に立ちません。就職後にも大学で学んだことはほとんど役に立たないでしょう。役に立つ、立たないでいえば他の文系学部でも役に立たないところは史学だの文学だのあります。しかし、史学や文学は趣味としてはある分野を確立していまして、歴史好き芸能人とか、文学好きが嵩じて小説を発表した芸人さんもいましたよね。そういう意味では、趣味の世界というか、その業界でブレイクする可能性もありますが、哲学は趣味の世界としても史学や文学のように確立しているわけではありません。仕事で使える(お金儲けができる)わけでもないし、遊び(趣味)で使えるわけでもありません。 さらに哲学にはもうひとつ問題があります。最古の学問のひとつでもある哲学は、鉱山で例えるならもうほぼ掘り尽されています。天文学も何の役に立つのか分かりませんが、しかしまだまだ未知の分野があり、新たな発見が期待できます。学問にとって新たな発見というのは研究者の重要なモチベーションとなるでしょう。 しかし、哲学はもうほとんど研究され尽くしてしまって、今から何か新たな発見があるとすれば、ニーチェやレヴィ・ストロースのような天才のひらめきに期待するしかありません。凡人の努力では未開の地は見つからないのです。 「何も新しい発見がないことを研究してどうするの?どうせ何かを大学で学ぶなら、もっと新しい発見ができる(あるいは何かの役に立つ)ことを勉強すればいいじゃないか。変わってるねえ」 というわけです。 蛇足:なお、これは一般大衆の多数派意見を「右代表」として述べたにすぎず、質問者さんに対する個人的見解を述べたものではありませんことを申し上げておきます。
- 雪中庵(@psytex)
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現代社会において認識とは、社会の歯車として 使役されるためのテクニカルな並列的知識であり、 哲学や思想のように統合されて世界観を成す目的 ではない。 現代人は、お金や出世といった“馬車馬の目の前の ニンジン”によって他律的に操られるようになって いる以上、哲学=世界観や価値観は無用な『何か 怪しげなもの』になってしまっている。 人の生きる目的が「物の豊かさ」ならばそれで良い。 しかし「心の豊かさ=精神的充足量の最大化」で あるならば、自己の環境としての認識の深まり= 意識としての宇宙の鮮明さは、主要な関数であり、 バラバラな詰め込みの知識ではなく、総合的な認識 の深まり(哲学、思想)は、最優先の要因となる。