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時代劇でお金に関係するシーンについて
- 「暴れん坊将軍III」のある回で、ニセ検校が盲人に対する募金を集めるが、実はそれは若年寄へのワイロに使われる計画であった。
- め組の居間でおはるがおさいに寄付金として1人1朱を取り上げられていることを聞く場面がある。
- おさいがおはるに1朱と知らせているが、その価値は現在では幾ら位か?
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No・1です。 吉宗の時代とすると、1朱が出てくるのは誤りで 時代考証不足といえますが、創作ドラマで楽しむ 物なので、咎めだてする程のことはないでしょう。 腕のよい大工は1日に銀5匁の給金だそうで、 月20日働いて、銀100匁、約1両2分、即ち 月約24朱の収入があります。 宵越しのかねは持たねえという、きっぷのよい職人 なので、時には1枚1朱の富札を2枚以上買って 楽しんだことでしょう。 手取り月30万円のサラリーマンが、時にはパチンコ や宝くじに3万円を注ぎ込むようなものです。
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- Pinhole-09
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No.1 です。補足を頂きました。 ドラマは見ていないのですが、設定にも問題があります。 吉宗の時代だとすると、当時は1朱の金、銀貨は発行されて いませんでした。 当時は1両小判以下は 1分判金、2朱判金、のみで銀貨は 丁銀、粒銀の秤量貨幣だけでした。 従い1朱よこせというのはありません。 約260文(1朱相当)よこせとなります。 1月800文の給金とは噴飯ものです。 辰五郎を新門辰五郎とするとそれより約50年後になり 1朱判金、1朱銀が文政初期より発行されたので、辻褄は 合いますが、1朱の価値が下がっており激怒がおかしく なります。 文政期の長屋(9尺2間の裏長屋より上等な)に住んだ職人 の生活費の記録があります。 年収は23~25両です(家賃は月約1貫文) 今の暮らしに比較するのは難しいのですが、生活水準が今より 低いので、年収300万円位とすると、1両は15~16万円 と推定されます。 それは兎に角、1朱は月収2両の32分の1で1日分ですから ひどく痛いという程ではないでしょう。 ただし吉宗の時代とすると、裏長屋住まいの貧乏人や、下働きの 女性などでは痛いかも知れません。 それでも1朱はおかしいので、2朱金1枚よこせとなると、一応 ストーリーはつながります。 住み込みの女性で給金は1日50文とすると辻褄は合います。 1日最低100文とは思いますが。 余談ですが流行の江戸富籤で、富札は吉宗の享保期は、1枚2分 の高額でしたが、文政期は1枚1朱になりました。 長屋の連中は7~8人が組んで2分の札を買ったそうです。 (1人約1朱)
補足
歴史上の一口メモ的な話を、たっぷり回答して頂き、有難うございます…。 「山本さん扮する、おはるが、激怒したのは、おかしい」と、言う事は… 「問題の1朱自体が、当時なかったので、あり得ない話」と、見て、良いでしょうか? ただ、最後に、回答された、富くじ(宝くじ)ですが、確かに、「暴れん坊将軍」に、関係無くですが、回答の内容の様な感じのシーンで、登場した時代劇は、何回か、見てます。 しかし、同じ長屋の住人でも、「ベテランの大工さん等、比較的収入の多い職業の人なら、2~3枚程度、自分の金だけで、富くじを買った…」シーンが、入った時代劇も、何回か、見た事あります。
No.2です 補足を頂戴しました。 「千両がどの位の価値があったか」とのことですが、町人と武家とではインパクトが大分違っていた、とお考えください。 町人は己の才覚で幾らでも収入を増やすことができました。 武家は、浪人として主家を離れない限り基本給が支給されていました。 幕臣の場合には住居も支給されていました。 最下層の御家人で約200坪ほどの土地と家屋でした。 江戸時代は住むだけであれば土地は幾らでもありました。 結果として住むだけの屋敷で200坪というのは広いというほどのものではありませんでした。 ただし、この屋敷も基本給も親子代々一定で変化はありませんでした。 子供が沢山いても相続できるのは一人だけでした。 武家は他の職業に就くことは禁止されていました。 他家へ嫁入りするか婿入りしない限り、この相続した人に一生養ってもらうことになります。 男性の場合には「厄介」と呼ばれました。 正式な呼称です。 自己紹介の際も○○家厄介△兵衛などと名乗りました。 収入を増やすには役職に就いて役職手当を貰う以外に方法がありませんでした。 この役職も習慣的に親子代々引き継がれていました。 つまり、簡単には新に役職に就くことはできなかったということです。 ドラマで賄賂を受け取る立場のような人は旗本と呼ばれていました。 武家の組織は軍事組織ですから、旗本という階級であれば収入である基本給の石高に応じて家臣を養う必要がありました。 この家臣の給与は自分の基本給の中から支払うこと、とされていました。 更に出歩く際にはこの家臣の他に槍持や荷物持(挟箱持)草履などの武家奉公人をぞろぞろ連れて歩くことが習慣的に義務付けられていました。 更に乗るか乗らないかは別にして馬を飼っておく必要がありました。 奥様は槍持は連れていないもののお女中を連れて歩く必要がありました。 TVドラマのように気楽に一人でホイホイ出かけて行くことができなかったということです。 これらの全ての費用は基本給で賄う必要がありました。 結果として旗本本人の小遣いは年に1~2両程度でした。 御家人と旗本の境界は200石でした。 「200石泣き笑い」などという言葉もありました。 千両という現金は武家にとっては途方もない価値があったということになります。 このような社会ですから慶弔などの贈答に最も喜ばれたのが小判すなわち現金です。 形式社会ですから、送る小判の量が多いほど相手を尊敬していると看做されました。 つまり、どこまでが慶弔でどこからが賄賂なのか判然としない時代でした。 これに対して町人は基本給や家屋敷は保証されていないものの全て才覚次第で収入は幾らでも増やすことができました。 おまけに、長屋の熊さんや八っさんは無税で、お祭りの費用も負担する必要はありませんでした。 税金は基本的には地主が負担していました。 町内の経費やお祭りの費用を負担していたのは辰五郎親分のような人達でした。 幕府の収入であるお米を現金化する仕事をしていた札差などという人にとっては千両は小遣いに毛がはえた程度の金額でした。 なにせ吉原の遊郭で一晩で百両は使う人達です。 ちなみに浅草浅草寺のお賽銭が平均で年に2250両ほどありました。 タイムスリップしたら権力を持った武家がいいですか、町人がいいですか? 同じ町人でも気楽な長屋暮らしもまんざら悪くはないでしょう。 年に10両は稼いでいました。TV時代劇などの奉行所の与力の年収が約25両ていどでした。 仕事帰りに気楽に屋台で寿司など摘まんだり一杯ひっかけていました。 側をぞろぞろお供をつれたお武家が、武士は喰わねど高楊枝、などと見栄をはって通り過ぎていました。
>現在の価値で、言えば、幾ら位か? これは、実は相当に厄介なご質問です。 お米の値段を比較して1両は10万円だとか16万円だとかよく言われますが、非常に無理があります。 そそもそも生活費が違いますので、自ずとお金の価値が違ってきてしまいます。 暴れん坊将軍つまり吉宗の時代を想定したドラマですので、当時1両が約6000文程度でした。 1両は16朱ですから、1朱は375文ということになります ご質問の文章からすると10日分の給金と言っていますので1日37.5文ということになります。 ただし、当時の職人の手当は1日250文~300文でした。 長屋の家賃は手当の2日文を想定して500文/月以上でしたので、給金の日割り計算が安すぎます。 最低の人足でも70文は取っていました。 親分の家の給金が恐ろしく安いということになってしまいます。 辰五郎のような稼業の場合には奉公人は住み込みで年俸制でした。 衣食住が全て現物支給ですので、現金はほんの小遣い銭程度が年に数回手渡されるだけでした。 こうなると10日分の給金という考え方も、???となってきます。 TVの時代劇の辻褄合わせはさておいて、ご質問の1朱の価値はどの程度かというイメージを当時の物価を幾つか書いてみますので想像して下さい。 そば(もり、かけ) 16文 天麩羅そば 32文 お汁粉 16文 酒 1合 12文(安酒) 36文(最高級) 丼めし 12文 うな重 200文 足袋 一足 190文 傘 400文 浴衣 1400文 食費に比較して衣料費が高額なことに注意して下さい。 長屋の家賃よりも新品の浴衣の方が高いことに注意して下さい。 庶民は日常は安い古着を着ていました。 同じ着物に季節によって裏をつけたり綿を入れたり出したり剥いだりして着ていました。 丼めしよりもそばやお汁粉の方が高いことに注意してください。 江戸の街では米が量的には一番安い食べ物だったということです。 まぁ~現在も学生街ではライスの方が安いですかね 上記のように1朱は今のお金で幾らか?というのが簡単に答えがだせないことをご理解願います。 注)小判1両と一文銭との交換比率は公定では1両=4000文でしたが、時代が進むにつれて銭の価値が下がっていきました つまりインフレが進んでいたということです。 幕末の物価暴騰時には6800文前後まで価値が下がりました。 蛇足 江戸時代には大阪を中心とした関西では銀貨が主としてつかわれていて金貨である分や朱は殆ど使われていませんでした。 小判は江戸も関西も大口取引につかわれるだけで庶民は全国共通で銭(文)を使っていました。 元禄時代の関西が主体であった歌舞伎や浄瑠璃で「もん」と言う時は銀貨の重量の「匁」を表していますので注意して下さい。 この銀貨と小判との交換比率も相場で決められていました。 簡単に言いますと、二種類の単位の違う通貨が流通していたということです。 これを銀貨から銭へ金貨から銭へと各々の地方で交換していましたから、相当にややこしい時代だったとお考えください。 平たく言いますとドルと円が同時に国内で流通していたのと同じ現象が起きていたと考えて下さい。 確定していたのは、両、分、朱という単位だけです。 更に銭も数量が多くなりますと面倒なので1000文を1貫という単位で呼んでいました。 つまり同じ「貫」という言葉でも銀の1貫と銭の1貫では全く価値が違うということです。 時代小説を読んだり古典を読まれる時には充分注意して下さい。 以上ですが何かあれば補足で追加質問をお願いします。
補足
回答、有難うございます…。 現在の価値より、そば・お酒等、食品の代金、衣料品の代金で、分かり易く、回答して頂き、有難うございます…。 確かに、暴れん坊将軍シリーズで、同じ様なシーンが、入った回では、若山源蔵さんが、担当してる、ナレーションで、「当時の価値で、そば一杯分の値段」的な言い方で、説明してるのは、良く見てる為、分かります。 因みに、質問の発端の回の問題のシーンの後には… 「橋本功さん(故人)扮する、ニセ検校は、北町嘉朗さん扮する、ボスの自宅で、「さすが、百万人の都市、江戸で、例の寄付金として、約千両が、集まったので、ワイロとして、渡します」的な内容で、報告してから、同行した部下経由で、北町さん、扮するボスへ、渡した。 その部下は、大福帳(メモ帳)を、見ながらだが、「正確な金額は、954両と、2分3朱が、集まってます」的な内容で、報告した」シーンが、登場してました。 この「千両」だと、現在の価値的には、どうでしょうか?
- Pinhole-09
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江戸時代の1朱は16分の1両です。 但し1両の価値は時代により変化します。 暴れん坊将軍吉宗の時代は、1両は今の 約16万円と考えられています。 従い1朱は約1万円です。 ちなみに、時代が下がれば1両は約8万円に なり、幕末には約4万円にまで下落しました。
補足
回答、有難うございます…。 暴れん坊将軍で、登場した、問題のシーンですが、山本さん扮する、おはるは、少し激怒してた様に、思います。 ですので、「1朱は、高額な金額」と、思いました。
お礼
何回も、補足を入れた時は、一口メモ的な回答たっぷりで、回答して頂き、有難うございます。 「より詳しい、回答なので、BAにしたい」と、思います。 又、質問した時は、よろしくお願い、致します…。